√フィアット・ルクス『コープス・リバイバーNo.2』
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光あれ、というのならば、影もまたあれかし――。
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蠢く影を見た。
それは不定形であったし、自分が視線を地面に落としていなかったのなら見落とすところであった。
面を上げる気力などなかった。
出会いは別れの切欠に過ぎないと知っていたのだとしても、やはり別れは心に傷跡を残すものだ。
瘡蓋のように想いが積もって思い出を変容させていく。
あれだけ焦がれた感情も時間が摩耗させていくことに恐れに似た感情が湧き上がるのを抑えられなかった。かきむしる。
瘡蓋の下の思い出を思い出そうとする。
その度にかきむしった治りきっていない傷跡から血が滲む。
痛みが思い出を鮮明にするのならば、いくらでも自分は傷をかきむしるだろう。
血が溢れても構わない。
思い出せるのなら。
もう見るのことのできない顔を思い出すことができるのならば、自分の体がどうなろうと構わない。
爪に血が固まって気持ちが悪い。
「……」
言葉を発する事も忘れたように、自分は蠢く影を見下ろしている。
なんだろう、これは。
もごもごと蠢いている影なんて、見たこともない。
ないはずの目と目とが交錯したように思えた。
「……!」
眼の前に現れたのは、自分の傷の生き写しだった。
ふわりと揺れる白い髪。
長く風に戯れるように豊かに広がる白い髪。
桜桃色の瞳と自分の瞳が見つめ合って、視線が外せない。
釣り眼気味の眦が僅かに下がるのを何度思い浮かべただろうか。
少女と女性の間。
中間に揺蕩っているかのような雰囲気を纏う『最愛』がそこにはいた。
喪ってしまったはずなのに、どうしてか、そこにある。
「わかってる。これはきっと夢だ。夢なんだ。きっと」
「どうして、あなたは泣きそうなの?」
声まで同じだった。
歌声のような囁き。
甘くて滑らかな耳障りの良い言葉。
何もかも吐露してしまいたくなる。けれど、それはしてはならないことだと理解していた。
なぜなら、自分はもう彼女の死を受け入れてしまっている。
もし、もう少し早く出会えていたのならば、この夢現に素直に溺れることができただろう。けれど、溺れることはできない。
なぜなら、ここが夢の浅瀬ではなくて地に足のついた現実だと知っている。
もし、何もかもをかなぐり捨てることができたのならば、この白昼夢にまどろむことができただろう。けれど、微睡むこともできない。
「君があんまりにも綺麗だからさ」
だから、告げた。
素直な言葉であったけれど、その胸の内側は複雑に入り組んでいた。
いつからだろうか。
人と人との心の通い合いは、素直な言葉で行われるものだということを忘れてしまったのは。
本音と建前を使い分けて、平気そうな顔をして大丈夫と何度も言い放つ。
強がりが大人だというのならば、自分は大人をやれているだろうか。
喪った彼女の姿は、まだ子供だった――。
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歌声が響いている。
それは明るくもどこか切なげであった。
スポットライトが眩しい。
あまりにも眩しいから、酒場のステージから見えるはずのバーカウンターがまるで見えない。
光は何かを見るために必要なものなのに、光が強烈すぎると何も見えなくなってしまうのは皮肉だと思った。それでも光があるから影は存在することができるのだ。
わたしは、影。
誰かの遣り場のない心を慰める影。
影は、どんな形にも成ることができる。思い描いたからではなくて、思い残すから形を変えることができる。
シェイプシフター。
その言葉を知っているだろうか。
いや、正確言うのならば、そういう妖のことだ。
名は体を表すとは言うけれど、そのままだ。わたしは、多くの姿に変貌することができる。
望むままに、望まれるままに。
そういう妖なのだ。
ゆれる白い髪がスポットライトを受けて光の粒を反射させる。
伴奏なんていらない。
