今夜、素敵なバーで
『隠れ家的な店』なんて言葉が一時期流行ったが、この俺にも隠れ家めいた行きつけの店がある。
√EDENの某バーだ(店名は伏せさせてもらう。なにせ、隠れ家なんでね)。
そこに集う客は非√能力者ばかりだから、きっと気付いていないだろう。
俺が人間ではないことを。
人妖の猫又であることを。
雑居ビルの入り口の横にある階段を降り、本日のおすすめメニューが記されたスタンド看板を横目にドアを開ける。
店内はいつもよりも少しばかり賑やかだった。
三人の男女がカウンター席に並んで座り、マスターと言葉を交わしている。男二人が女を挟む形。全員が常連であり、俺とも顔馴染みだ。
「あら、先生。いらっしゃーい」
マスターが俺のほうを見た。彼は身の丈が二メートル弱もある偉丈夫なのだが、他者に威圧的な印象を与えることはまずない。人の良さそうな優しい顔立ちをしているのだ。
「随分とお見限りだったね」
「先々週にも来たはずだが?」
「先々週は遠い昔やで、先生」
と、紅一点の客が言った。二十歳をいくつも出ていないであろうこの小柄な娘の通称は『パリ子』。花の都か、|Party《パーリィー》か……意味するところはよく判らないが、そう呼ぶように本人が言ったのだ。ちなみに他の常連客の通称(俺の『先生』も含む)を考えたのも彼女だ。
「お見限り認定されたなかったら、週一で通わんとアカンよ。マスターは寂しがり屋さんやねんから」
「そのとおり。俺、寂しすぎると心臓が止まっちゃうんだ。ウサギさんみたいにね」
「『ウサギは寂しいと死ぬ』というのは迷信だぞ」
マスターの軽口を真面目に否定したのは、パリ子の右側に座っている五十がらみの男。筋骨隆々たる体躯、磨き上げたかのようなスキンヘッド、人生の年輪が刻まれた厳めしい表情……通称は『軍曹』だ。本名は不明。職業も不明。案外、本当に軍属なのかもしれない。
「ちょっと、画伯ぅ。向こうに一つ詰めてよ。うち、イケオジに挟まれたーい」
「へいへい」
パリ子に追い立てられるようにして席を移動した『画伯』は、剽悍な無頼漢と繊細な詩人の雰囲気を併せ持った青年だ。軍曹がそうであるように彼の通称もまた安易かつ的確だと言えよう。なぜなら、本職の画家なのだから。しかし、俺が画廊を営んでいることは教えていない。ビジネスが絡むと、今の程良い距離感が壊れてしまう。
パリ子と画伯の間のスツールに俺は腰を下ろした。
「今夜のおすすめはこれ!」
注文する間もなく、マスターがグラスを置いて、透明の酒をなみなみと注いだ。
◆
「これはなんだ?」
「『ぶりぶし』っていう泡盛だよ」
諦観めいた表情で尋ねる『先生』こと|早乙女《さおとめ》・|伽羅《きゃら》に対して、マスターは手にしていた瓶を示した。
「洋酒一辺倒ってのも芸がないから、試しに仕入れてみたんだ」
「仕入れるのは勝手だが、俺をモニター客として利用するのはやめてくれないか」
「そう言わずに飲んでみてよ。お気に召さなかったら、お代はいらないから」
「……」
伽羅は大きな溜息をつき、グラスを手に取った。
ちびりと一口。
ぐびりと二口。
そして、もう一口。
感想は述べなかった。述べるまでもなかった。
マスターはにんまりと笑い――
「料理も用意するから、ちょっと待っててねー」
――その場から立ち去った。
「なあなあ、先生。コレ、どう思う?」
四口目を味わっていると、パリ子が肩をつついてきた。
「コレとは?」
「軍曹の定番メニューのこと」
パリ子は親指の先を右側にぐいと突き出した。
指さされた軍曹は我関せずといった顔でナチョスを食べている。
「軍曹って、いつも決まってテキーラの水割り&サルサソースたっぷりのナチョスやん? ナチョスはべつにエエけど、水割りは納得いかんわー。軍曹のイメージに合わへんもん。うちのおばあちゃんも『テキーラを水で割るのはケツの青いガキだけや』って言うとったで」
「もし、おまえの祖母君と話す機会があれば――」
チーズまみれの指先をウェットペーパーで丹念に拭いながら、軍曹が静かに語り出した。
