甘雨注ぐ
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世界を渡る扉を潜ると、雨が降っていた。
そういえば朝の空にはいわし雲が広がっていたのだったかと思い出して、ツェイ・ユン・ルシャーガは小さく溜息を吐いた。
しとしとと降る雨は袖を笠にして凌ぐには向かず、致し方なしにツェイは傍の大樹に背を預け、そのままずるずると座り込む。
もう一度深く吐いた息は僅かに震えていた。片手で抑え続ける肩の周囲はじっとりと赤黒く濡れて、衣の色を侵蝕するように範囲を広げている。
此度の依頼は、戦闘機械との戦いを繰り広げる世界での事件の解決。戦闘機械群に囚われた幼子たちの救出であった。
戦闘機械というものはあまり好かない。退魔、調伏といったものが効かず、ただ効率的に敵を殺すことに特化した機械らはあまりに冷徹だ。情け容赦もなく、老若男女関わらず無慈悲に蹂躙するのみの、ある意味悪鬼よりも悪鬼らしい敵。
そんなものを相手にしにいったのは、ひとえに子ども達を助けたいが為だった。ツェイの住処で待つ愛い子と似た年齢の子らが捕らえられていると聞いた時、どうしても捨て置けなかったのだ。
だが脱出の最中、突如として降り注いだ銃弾の雨から子ども達を庇った際、加護で打ち払いきれなかった数発の弾丸をその身に受けたのだった。
「やれ。鈍くさいと笑われてしまうかのう」
薄く笑った。その拍子に傷が痛んで身を縮める。
あの子に重ねてしまって助けに向かい、こうして怪我を貰って帰ってきたとあってはきっと呆れるだろう。それからきっと、心配をかけてしまう。それでは本末転倒だ。
愛い子に――スス・アクタに悟られぬよう。心騒がせ、心配などさせぬよう。帰る前に傷を癒してしまわねば。
なんとか呼吸を整えようとしながら、ツェイは冷静に傷を分析する。
一番大きな傷は肩だ。モロに一発貰ってしまった。他にも脇腹や腕、足を数か所掠めている。だがこちらは火傷か、皮膚を薄く裂けている程度で出血も然程ではない。見た目も派手な怪我ではないから後回しでいいだろう。
「肩は……ふむ、幸い貫通しておるか」
傷口にそっと触れて確かめる。途端に走る鋭い痛みに柳眉を顰めたが、寸でのところで声は噛み殺した。
弾丸が貫通していたのは幸いだ。弾が残っていれば摘出しなければならない。いくら医術の心得があるとはいえ、流石にそんな手術めいたことをこんな雨の中、こんな場所でなど出来るはずもない。そうなれば傷口を塞げぬまま、家に戻らねばならなかったろう。
それではススの心がざわついてしまうから。そんなことは望まない。ただ、あの子には心穏やかにいて欲しい――なんて思うのは、ツェイの身勝手だろうか。
ススにはただ、顔を上げて胸を張って生きてほしい。顔も実名も隠しながら生きようとするあの子に、これ以上の憂いなど抱えさせたくはない。
ススが己に対して憧れに似た感情を抱いてくれているのはツェイとてわかっている。なんだかんだ言いながら慕ってくれていることも、隠しきれない罪悪感や劣等感を抱えていることも。
けれど、だからこそ危険や憂いから遠ざけてあげたい。いつか自分の道を見つけることが出来るまで、ただ健やかに育ってほしい。あの子には要らぬ不安を抱かせずに生活させてやりたいのだ。
弟子入りを断るのだって、ススをこんな目に遭わせたくはないからという理由は決して小さくない。能力者として戦いに出れば怪我の可能性は常に付き纏うし、怪我では済まぬ場合だってあろう。こんな痛みも苦しさも、怖さも、感じずにいてほしいのだ。
「ああそれでも、退けるすべは授けた方がいいだろうか……」
――ああ、だめだ。思考が取り留めなくなっている。
きっと出血と熱を持つ傷と、脈打つような痛みのせいだ。だからこんな風につらつら思い浮かべるのだと自らを判断している間に、本当は傷を癒せばよかったのだ。
静かに振り続ける雨と痛みで鈍った聴覚が、間近で息を呑んだ鋭い音を聞き取る、その前に。
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「待ってろとは言われたけど……」
何かあっては困るからと。
来てはならぬと言い含めて家を出たツェイは、まだ帰らない。昼を過ぎて降り出した雨に慌てて干していた洗濯物や干し梅を取り込んだススは、窓から外を眺めて尾を下げた。