わたしは、わたしのままあなたに歌声を届ける。
わたしの視線はいつだって光に塗りつぶされて見えないバーカウンターの奥にいる唯一人のために注がれている。
誰もがわたしを見ている。
羨望も、好色も、全てわたしに注がれている。
「けれど、たった一つの視線だけでいいの」
あどけなさの内側に潜む妖艶さをわたしはさらけ出す。
人は言う。
己の心を開かねば、相対する者の心を開くことはできない、と。
だから、わたしは歌うことであなたに心を開いてる。
「それだけがほしいの」
歌声は甘く、多くを魅了する。
けれど、たった一つだけが魅了できない――。
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「ねぇ、店長」
知らず、甘えたような声色になったのを気が付かれいないといい。
シェリ・エウフォリア(変容・h07712)は、とある酒場の舞台でのステージを終えて、バーカウンターにしなだれるようにして身を預けた。
足の高いスツールの座面はひどく不安定で、客に長居をさせないための工夫であったけれど、バーカウンターにてシェイカーを振るうマスターとの距離を近づけにはちょうどよい踏み台に思えた。
そういう意味では、この座り心地の悪いスツールのことをシェリは嫌いになれなかった。
「なんだい?」
店長、マスター。
この酒場を取り仕切る青年はシェリの言葉に僅かに首を傾げ、穏やかな笑みを浮かべて答えた。
たったそれだけで嬉しくなってしまう。
心が跳ねるというか、弾むというか、なんとも言えない奇妙な感覚を覚えてシェリは、このスツールのことがまた一つ好きになった。
もし、足が地面についていたら、ふわふわと浮かび上がってしまっていただろうから。
最初から足がついていなければ、浮かび上がることもない。
それを舞い上がる、というのだと誰かが言っていたが、今は思い出せない。誰だっていい。
今は眼の前の青年、マスターのことだ。
彼はとても優しい。
インビジブル……不可視の怪物になる寸前であった自分を、今の『形』にしてくれたのが彼だ。
彼からすれば、拾っただけに過ぎないのだろうが、シェリにとっては恩人だ。
大恩があることは言うまでもない。
けれど、そればかりではないことをシェリはもう知っている。
浮ついた気持ちで、弱気になってしまうのが、この心を占める感情だということを知っているのだ。
だから、次の言葉を紡ぐ前に妙な間が生まれてしまう。
マスターが訝しむよりも早く言葉を発しなければならない。
頭がぐるぐると回っている。
「きょうのわたし、どうだった?」
ありきたりな言葉。当たり障りのない言葉とも言えるかもしれない。
だって、そう尋ねたらマスターはきっとこう言うのだ。
「最高だったよ、シェリ」
わざと、だ。
マスターは絶対自分のことを名前で呼ぶ。
それも偽りの名であると知りながら、本当の名前のように呼ぶのだから、シェリの心はかき回されてしまうのだ。
我ながら単純なことだと思う。
偽名でも呼ばれたら喜んでしまう。単純。呆れてしまう。
「そう」
そっけないかな、と思ったけれど、逸らした視線の先にグラスが差し出される。
シトラスの香り。
「なぁに、これ?」
「おつかれの君に、とっておきの一杯を」
「そんなの」
いらないわ、と突っぱねることができたら、追いかけるに値する女だと思ってくれるだろうか。
そんな意地悪な気持ちと心持ち。
けれど、視線をちらりと向けると、あの笑みだ。
なんでも自分のやることを許してくれるような、寛容さが服を着たようなマスターの顔があった。
ああもう。
意地の張り甲斐がない。
「これ……ジン?」
「香りだけ、ね。飛ばしてあるから安心していいよ」
レモンジュース。
コアントローの代わりにオレンジジュース。
ライムジュース。
そしてアブサンの代わりにミント。
アルコールを全てジュースに置き換えたレシピだ。また子供扱いされている、とシェリは憤慨する気持ちになったが、この後のことを考えてくれているのだと思えば、それも悪い気はしなかった。
「柑橘の甘い香り……おいし」
シェリの言葉にマスターは笑むばかりだ。
