雪夢に鈴は鳴く
灰白の空から零れ続ける雪が、頬に落ちて消えた。
――此処は何処だ。
応えてくれる者なぞ居やしない。だが、不思議と寒さはなかった。
訝しみながらも、音無き世界を青年は再び歩き出す。涯てがあるのかも分からぬ白銀の地へと、唯々靴跡を残していく。
往く先は、唯ひとつ。
肉体が滅び、魂と成り果てた今もなお探し求めて止まぬ――あの娘の許だけだ。
この命尽きれば、終焉を迎えられるのだと信じていた。
己という辛苦から娘を、そして矛盾した感情と思考から自分をも解放できるのだと。
だのに、幾ら経てども娘との記憶は消えるどころか、霊として年月を重ねていくほどにその愛と後悔の念は深まっていった。神子として勤め上げ、若い命を惜しむことなく捧げた末、この涯てのない地獄を彷徨い続けている。
自分の生まれた世界も、場所も、名すら失くしてしまっても、なお色褪せずに裡に在る愛しい姿と名。
娘の魂を、面影を求めて幾世界を渡り、幾夜夢を紡いできた。だが、未だその片鱗すら見つけられていない。
何処かで永遠の眠りについてしまったのだろうかと思うたびに、静琉は瞼をきつく閉じた。それ相応の所業を重ねてきてしまったのだ。己を憎み、拒絶していてもおかしくはないだろう。
生前の自分は、なにもかもが破綻していた。
あれほどまでに愛してくれたあの娘を、愚かにも信じることができなかった。その想いが決して揺らがぬものだと、確かめずにはいられなかった。
娘の笑顔を、何度睨んだろうか。求められるたびに拒み、涙零るるたびに背を向けた。
そのすべてが、子供じみた浅ましい行為だった。
厳格な環境で抑圧され育ったなどという言い訳が、罷り通るはずもない。なによりもその愛を求めているのに、それを疑い、確証を求めて壊していく。自分自身を理解も制止もできぬまま、娘の幸福を悉く消し尽くしていった。
袂を分かつのに、そう時間がかからなかったことだけが幸いだっただろう。
互いに疲弊が積もれど、それでもまだ、愛を伝え合うことはできたのだから。
気づけば、静琉は歩む脚を止めていた。
俯いた視界に、雪影が落ちる。気の遠くなるほどの永劫の刻を放浪し、終ぞ時間の認知すら歪んでしまったなかで、己がすべてへの憎悪ばかりが募ってゆく。
何故、もっと優しくできなかったのか。
何故、もっと慈しむことができなかったのか。
あれほど寄り添ってくれた娘に、どうしてあんな仕打ちばかりを重ねたのか。
ただ――愛し、愛されたかっただけなのに。
今更悔恨したところで、なにも変わりやしない。だが、それでも吐露せずにはいられない。
もっと笑顔が見たかった。
もっと素直な気持ちを伝えたかった。
もっと、もっと、もっと――。
雪のように降り積もる想いが喉を突き、静琉はやり場のない苦しみごと息を吐き出した。自嘲めいた薄笑いが一瞬浮かび、忽ち消える。
「……なんと都合の良い話だろうな」
自己嫌悪で気が狂ってしまいそうだった。その傍らで、「お前からその手を離したのだろう?」と、別の自分が嘲笑する。
幾度そう願ったのか分からぬほど、祈った。
刻を戻してくれ。そうして、娘を傷つけ続けた愚かな己を止めさせてくれ。娘を、その優しさを穢させぬように、と。
知らずと、両の拳を握り締めていた。
娘の慈愛を踏みにじった己を、誰よりも憎悪しているのはほかならぬ自分自身。
――この先永遠に、俺は俺を赦さない。
何処かで、鈴が鳴った。
遠く雪に交じりながらも確かなそれは、静琉の裡を静かに震わせた。
忘れもしない耳に染みた懐かしいその響きに、思わず首のうしろへと手を伸ばす。指先で黒髪を纏めていた飾りを解けば、同じ音が微かに零れ、空に余韻を残す音色と重なった。
掌にちいさく収まるのは、舞を愛した娘の、その長く艶やかな髪で編んだ組紐。そして結わえつけられた古びた鈴は、娘の身につけていた鈴の一部だった。
娘が流麗に舞うたびに神秘的な藍瑠璃が燦めきながら靡き、清澄なる鈴の音が響き渡る。
己のことはなにひとつ思い出せずとも、決して忘れることはない。
――その、儚くとも凜とした笑顔だけは。
「……ごめん、……ごめん……」
雪の上へと膝から崩れ落ちた静琉は、組紐を強く握り締めたまま空を仰ぎ、壊れた人形のように悔恨の言葉を繰り返した。
決して届かぬと知りながら、震える唇から嗚咽まじりの声が止め処なく漏れる。とうに枯れ果てたはずの涙が頬を伝い、雪へとひとつ、ふたつと熱を描く。
ちりん、と零れた余韻を残し、鈴の音が鈍色の空へと消えた。
✧ ✧ ✧
瞼をあげれば、見慣れた部屋の窓が見えた。顔に手の甲をあて、今一度眼を閉じる。
「……嗚呼……また夢、か」
あの雪のように、いつ終わるかも分からぬ夢。
それでも、たとえ幾星霜を経たとしても探し続けるだろう。
誰よりも愛しい姿を、笑顔を――あの鈴の音を頼りに。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功