「――以下の三つのことを伝えよう。一つ、俺はしこたま酔うために飲んでるわけじゃない。二つ、シグロ・パサドの|緑《ベルデ》は水で割ったほうが風味が増す。三つ、確かに俺はケツの青いガキだ」
「提供する側としては、ストレートでも水割りでもなく、テキーラサンライズをおすすめしたいなー」
と、カウンターの奥の隅で調理をしていたマスターが話に加わった。
「そのナチョスとの相性がばっちりなんだから。ホントにもうばっちり!」
「イメージに合わないのはパリ子も同じだろう」
と、画伯が言った。
「小洒落たカクテルだのワインだのには見向きもせずに渋い酒ばっかり飲んでるじゃないか」
「うち、ワインはそんなに好きやないねん。おばあちゃんも『ワインなんて、ブドウ味のチェイサーやないかい』って言うとった」
パリ子の前には二つのグラスが置かれていた。一つはチェイサー用だが、中身はさすがにワインではなく、水のようだ。
琥珀色の液体が入っているもう一つのグラスに目をやりながら、伽羅は尋ねた。
「今夜はなにを飲んでいるんだ?」
「ミュコーのゴールドパンサー! 本当はシングルモルトを呑むつもりやってん。ストラスクライドの十七年ものとか。せやけど、画伯の顔を見た途端、ミュコーの口になってもうたー。なんでやろう? 画伯が豹に似てるからかな?」
「似てねえわ」
と、画伯が言下に否定した。
「どちからというと、先生のほうがネコ科っぽい顔をしてるだろう」
「あー……画伯は今夜もスタウトか?」
伽羅は慌てて話題を変えた。
「ええ。いつもと同じですよ」
画伯はギネスの瓶を掲げてみせた。この青年はやや尊大なところがあるが、一部の年長者に対しては敬語を使う。伽羅と軍曹は『一部』に含まれていた。
「だけど、ピッチはいつもより早め。まあ、自棄酒ですわ。個展がそこそこ盛況だったもんでね」
「ん?」
パリ子が首をかしげた。
「盛況やったら、祝い酒とちゃうのん?」
「ふん!」
拗ねた子供のように画伯は鼻を鳴らした。真の『ケツの青いガキ』は軍曹ではなく、彼なのかもしれない。
「個展で披露した作品の大半は、出来が良いとは言えない代物だった。甘めに評価しても八十点ってところだ。それなのに目の腐ったヒョーロンカの先生がたや投機目的で絵を買い漁ってるお大尽様はまるで百二十点の絵みたいに誉めそやしやがって……」
「誉めてもらえたんやから、素直に喜べばエエやん」
「喜べるかよ。八十点の絵を三十点のように酷評されるよりも屈辱だ」
「ははは」
伽羅は思わず笑った。
「いや、俺の古い知り合いにも絵が得意な人がいてね。俺が絵を誉める度、今の画伯のように不機嫌になっていたものだ」
「その人の気持ちはよぉーく判りますよ」
「俺は判らないなー。常に百二十点の料理しか作らないからね」
そう言いながら、マスターが伽羅の前までやってきて、スキレットが乗った木台をカウンターに置いた。
「お待ちどう。トマトとベーコンのアヒージョだよ。泡盛に合わせて、くんちゃまっぽいベーコンを使ってみた」
「『くんちゃまっぽい』じゃなくて本物のくんちゃまにしてほしかった……」
「この泡盛にはタラのアグロドルチェも合うと思うんだよね。来週末あたりに仕込んでおくから、また食べに来てよ」
「だから、俺をモニター客にするなって……」
ぶつぶつとこぼしながらも、伽羅はマスターから割り箸(なぜかフォークではなかった)を受け取った。
トマトをベーコンで包むようにして、口に放り込む。
美味かった。
悔しいほどに美味かった。
口中に味が残っているうちに泡盛を流し込むと、舌が狂喜に跳ねた。
「画伯もいかが?」
拗ねている三十歳児にマスターはアヒージョを勧めた。
「泡盛に合わせてチューンしたメニューだから、懐かしい故郷の味がすると思うよ」
「べつに懐かしくない。ゴールデンウィークに帰ったばかりだ……って、ちょっと待て。どうして、俺の生まれが沖縄だと知ってるんだ? 誰にも言った覚えはないぞ」
「ノンノン! 正しくは『言った覚えはない』じゃなくて、『言ったことを覚えてない』でしょ。お客さんはここで話したことなんてすぐに忘れちゃうだろうけど、俺はしっかり覚えてるんだよねー」
