Purgatory
気付けば自分の部屋にいた。
恐ろしいことが起きた気がする。少年がその全容を把握するより先に、人間とは隔絶した怪物の眸は彼を捉え、次の瞬間には意識が途絶えた。
家庭祭壇に飾られた笑顔の己の写真と、その前で泣き崩れる父母の後姿が、齢十七にして死したチェスター・ストックウェル(幽明・h07379)が最初に見たものだった。|幽霊《ゴースト》となって語り掛ける愛息の姿を捉えることも叶わぬ彼らが振り返ることはない。茫然とする耳を、付けっ放しになったニュースがすり抜けていた。
――連続爆破事件、またも。今度はイギリスで。
東から遡上して来た謎の殺人鬼は、一国につき一つの建物を破壊するのだという。たまさかその猟奇的な事件に巻き込まれたチェスターの骸は天の国へ戻り、魂だけが家族への未練の果てにここに立っている。
神の御許に昇れなかったとしても、その姿が傍にあることは幸いであったろう――もしも少年の家族にエクソシストの素質があったなら。
父は言った。チェスターはもうこの世にはいないと。
母は言った。二人でチェスターに会いに行きましょうと。
「やめてよ、なあ、父さん! 母さん!」
――自ら命を絶つことは断罪の対象である。神の国にて全ての安寧を得て在ると信じて疑わない一人息子に二人が会うことは、彼らが|それ《・・》を選択した時点であり得なかったが、悲しみの悪魔に取り憑かれた今となってはどうでも良いことだったのだろう。
チェスターには一瞥もくれぬまま、血を吐くような静止の言葉も聞こえぬままに、二人は準備を整えた。涙を零し、笑顔でいっときの別れの挨拶を交わした二人に躊躇はない。
祭壇の前で毎日悲鳴のような声で泣いて過ごしていた母も、職を辞して酒に溺れていた父も、永遠の火に入った。
遺されたチェスターの前に彼らが顕れることはなかった。心配した親類が様子を見に来て、見得ない少年越しに悲鳴を上げる。体をすり抜けて父母だったものに取り縋る人々を、彼は茫然と見詰めていた。
――それからの後、ストックウェル邸は幽霊屋敷と噂されるようになった。
蜘蛛の巣の張った廃墟である。住む者がなければすぐに朽ちる家の中には絶えずポルターガイスト現象が満ち、どこからともなく少年の囁き声がするとして有名だ。曰く、爆破事件に巻き込まれて死んだ少年がそうするのだという。
大きな父の手はもう彼をどこにでも連れ出してはくれない。優しい母の手はもう彼の好物を作ってはくれない。虚しく笑う三人の写真も、十年を超える月日に朽ちかけている。
それでも。
ここはチェスターの家だった。
◆
此度の来訪者は帰ってはくれなかった。
手強いな――と思うまま、チェスター少年は空気の抜けたサッカーボールを転がしている。世代が変われど大した差のない不良たちは、皿の破片でも飛ばしてやれば簡単に悲鳴を上げて逃げ帰ったものだ。しかし今回の侵入者は、どうやらただの勇気試しが目的ではないらしい。
巌のような顔つきの東洋人である。どうやら常人には見得ぬものが見えるらしい彼は、猫に似た相貌の少年を真っ向から見据え、見目に違わぬ低い声を零した。
「チェスター・ストックウェルだな。日本から来た――警察だ」
流暢な英国語だった。
|アメリカ語《・・・・・》でないのは気に入った。それで、挨拶代わりに硝子を飛ばすのはやめる。
「東洋人のおじさんの癖に上手いじゃん」
「この国で何年も捜査をやってる」
揶揄いに想定したような激昂も動揺も見せず、男は誰にも見えないはずの少年を真っ向から見据えた。
「連続爆破事件の被害者がこの世に残ってるとは思わなかった。探し当てるのに苦労したぞ」
曰く――。
彼は派遣捜査員であるらしい。一国ごとに一つずつ、東から遡上するように爆破していく猟奇的テロリストを見つけ出すために、最初の事件が起きた日本からやって来たという。
「そんで十年以上も未解決? マジで終わってる」
「――|あれ《・・》は人間ではなかった」
「知ってる」
目を合わせた瞬間に理解していた。
サッカーボールを持ち上げて溜息を吐く。相手はどうやらとんだ堅物であるようだ。このままのらくらと躱していて離してくれそうにはない。
「で? 今更になって事情聴取? なら帰ってもらうよ」
今度こそ、チェスターは鋭い硝子の破片を投げつけるように飛ばした。しかし。
まるで何らかの意志によって捻じ曲げられるように、即席の刃は男から逸れて床に突き立った。微動だにせず、まるで何事もなかったかのように立つ彼に、少年は目を瞬かせる。
チェスターの興味を惹いたと悟って初めて、男は唇に薄い笑みを刷いた。
「事情聴取ではないが、協力を仰ぎに来た」
汎神解剖機関なるものの管轄下にあるという男は、強大な√能力者をスカウトしに来たのだと言った。
どちらも聞き覚えのない言葉だった。しかしどうやら彼のような存在は世に散見されるものらしい。何れも特殊な力を持ち、各々の殉ずるべきものに殉じているようだ。
英国は彼らとは別の組織のテリトリーに近しいという。だからこそ|回収《スカウト》を急いだと赤裸々に告げる男を脇に、少年は手の中のボールを見詰め、暫し黙考する。
それから。
唇に小生意気な笑みを刷いて、頷いた。
「――面白そうだね。退屈してたんだ、|幽霊屋敷《ここ》に来る|不良連中《gits》は腰抜けばっかりでさ」
「契約成立か」
「まあ、そういうことで良いよ。契約したって働くかどうかは俺次第でしょ」
何しろ享年十七歳である。労働法上は単なるパートタイム・ワーカーに過ぎまい。
溜息を吐いた警察――管轄上は|警視庁異能捜査官《カミガリ》なるものに当たるらしい男は、渋面ながら首肯を返した。大袈裟に指を鳴らして笑うチェスターの内心は、契約の成立よりも、先から上手に立たれている印象のあった男への意趣返しに成功したことへの喜びに満ちている。
「それじゃあついて来い。契約書を書いてもらわなきゃならん」
「|ください《Please》、は? 大体俺ペン持てないし」
「さっきから色々と飛ばしてるだろうが」
鼻高々といった調子で減らず口を叩きながら、チェスター少年は長らく出たことのなかった部屋を振り返った。
ここを守ることを止める気はない。しかしここの他にしかと保障された宛が出来ることは、少年にとっては悪いことではなかった。
「おじさん」
「おじさんはよせ」
「本当のことでしょ、おじさん。一個だけ教えてよ」
この大切な家を守り続けていることには全くもって否やはないが、不便は多くある。彼と契約しておけば、今しがたくるくると手の中で回す潰れたサッカーボールに空気も入れてもらえそうだし――。
「この前のワールドカップ、どこが勝った?」
サッカーの試合も見られる。
――ここ、テレビがないからね。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功