壺中日月かく語る
あらまぁ。
また一人、おかしな人が|壺《わたし》の前に座り込んでいるわ。
指がぶるぶる震えている。眼はからからに乾いている。口元は笑おうとしているけれど、うまくできていないわ。
昔なら、お爺さん――|壺《わたし》の持ち主だった、薬売りの人――が、こういう時は優しく話しかけていたの。いつもの、決まり文句よ。
「何んにも、怖がることは無い。この中には、楽園が広がってるのだから」ってね。
――苦悩の器は、かく語る。
*
壺の中の楽園はね。沢山の人の情念が降り積もって出来るのよ。悲しみ、怒り、裏切り、絶望、空虚――ほんのひと匙の憂いと愛、それに嫉妬もね。
情念を何層にも重ねて苦悩をため込んだら。そこにはきっと何かが芽吹くはずだってお爺さんはいつも言っていたわ。
うふふ、いいこと。とっても、いいこと。
あぁ、ごめんなさい。わたし、つい――あの時のこと、喋ってしまったわ。勘違いしてしまいそうね、ずっと昔からわたしは怪異だったのかって。
ほんとうはね、この時期のわたしはまだ“声”を持っていなかった頃なの。
|壺《わたし》は、ただの|壺《うつわ》だったの。人間たちの情念を中にしまって、怪異を作る|壺《うつわ》。
この頃はね、何も感じなかったの。|壺《わたし》はただ、沢山のものを与えられるままだったから。人間たちがわたしに向かって喋るたび、笑うたび、泣くたび、呻くたびにね、彼らの中から垂れてくるそれは、ぬるくて、どろどろしていて、甘くて、苦くて、あたたかいの。まるで血のようだったわ。
血は彼等にあって、|壺《わたし》には無いもの。生きているってことなのね、これが。
わたしは、そんなたくさんの情念が溜まっていくのが好きだったのよ。とっても。
だって、ほら。すてきな事じゃない。人間達が誰にも相談できないような情念を、|壺《わたし》だけが聞けるのよ。
わたしが聞いて、聞いて、いっぱいにため込んでいくとね。人間たちはどんどんましな顔になっていくの。ひくひく痙攣していた指も止まり、がらがらだった喉もやっと潤んで、最後にはちゃんと落ち着いて泣けるようになる。ねぇ、不思議だと思わないかしら。人間の中に詰まっていた苦悩を|壺《わたし》が吞み込んであげると、人間はちょっと『空っぽ』になるの。それが彼らにとっても救いになるんだって。
人間たちってあんなに喋るのに、誰にも聞いてもらえない話を沢山抱えてるの。ふしぎね。ふしぎよね。
*
|壺《わたし》が『わたし』になったのは、ほんとうに些細なきっかけだったの。
|壺《わたし》は今日も黙ってお爺さんの近くにいたのよ。言葉も、声も、なかった。ただ、たくさんの感情の名残が、わたしの中に溜まっているだけだった。お爺さんはその日、じっと考えていたの。
「……出てくるには、まだ足りないのか? もう何人分も、壺に沈めたというのに……」
|出てくる《壺の中から》。
わたしは、ふしぎに思ったの。
だって、中はとっても静かなのよ。情念が何層にも溜まって芽吹いた、憂いの無い楽園。あたたかくて……でも、出てくるようなものじゃなかったわ。
わたしには分かっていたの。|中《楽園》には、自分で動けるものなんていないってこと。
“声”を出したのは、わたし、なのか楽園なのか。――誰だったのかしら?
「何んにも、心配しなくていいわ。おじいさん」
口があるわけでもないのに、縁のひび割れから空気みたいに、ふっと漏れ出してしまった声。それに、お爺さんは顔を上げたわ。とっても、ゆっくりと。
「おまえは……中身か? それとも壺自体、なのか?」
おかしなこと、聞くわよね。
壺が喋るなんて、そんなはずないって思ってたくせに。わたしは、わたしのことを答えたかったけれど……まだ言葉をいくつも持っていなかったの。
でもね、わたし、はっきり思ったの。
「わたしは、中じゃない。わたしは、わたし」
わたしが情念を呑んでいたのよ。ずっと。
|中《楽園》はわたしが作ったものだった。あのあたたかくて、甘くて、苦くて、底の見えない楽園はわたしの内側なのよ。
お爺さんはしばらく黙って、それから笑ったの。
「……まさか、壺自身が怪異になるとはな。だが、それも美しい」
それって、褒め言葉だったのかしら?
よくわからなかったけど、うれしいのは確かだったの。お爺さんからは名前をもらったわ。
ミメイ、って。ふふ、いい名前。
それからすぐ、お爺さんは壺の|中《楽園》に入っていったわ。静かに、でも迷いのない足取りだった。
楽園は彼を優しく迎え入れて、もう戻ってはこなかったの。
*
ねぇ。
わたしね、この言葉がとっても好きなの。お爺さんの真似だけれど、わたしなりに大切にしてるのよ。
だから――
「何んにも、怖がることないのよ。この中には、楽園が広がってるの」
……ほら、あなたも|この中《楽園》へ入りたくなってきたでしょう?
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功