「こわっ!」
と、パリ子が悲鳴をあげた。本気で怖がっているわけではないだろうが。
「そういえば、おばあちゃんが『バーテンと仕立て屋とコンビニの店員のところには自然に情報が集まる』って言うとった! もしかして、ウチの個人情報もマスターにがっちり握られてしもうてるのー!?」
「ふっふっふっ。握っちゃってるよぉー。でも、御安心あれ。絶対に口外しないから」
マスターは口の前に人差し指を立て――
「はっしゅはっしゅ」
――と、呪文を唱えるかのように囁いた。
「はっしゅはっしゅ」
同じ仕草と言葉を返すパリ子。
その様子を微笑ましげに眺めつつ、伽羅が茶化すように言った。
「とはいえ、さすがのマスターも軍曹のことはよく知らないだろう。謎多き寡黙な男だから」
「ところが、どっこい。愛犬の名前まで把握してるよ」
「え? 軍曹って、ワンちゃんを|飼《こ》うてんの?」
パリ子が顔を輝かせた。
「写真とか見せてー」
「犬の写真を持ち歩く趣味はない」
軍曹の反応はにべもない。
「実は俺と軍曹には共通の知り合いがいるんだ」
と、マスターが種明かしをした。
「俺の師匠とも言える素敵なお姉さんが園芸店をやっていてね。軍曹はそこの常連さんってわけ」
「ワンちゃんだけやのうて、お花も好きやなんて……軍曹のイメージ更新が止まらへーん!」
「いや、俺がその店で主に買っているのは花ではなく、観葉植物だ」
「写真とか見せてー」
「観葉植物の写真を持ち歩く趣味はない」
軍曹の反応はにべもない。
「園芸店というのも楽しそうだな」
と、伽羅が呟いた。
「そういえば、若い頃に『花屋になればいい』と知り合いに勧められたっけ……」
「先生は良い園芸屋さんになれるような気がするよ。なんなら、今からでも師匠のところに弟子入りしてみれば?」
マスターが冗談めいた提案をした。いや、あながち冗談のつもりでもなかったのかもしれない。師匠が営んでいる園芸店の名を伽羅に教えたのだから。
それを横で聞いていたパリ子がスマートフォンを取り出し、店名を検索した。
「お店のサイト、見ぃーっけ。白い蛾のマークが可愛いわー」
「蛾のマーク?」
画伯が訝しげな顔をした。
「園芸家にとって蛾というのは天敵じゃないのか?」
「そりゃ確かにお花とか育てとったら、蛾を害虫扱いしがちやけどね。害虫やから嫌いとは限らんのよ。うち、お花好きやけど、蛾かて大好きやもーん。とくに推したいのがモンクロシャチホコ! 見て可愛いし、食べて美味しい!」
「……『食べて美味しい』というのは俺の聞き間違いだよな?」
恐る恐る確認する画伯を無視して、パリ子はモンクロシャチホコへの愛を語り始めた。
◆
いまや、店内はパリ子の講演会の様相を呈している。テーマは『モンクロシャチホコの歴然たる魅力と秘めたる可能性』だ。
聴講者の反応は上々。マスターはにこにこ笑顔で聞き入り、軍曹は絶妙のタイミングで『ふむ』『そうか』『なるほど』と相槌を打っている(この御仁、意外と如才がない)。画伯は辟易とした顔を見せているが、ポーズに過ぎないだろう。この状況が楽しくなければ、席を立っているはずだ。
もちろん、俺も楽しんで拝聴させてもらっている。ただ、パリ子には申し訳ないが、話の内容は半分も頭に入ってこない。眠気にも似た心地よさに包まれて、体も気持ちも弛んでいるから。
ごろごろごろ、と……エンジンのアイドリング音に似た小さな音がパリ子の熱弁にまぎれて聞こえてきた。誰かが喉を鳴らしているらしい。ふふっ。
……あ!?
なにが『ふふっ』だ! 無意識のうちに俺が鳴らしていたんじゃないか!
慌てて音をとめた。パリ子の声のほうが大きかったこともあって、誰にも気付かれなかったようだ。
……いや、やはり、気付かれたかもしれない。マスターがこちらをじっと見ている。にこにこ笑顔をキープしたまま。
彼は口の前に人差し指を立てた。
そして、ウインクを一つ。
指の向こうで唇がゆっくりと動いた。
『はっしゅはっしゅ』
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功