溶けて、満ちて
初めて手にした鍵をカチャリと回して、玄関ドアのハンドルを引いて、清潔な玄関にふたりの期待値は跳ねあがった。
「おじゃましま~す……」
「誰かが返事したらホラーだな」
「ほんとに怖いこと言うの、やめて?」
靴を脱ぎながらくすくす笑い合う。昼食準備が入っているレジ袋を持ち替えたから、ガサリと鳴った。
「おかえり、悠希」
「ふふっ、ただいま。潤くんもおかえり」
スリッパに履き替えて、短い廊下を歩いていく――輝く摺りガラスが嵌められた木のドアを押し開けた。
瞬間、光が溢れて、爽やかな風が吹き抜けるようだった。
「わあ、広い……!」
白を基調とした1LDK。大きな掃き出し窓を開ければ、レースカーテンは軽やか靡いた。シーリングライトをつけなくとも部屋は明るかった。
ゆったり寛げるカウチソファには、小さなクッションが無造作に置かれていて、ガラスのセンターテーブルは汚れなく磨かれていた。その上には、各家電のリモコン。すべてに名札がついている。電灯、テレビ、ディスクプレイヤー。プロジェクターに、ミニコンポ。ただ、空調のリモコンだけは壁に張り付いていた。
名札がついていたのは、リモコンだけではない。
アイアンのカーテンレールに吊るされたプランターから垂れるハートカズラのグリーンネックレスは活き活きと輝き、こんもりとボリュームのあるキセログラフィカ、モシャモシャのスパニッシュモスに、存在感たっぷりのサンセベリアと、自分こそが部屋の主役といわんばかりの――
「ウンベラータ……こっちは、クワズイモだって!」
部屋を清々しく彩る名札付きの植物たちも、誇らしげにふたりを出迎えてくれた。
キッチンはセパレートタイプで、大きな冷蔵庫が静かに稼働していた。キッチンボードにはレンジが置かれていたが、さすがに炊飯器はなくて、電気ケトルがあった。中に仕舞われてある食器の類は自由に使ってもいいとのこと。そっと引き出せば、白くて使い勝手のよい丸い皿がたくさんあった。並んだマグカップは不揃いで、シンプルな磁器、ステレンスカップ、耐熱ガラス製……
「すごい! 潤くん、ここすごい部屋だね!」
部屋の中を観察しながら、妹尾・悠希の表情は部屋以上に明るかった。
ひとつひとつの調度品は高級品ではないが、計算されてコーディネイトされた空間はすごくオシャレに感じられた。
楽しそうに喜びはしゃぐ悠希の様子は、やっぱり可愛くて。ハートカズラの葉を触る彼を見守りながら、大安寺・潤もそっと微笑む。
買って来た昼食用の食材を調理台に広げている間に、悠希は見つけたプロジェクターのマニュアルを潤へと見せた。
「潤くん、映画はコレを使って見ようか」
「ん?」
「ここの壁がスクリーンになるんだって」
「いいな、それ」
ソファの向かいの壁をレンズが見つめていた。天井から吊り下げられたスピーカーも相俟って期待に胸は膨らんだ。
◇
いつもの「おうちデート」に不満があるわけではないが、新しい刺激はいくらあってもいい。
普段とは違うおうちデートをしてみたい――なんて。たまたま見ていたスマホの広告で見つけたのだ。レンタルルームでおうちデート。調べてみると、案外手ごろな価格で借りられそう――そうと決まれば早かった。ふたりで部屋を選んで、予約をして。そんな些細な時間まで楽しめた。
ペタペタとスリッパを鳴らしながら悠希は潤の隣へと戻ってきた。
「お昼ご飯作ろうっか」
「そうだな――パスタだっけ?」
「うん。潤くん、ほうれん草洗ってくれる?」
「わかった」
一緒に手を洗ってからさっそく取りかかる。
ほうれん草をざぶざぶ洗って、跳ね返った水滴に顔をしかめた潤を見上げて、悠希はフライパンを取り出した。
(「ほうれん草を洗ってる潤くん、かわいい……!」)
買って来た紅鮭を並べて焼き始める。これはちょっと放置。もうひとつフライパンを出して水を入れた。
「それは?」
「ほうれん草を下茹でするんだよ」
鮭が焼けてくる香ばしい音と匂いがしてくる。潤が玉ねぎの皮を剥いて、それを悠希が切ってボウルに移す。目が痛くなる前に手早く終わらせて、サクサクと下拵えを進めていく。沸騰した水にほうれん草を投入、鮮やかで濃い緑へと変わっていくのを見ていた潤は、持っている菜箸でほうれん草をつつく。
「潤くん、鮭どう?」
「あ、焼けてきたな」
「そうしたら、ほぐして、パスタソースに入れちゃおっか」
鮭の脂が溶けだしたフライパンに切ったばかりの玉ねぎを入れて、ゆっくりと炒め始めて。
茹で上がったほうれん草の水気を絞る。火傷しないように気をつけて、まな板に載せた。ほうれん草のゆで汁をすてて、新しい湯を沸かし始める。これはパスタを茹でるためのもの。
鮭の皮を剝いで、骨を抜く。腹骨についた鮭の身を味見――いい塩加減で、脂が甘い。
「あっ」
「味見だって」
玉ねぎに焼き色がついたから、一口大にしたほうれん草もフライパンに投入、ほぐし終えた鮭も追加。
