生命倫理
翼の魔は穏やかだ。そう装うことができる。人間を装うことができる。故に知った姿に声をかけることくらいはする。
「一人かね」
もっと正確に言えば「ひとり」ではないのかもしれないが。医療の怪人、|D.E.P.A.S.《デパス》の肉体のことは良く知っている。
訪れた夕暮れの公園。ベンチに座るマギーを見つけ、|メルクリウス《怪人》は小さく声をかけた。
マギーが見上げた顔、その先――かなり高い位置にある頭部、その隠された銀眼と視線が合う。眼鏡を通していても分かる、水銀を湛えた眼差しだ。
「ええと……ディオスクロイ……って、呼んでいいのかしら?」
「名乗りはメルクリウスだ。そのように」
やや淡々としたやりとり。ベンチの隣を空けようとしたマギーに「いや」と声をかけて制し――体格が体格だ、座れば窮屈にも程がある。立ったまま、彼女が視線を向けていた先を見る。
親子。夕暮れに帰りたくないと駄々をこねる子とその手を引こうとする親を、みていた。
√汎神解剖機関においても、このような穏やかなやりとりは見られる。たとえ停滞していようと。
それに比べ、メルクリウスの故郷――√マスクド・ヒーローは平和だ。正確には、平和に近い不穏を抱え、それでも強く生きる「人々の繋がり」がそれを維持している。
その繋がりを絶ち切ってきた怪人、目前の光景に何を思うか。過去の精算は終わっていない。星詠みとして動いていようと、今までの行動への詫びにはならない。
怪人の頭部が鳴く。ぱちりと爆ぜている。【|怪人指令装置《メルクリウス》】が嗤っている。その音を聞いて、マギーは少し。ほんの少しだけ、安心感を覚えた。
どれだけにんげんを装っても。わたしたちは結局、ひとではないのだ。なんて――。
「……花は咲いて、散って、次の世代のために種を残して、芽吹くけど」
足元に咲く|蒲公英《たんぽぽ》が風に揺れている。
「わたしはそうしたいと、それを経験してみたいとは、思わないの」
揺れる花。側に咲いている赤みがかった淡いオレンジ、ナガミヒナゲシ。
ひとびとは無尽蔵に増えていく。それが『何なのだろう』。
マギーは、『生殖本能』が欠落している。それだけの話。
「同感だな」
ふう、と息を吐いた怪人。ぱちり、彼の後頭部から――【メルクリウス】から音がした。
「わたくしは、快楽を貪るのは好きだが。それでわざわざ子を残したいわけではない。あなたがそうであるなら、似た者同士だ」
いつの間にか|人間《ヒト》は|怪人《かいぶつ》へ。翼と羽根、そして水銀で構成された体がマギーの側に立っている。
それがふと視線に入ったか。駄々をこねていた子供が硬直した。それに続けて、こちらを見る母親。ああ悲鳴だ。絶叫だ。このような姿を持つもの、この√においては、怪物、怪異に他ならない――。
逃走する親子。それでも、二人の会話そのものは穏やかに続いていく。いいや、続けてしまった。他のことに気を取られていたから。
「ええと……ちょっと、違うかも」
マギーの返答は、ややはっきりしないもの。子を成す事と『それ』が|=《イコール》で繋がらない。繋がらないのだがそう言い切るには何か、致命的なまでの何かがあるのだ。溝は深く、それこそ底の見えない……矛盾である。どうしてそれが起きたのか。
ああ、そうだ。『わざわざ』か。
「メルクリウスは。わざわざ。ではないのなら、『そうしてもよい』?」
怪人は顎を揉む。ふむと小さく鼻を鳴らして、首を傾げる。鳥のようにこてん、こてんと左右に。
「『事故る』のはごめんだ、とは思っているが」
「……ふふ」
「笑うところかね?」
目元の翼がばさりと鳴る。不機嫌さを表しているわけではなく、ただ、瞬きと似たように、だ。少しというには時間をかけ。怪人なりに言葉を選んでいるらしく。しばらくしてから、再度彼は口を開く。
「子を成すために、他の手段があるのなら。それこそ『ホムンクルス』など。そういう手があるのならば、面白がって『そうする』かもしれない」
錬金賢者メルクリウス。名乗りの通り、錬金術により怪人を生成し、暴れまわっていた経歴がある。彼にかかれば『その程度』、もしかすれば容易いのかもしれない。
だがマギーがこれに返答するには、少々時間が足りなさそうだ。
遠くから騒音が迫ってくる。誰かが怒声を上げている。どこに向かって?
決まっている、この公園だ。
「失礼」
返答を聞く前に、メルクリウスはマギーの体をひょいと持ち上げた。有形無形。三翼――ばさりと羽ばたいてみせたそれは、もはや怪人と呼ぶにはひとのかたちを保ってはいなかった。
「どこへ行こうか。面白いところを知っているが」
「そう。楽しそう。でも、ネコが待ってるから、家かしら」
「アッハッハ!」
|御伽噺の怪物《グリフォン》じみた貌が、男と同じ声で笑う。黄昏の空。銃声に羽根が散ってなお、その笑い声が止むことはなかった。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功