The LOST
やっと戻って来られた――。
と、思うべきであったのだろう。
以前と変わらぬ街並みを、以前より重くなった足音を響かせて歩く。数ヶ月離れていた愛しいはずの拠点を見渡しながら、遠宮・弥(毀れる音律・h00241)は知らず己の胸に手を当てた。
傭兵に死の危険は付き物だ。世界のうちで最も重い命に値をつけ、最も軽い引き金を引いて生きる稼業に身を浸しているのだから、早晩人生という賭けを降りる日が来る。偶然にも居合わせた先で起きた、任務とは何ら関係ない戦禍によって道が途切れることも必定であろう。
どこから現れたのかも分からぬ見たこともない武装の者を相手にした――状況を思えば善戦したはずだ。それでも結果からいえば、弥は終始劣勢のまま危機に瀕し、|死《はいぼく》の淵に手を掛けた。両足に重傷を負い、動くことも儘ならずに敵前に倒れた彼女がこうして故地を訪れることが出来るのは、ひとえに奇跡と呼ぶべき偶然が起きたからだ。
死に瀕した程度で命を諦めては傭兵の名折れだ。我武者羅に繰り出した拳が標的の奇妙な力を掻き消した。のちに√能力と呼ばれていることを知る力によって生まれた起死回生の隙に駆けつけた同輩に救われ、弥は今も生を繋いでいる。
しかし、命が助かることと生活が保障されることは別である。
深刻な傷を負った足が以前のように動くことはないだろうと宣告されると同時に、傭兵の前には二つの選択肢が示された。戦いに身を投ずることを止めるか、或いは大いなる代償と引き換えにそれまでの生活を維持するか――。
一も二もなく、彼女は後者を選択した。楽器の心得があるのは事実だが、自らの稼業を隠すために吹聴している|大演奏家《・・・・》の二つ名は、食い扶持になるほどに名を上げているわけではない。長らく武器を握って来た手に馴染む新たな職があるとも思えず、そもそも両足を使えぬ者の選択肢は極端に少ない。
嘗てとは違う。今の弥は一人で生きているわけではないのだ。目に入れても痛くない義娘のためにも、彼女が今すぐに武器を手放すわけにはいかない。
そうして、人の肉の代わりに得た冷たい両足――√能力者と名乗った同輩たちの技術で得た義体によって、女は再び二足で地を歩く権利を得た。瀕死の重傷からの回復と義体を過不足なく使えるようになるまでの数ヶ月間、壊れたスマートフォンを直す暇もなくリハビリに勤しんでいたこともあって、彼女が故地の空気に触れるのもいたく久々のことだった。
死線を乗り越えたのだ。最期になるかもしれないとき、想ったのは心底愛する娘と、この街のことだった。それから奇跡の生還を果たし、ようやく踏んだ待望の地である。潮の香りも活気溢れる港町の喧騒も、街に足を踏み入れたときから見えている高級ホテルの姿も、愛しんだ記憶と何ら変わりない。
喜ぶべきだ。
懐かしみ愛おしむべきだ。
どの感情も、弥の心を震わせる音色には成り得なかった。
――義体に換装することには幾つか副作用があります。中でも最も深刻なのが、人間性の喪失です。
深刻な表情で最後の確認をした技師の言葉がまざまざと蘇った。その意味を身に染みて噛み締めながら、彼女は再び街に目を巡らせる。
まさか遠のいたのがこの感情だけとは思わない。想うべきものを以前のように想えぬ己に対する衝撃や失望さえも、今の彼女には薄い帳の向こうに浮かぶものの如く思えてならないのだ。
これから、己は抗えぬ変容に晒されるだろう――と思った。
不可逆の喪失は弥の根本を変えてしまった。これからもこの帳を心に降ろして生きていくことになるのなら、以前との差異を感ずることは増えていくだろう。そしていずれ、彼女は嘗ての己を忘れていくことになる。
そうだとして。
友や娘をこれ以上心配させ、気を遣わせて、悲しませるわけにはいかない。その思いだけは確かに弥の中に息衝き、炎の如く燃え上がっていた。
急速に遠のいた嘗ての己を思い出す。自然に描けていたはずの表情に意識を払いながら、彼女はよく手入れの成された巨大な門を潜った。
◆
「部屋がない?」
ホテル『睡鵬楼』のカウンターで困惑したまま言い渡された宣告に、弥は心底から茫然とした。
世界的に有名な高級ホテルである。彼女が大演奏家の収入――実態は傭兵稼業の報酬――に任せて長期で借り上げていた一室に戻るため、外出の折に預けていた鍵を受け取るべく立ち寄ったカウンターの男性は、困ったように口を開いた。
――そちらのお部屋は現在ご予約があります。
「遠宮・弥様でお間違いありませんよね。お部屋は三週間ほど前に引き払われています」
「ええ? 失礼だけど、手違いじゃないのかい? 私はそんな連絡は――」
していない。
というか、出来ていない。修理も不可能なほどに破損したスマートフォンはこちらに戻ってから買い換えようと思っていたし、その間は誰にも連絡が取れていなかったのだ。彼女自身が連絡したのではないとすれば、残る可能性は――。
「あまね!」
悲鳴じみた懐かしい声が響いた。
思わず振り返った先に、焦がれたはずの娘の姿がある。睡鵬楼の制服を纏った彼女が目をいっぱいに見開いているから、弥は努めて|いつもの調子《・・・・・・》を思い出して、快活に笑って見せた。
「紗那、久し――」
「あまねのバカー!」
言い切らぬうちに頬に拳が入る。
無防備なところを思い切り殴られれば歴戦の傭兵といえど足元が揺らぐ。幾らか重い足音で体を支えた彼女めがけ、今度は暖かな体が体当たりをするように飛び込んで来た。
殴られた頬を押さえる弥をきつく抱き締めて、紗那が声も枯れんばかりに叫ぶ。
「心配したのよ! し、死んじゃったんじゃ、ないかって!」
少女は涙に揺らぐ声になお気丈な台詞を乗せた。堪え切れずに呻くような泣き声を上げる彼女の体を優しく抱き締め返して、弥は知らず目を眇めた。
リハビリの間中、彼女のことを想っていた。こうして再び抱き締めてやれる安堵と愛おしさは、街を見渡したときより深く胸を打ち、日常への帰還をようやく実感させてくれる。
だが――見えぬのを良いことに唇を引き結ぶ。
もっと痛切な感情があったはずだ。以前ならば彼女が髪の一筋傷付くことすら許せず、それどころかこうして涙を流していることにさえ耐え難い苦しみを感じていた。そうならぬように必死に守り、懸命に愛していたのだ。
それなのに。
今はただ、そうした感情が|あった《・・・》ことを、帳の外から眺めるばかりだ。
それでも彼女をこれ以上悲しませたくはなかった。伝った涙に傷付いてやることは出来ずとも、新たな涙を流させたくはないと思う。
だから、彼女は笑った。
「あはは――ごめん。ほら、私はこの通り、大丈夫だよ」
嘗てあった遠宮・弥のように、明朗に、尊大に。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功