歌を褒められた時のように、マスターもわかりやすく喜んでくれたらよかったのに、と思わなくもない。
けれど、それを求めたら彼はきっと困ったような顔をするだろうな、とシェリはわかっていた。困った顔も見てみたいけれど、そうしたら彼は自分から距離をおくかもしれない。
今の距離を失いたくはない。
なら、このままでいい。今はまだ。
「……一杯、頼めるか」
蹌踉めくようにして一人の男がバーカウンターに肘を載せてもたれ掛かるようにしてスツールを引くこともなく腰掛けていた。
明らかに飲みすぎている。
此処に来るまでに相当飲んだであろうことがうかがえるほどの酒気を帯びた姿だった。
その丸まった背中は、どこか哀愁を漂わせていたし、悲しみばかりが彼の背中ののしかかっているように思えてならなかった。
暗い瞳。
無精髭が、一体どれだけ整えられていないのかを知るには十分だったし、のばしっぱなしの髪が頬に張り付いているから尚更顔を暗いものにしていた。
「……ご注文は」
マスターはいつも変わらない。
背筋を伸ばしていることも、薄っすらと笑みを浮かべているのも、変わらない。
努めてそうしているのはわかっている。
けれど、時折、自分の二つ隣の席にもたれかかった男のような客を前にすると、どこか同情的な表情を見せるのをシェリは知っていた。
その視線はもうシェリを捉えることはない。
眼の前の魂の疲れ果てた男に注がれていた。そうなっては、もうシェリはどうしようもない。
「……なんだって、どれだっていい。強ければ、なんだって」
捨て鉢のような男の言葉にマスターは一つ頷く。
いつものだ、とシェリは思った。
こういう客を前にしてマスターは、一つのカクテルを作る。
ブランデー、アップルブランデー、スイートベルモット。
全てを注いで、バースプーンが回転する。
ねじれた柄をマスターの指が支えて回す。氷と共にくるり、くるりと回る様を横目でシェリは見ていた。
綺麗だ。
光が反射して、宝石のようであった。
冷えたグラスに注がれる紅茶を思わせる琥珀色。
蛇のように向かれたレモンの皮を飾ったグラスが男の前に差し出される。
「どうぞ、コープス・リバイバーです」
「……今更迎え酒か」
「正確には、コープス・リバイバーNo.1……ですが、今のあなたに必要な一杯かと」
「本当に死者を蘇らせることができるんなら、やってみてほしいものだな」
一気にグラスを呷る男はどこか皮肉げな言葉をマスターに放っていた。
打ち付けられたグラスがバーカウンターに甲高い音を立てた。
苛立ち。
挑戦的な瞳であったし、己の中にある悲しみを怒りに変えようとしているのが見て取れた。
マスターは変わらずうっすらと笑みを浮かべている。
どうしてそんな顔で笑うのだろうかとシェリは、ずっと前に疑問に思っていた。
けれど、バーカウンターは隔てているのではない。
男の苦しみや悲しみをマスターは理解しているからこそ、より掛かることを許している。いや、許していると言うより、支えているのだ。
自分も、同じだろうに。
息を吐き出す。
「『死んでもあなたと』、なんてロマンチックじゃない?」
シェリは背の高いスツールから降りて、地に足をつけて男に歩み寄る。
『特別なメニュー』。
それが符丁だった。
けれど、それだけでは駄目なのだ。
心の瘡蓋、その奥に未だ血の滲む傷を持つ者でなければならない。
「ガキが知ったよう、な……」
男の目がみるみる間に見開かれていく。
薄暗い瞳は、星を見つけたように光を取り戻していた。
生気を喪っていた顔は、上気したように頬が赤らんでいく。
知っている。
その顔をシェリは知っている。
『忘れられない、もう会えない人』を見る顔だ。
そのために自分は此処で歌う。
もう二度と取り戻せないものを、一夜だけれど取り戻すことができる。
それは瘡蓋の下の傷を痛めるものであったかもしれない。
けれど、痛みが思い出を鮮烈なものにするのなら、それだけで人は生きていけるのだ。
刹那に儚くも美しく散る生命だからこそ、なのかもしれない。
「今夜のわたしは、あなたの『最愛』――」
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功