ツェイは今日は依頼に向かっていて、留守を頼まれたからススは朝からこうして彼の住処で時を過ごしている。けれども雨は妙な胸騒ぎを連れてきて、落ち着かぬ心を宥めようと家の中を掃除したり、乾燥させた薬草を束ねて包んだりと、とにかく身体を動かしてはいたのだが。
……落ち着かない。ずっと胸がざわついていて、気が付けばしきりに外を確認してしまっている。
この雨の中、彼が帰ってきやしないか。ああ、そういえば彼は傘を持っては出掛けなかった。戦いに向かうのだから当然と言えば当然だが。
「……傘だけでも」
来てはならないと言われても、迎えに行くくらいは許されるのではないか。だって雨が降っているから。傘を持っていなかったから、濡れたらいけないし。ただそれだけだから。
己に言い訳をしながらも、理由を得た身体はあっという間に傘を掴んで家を飛び出していた。
どうしてか急がなくてはいけない気がして、濡れた大地を踏みしめて跳ねた水の音を置き去りにしながら駆けていく。
そうして朝に見送りをした異世界の扉のすぐ近くに、見慣れた色を見つけて安心して。けれども大樹の下に座り込む様子を案じて駆け寄って、息を呑んだ。
あちこち裂けた服。なにより今も片手で抑えたままの肩からぞっとする程の血が滲み、服を広く赤黒く染めていた。
緩慢に顔をあげたツェイが視界にススの姿を認めて目を見開く。けれどそれも一瞬、すぐに眉を下げて笑みを形作る。
「スー」
「なにやってんですか」
困ったように笑うツェイに向けた第一声は、絞り出すような悪態だった。狐面の下の表情がどうなっているのか、ススは自分でもよくわからない。
「大した怪我ではない、大丈夫じゃよ」
「だって、血が」
そんなにも溢れているじゃないか、と。なにが大丈夫だ。そんな風には見えないじゃないか、と。
「……えらそうに言っておいて」
「はは、本当になあ。だが大丈夫じゃよ、すぐ治してしまうからの」
本当はこんな姿など見せたくなかった。けれども見つかってしまったものは仕方がない。疾く安心させてあげる方が良いと判断したツェイは、震える指先で印を組む。
編まれた力に呼応して芽吹いた蔓が、すぐさま背丈を伸ばしてツェイとススを包むように叢檻を編み上げる。そうして淡く光る葉がはらはらと傷に降り注いで癒しを届けていくのを、ススは傍らでじっと見ていた。
悪態をついてみたところで怪我人は責められない。かといって癒しの力などススにはなく、薬の知識だってまだまだ半人前で、薬をすぐに煎じてやれるわけでもない。
ただ並んで治癒を待つしか出来ない己の無力感を、こんなところでも感じてしまう。少しずつ知識を身に着けたような気になっても、結局大して助けになどなれないのだ。
まるで巻き添えでも食ったように、耳も尾もしゅんと垂らしてススは俯く。傷を癒しながらそうやって深くなる俯きを見ていたツェイは目を丸くして。……その手にあるもう一本の傘を見つけて微笑んだ。
「スー、傘を持ってきてくれてありがとう」
「いや、そのくらい」
「この雨では帰り着くまでにびしょ濡れになってしまったかもしれぬからの。助かった」
「……」
そんなことでは足りないのではないか、と。そう口走りそうになった口をススはぎゅっと噤んだ。きっと気遣いからそんなことを言っているのだと思って覗き見たツェイの表情が、嘘みたいに穏やかで嬉しそうだったから。
「……どう、いたしまして」
ただ傘を持って迎えに来ただけだ。それで役に立った、なんて自惚れるつもりもないが。迎えにきたことは無意味ではなかった。嬉しそうに笑ったその姿に何故だかとても安心して、ススは治癒を終えたツェイに改めて傘を差しだした。
雨に濡れた尻尾がふわりと上向くのを見て、傘を受け取ったツェイは静かに目を細める。
雨は未だ止みそうにはない。けれどこれは甘雨。成長を助ける恵みの雨だ。きっとこの雨のあとに、草木はぐんと背丈を伸ばすのだろう。
「スー、帰ろうか」
「はい」
願わくば、この子もそうでありますように。
何も言わずとも歩調を合わせ、こちらを気遣いつつ歩く優しい少年が、健やかに、のびやかに、自由に生きてほしいと。そう願うことくらいは、共に歩くツェイにだって許されるだろう。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功