さっと炒め和えて、買って来たホワイトソースの素を入れれば、フライパンの中は一気にクリームパスタソース然となった。塩と胡椒で味を濃い目に調えて。
「悠希、パスタはここで茹でるのか?」
「そうだよ」
箱の中から出されたフェットチーネは、渦を巻くように丸く重ねられたままに湯の中に落とされた。電気ケトルのスイッチも入れておく。予備の湯だ。
パスタが茹であがるまでの間で、出来合いのサラダを盛り付け直す。足りなかったミニトマトを追加でのせて、お試しドレッシング(一食分でちょうどいい量だった)を回し垂らした。
ときおり潤が、パスタをかき混ぜ、くっつかないよう世話をする。
硬く結ばれていた小麦の環はもう解けてしまって、湯の中でひらひらと踊っていた。タイマーがピピピピっと茹で時間終了を叫んで、潤と悠希を急かした。火を止めて、茹で加減のチェック。
一本をはんぶんこして、ふたりで確かめる。
「お」
「ちょうど良さそうだね!」
もわもわと立ち昇る湯気を払って、湯を切って、出来上がっていたソースに絡めた。
「皿、皿っと……」
勝手がわからないキッチンボードから適当な皿を出して、並べてくれた。
フライパンに残るソースも勿体ないから、最後のひとかけらまではんぶんこ。こんもりと盛られたパスタは、さながらレストランのメニューの写真のよう。甘くて香ばしい香りが空腹をよけいに刺激した。
「わあ、おいしそう……!」
「はやく食べよう、悠希。腹減った」
「そうだね。僕もお腹すいたぁ!」
ダイニングテーブルは円卓で、チェアは二脚揃えられていた。悠希と潤にはちょうどいい。
鮭とほうれん草のクリームパスタと、出来合いえびとたまごのサラダ、そして無糖のストレートティーをペットボトルからグラスへと注いだ。
ふたり特製のランチがテーブルに並べられ、ふわりと香り立つ。
冷めてしまわないうちに、さあ。
「「いただきます」」
ふたりの声が重なった。
◇
カウチソファの座り心地は、ちょうどいい。硬すぎることもない、柔らかすぎて沈み込むことはない。胡坐をかいてもまだ広く座れる座面に、悠希はクッションを抱きしめて座っている。
アクション映画ならではの、手に汗握る緊迫シーンだ――じっと真剣に見つめている悠希の横顔を盗み見る。
「悠希、ポップコーンは?」
「食べる!」
センターテーブルに置いておいたポップコーンを差し出した。一粒つまんで口に放り込めば、ほんのり塩味で、さくさくっと香ばしく弾けていた。
「おいし!」
「こっちを選んでよかったな?」
「キャラメルのも今度買おうね」
「ん、そうだな」
莞爾として笑んで、悠希の視線がそろっと潤と絡んで、映画へと戻った。
たったそれだけのことだ。
そんな些細なことで、胸が高鳴る。
(なんだか、新婚生活っぽいな……)
映画は最初の山場を迎えていて、ここからきっと主人公がトラブルに巻き込まれて物語が転がっていくのだろう――しかし、潤は、真剣に観ている悠希の方が気になってしまう。
なにも話さなくても居心地の悪くない時間が心地よくて。
(いつか――こんな家で、悠希と同棲出来たらいいのに)
ふたりで選んだ家具とファブリックに囲まれて、一緒に食事の準備をして、その前には買い物もして、作ったものも一緒に食べて、後片付けすら楽しんだ。
新婚の疑似体験に、潤の心は忙しかったけれど、心底楽しめたのだ。
イタ飯も和食も中華も、たくさん作って、二人で「美味しい」を重ねて、小さな日常を積み重ねていければいいな――なんて潤は願う。ただ、気恥ずかしくて言葉にすることは出来ない。
いつか、それをはっきりと言葉にできるようになったら――とも、淡く思う。
「潤くん、観た!? 今の、美味しそうだったね」
「ハンバーガー?」
「そう、お肉たっぷりだったでしょ! 美味しそう……!」
「次は、ハンバーガーを作ろうか」
「次……っ!」
そわりと浮足立った悠希があまりに愛おしくて、心が溶けてしまいそうだった。だから、潤は必死に頬を引き締める。だらしなく緩んでしまわないように、情けないところを悠希に見せないように。
「ふふっ、潤くんとまたお料理するの、楽しみだよ」
「……ん……――俺も」
無垢に発せられる悠希の甘やかな言葉が潤を舞い上がらせてしまう。悠希の髪を梳くふりをして優しく撫で、泳ぐ視線は映画を観て誤魔化した。
「ねえっ、……潤くん」
「ん?」
「こういうの、……たまには、いいね」
少し声が上擦っていたが、機嫌よさげに微笑んでいる悠希は、またひとつポップコーンを食べた。
頬が赤くなっている悠希を見て――それが彼の照れ隠しだと気づいて――潤の内側で、『悠希が可愛すぎて苦しい旋風』が巻き起こる。表に出て暴れてしまわないように押し込めることに必死だった。
返事はしたが、平静を装えただろうか。
上手く、隠せていますように――
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功