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夢措く能わず

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 宵の口から予報外れの雨が降り始めた。
 すぐに通り過ぎる夕立だろうと思っていたのに、発達した積乱雲は雷鳴を連れてあっという間に土砂降りへと変わった。
 篠竹を束ねて突き下ろすような強い雨は深夜になっても弱まる気配を見せず、アダルヘルム・エーレンライヒは雨粒が叩きつける窓を忌々し気にねめつける。
 雨は嫌いだった。酷い頭痛に苛まれるし、身体に刻まれたいくつもの古傷も疼く。もともと縁が薄い眠気は今夜はもう訪れる気がしなくて、アダルヘルムは溜息と共にベッドを抜け出した。
 眠りが浅いのが昔からだ。騎士団に所属するようになって、睡眠時でも即座に対応できるようにと訓練を受けてからは益々浅くなった。熟睡などもういつからしていないんか、覚えてすらいない。
 痛みが疼く雨の日ともなれば殊更だ。だから激しい雨が降る日は、決まって絵を描いて過ごしていた。
 夜着を脱いで動きやすい服装に着替えると、エプロンをつけてその上に白衣を着こむ。そうしてアダルヘルムは自分だけの『アトリエ』の扉を開いた。

 雨は嫌いだ。雨は痛みと寒さを連れてくる。痛みは心を陰らせて、寒さは暗い考えを囁く。
 ――己はどうせ不要な存在だ。
 ――生きる理由も見いだせない。
 ――積極的に死にたいわけではない? 死ぬ理由すら見つけられないだけじゃないのか。
 ――誰にも愛されなかった。誰にも、両親にすらも。
 ――魔術の才を持たぬ出来損ない。
「…………」
 自身を谷底に突き落とすような囁きを振り払うように、アダルヘルムはまっさらなキャンバスへと向かう。
 自己嫌悪も、どうしようもない劣等感も。ズキズキと疼く忌々しい頭痛も、精神的にも苛むような古傷の痛みも。絵を描いている間だけは全部忘れることが出来る。
 四角く切り取られた世界に色彩と生命を落とし込んでいる時だけ、アダルヘルムはありのままの己でいることが許されている気がした。けれどそんなことを、誰に言えることもなく。これから先もきっと誰かに言うことはないんだろう。
 それでもアダルヘルムにとって絵を描くことは『自分は自分である』と自分に証明できる唯一の行為であった。
 誰にも言えない、言うつもりもない。けれど本当は、限り在る世界を色取り、少しずつ生命を宿していくこの瞬間が何よりも好きだった。
 世界で唯一アダルヘルムが愛している存在と言っても過言ではないと言える。その瞬間こそが、アダルヘルムの生きる理由そのものだった。

 持ち家の部屋のひとつを潰したアトリエとも言えない部屋に、木炭がキャンバスを滑る音が響く。
 心に描いた世界を傷だらけの手で生み出しているその間、アダルヘルムの耳には余計な音は聞こえない。激しい雨音も、仄暗い囁きも。遠い日の罵声も、否定と拒絶の言葉も、何も。
 ただ無心に描き、下書きを終えるとアダルヘルムは絵筆とパレットを手に取った。様々な色が混ざり、幾重にも重なり合ったパレットだ。思いつくままに色を取れば、二度とは生み出せぬであろう唯一の色彩となって白い世界を染めていく。

 趣味は絵を描くことだ、だとか。将来は画家になりたい、だとか。そんなこと、あの家では決して口に出せた事ではなかった。
 前時代的で閉鎖的な小国の、魔術師や騎士を多く輩出してきた名家がアダルヘルムの生家だ。長男として、|一族が皆そうであったように《・・・・・・・・・・・・・》魔術師や騎士として立身しろと重圧をかけるばかりのあの家では、そんな夢は「無意味だ」と一蹴され、貶されるばかりだとは火を見るより明らかだ。
 両親は建前や見栄ばかりを好き好んでいて、何よりも無駄が嫌いな人たちだった。魔術の才がないアダルヘルムを家の恥と疎み、それを晒すことを嫌い、遂にはアダルヘルム自身を嫌った。
 そんな両親相手では画家を志すことはおろか、趣味で絵を描き続けることも、果ては画材に手を伸ばすことさえ許されはしなかった。
 叫びだしたい程の渇望を抱えていてもなお、あの家では何一つとして言えるわけがなかったのだ。
 だから一度は夢を棄てた。
 だというのに、『どうせ無理だ』と諦めた夢を再び拾い上げたのは、ただの気紛れ。或いは、アダルヘルムの中にまだ消えきれぬ夢の残り火があったのかもしれない。
 ……残り火もないと、どうして言えようか。
 棄てたつもりで棄て切れなかった。願いはあった。ずっとずっと、奥底に沈めて隠していた。気まぐれは願いという浮力を得て、紆余曲折あった末の今、夢が再びこの手に返ったのだ。
 たった一つ。徐々に視力を失っていくこの瞳がまだ視えているうちに、一つでも多くを描き遺しておきたいという願いの為に。

 まるで存在証明のように、アダルヘルムは一筆ごとに丁寧に塗り重ねていく。
 白衣はおろか壁や床に跳ねた絵の具など気にしない。使いかけの溶き油やたくさんの筆を、アダルヘルムは自由に使い、自由に置く。
 絵の具や油に塗れたこの部屋を、きっと両親は「汚い」と忌み嫌うだろう。真っ白なパレット、真っ白なキャンバス。汚れひとつない、掃除の行き届いた部屋こそを、彼らはきっと美しいと言う。
 だが、美しいだけの無機質な部屋はアダルヘルムの孤独をより助長させるのだということを、彼らはきっと理解しないだろう。
 けれど白いばかりで何も描かれないキャンバスに何の意味があるというのだろう。色の無い世界の冷たさと孤独さに身を置き続けるよりも、様々な色が混ざり合って、ぐちゃぐちゃになった極彩色の地層となったパレットを見ている方がアダルヘルムは余程心安らかでいられる。
 時々絵の雰囲気に合わせて乗せた、見慣れない色彩がキャンバスの世界に広がっていくのが楽しい。けれども最後には、いつも使う見知った幾つかの色彩だけが残るのに安堵する。
 パレットを掃除しないのは良くないだとか、ペーパーパレットの方が便利だとか、そういう意見も何度耳にしたろう。けれども、アダルヘルムはそうやってパレットが育っていく光景を眺めるのが好きだった。

「…………」
 物思いに耽っていると、あっという間に筆が進む。気が付くとキリのいいところまで描き進めてしまっていて、アダルヘルムは一旦筆を置いた。
 乾燥促進剤を混ぜているとはいえ、乾くまでは数日待たなければならない。それまでの手慰みにと、アダルヘルムは別の小さなキャンバスに向き直った。
 乾燥を待つ間、アダルヘルムはそうして別の絵を描いたり、スケッチブックによくわからない生物の群れを描き落としたり、過去に描いた絵を見返したりする。
 絵に囲まれて、画材に触れているこの瞬間だけ。アダルヘルムは自由に息が出来る気がした。

 換気の為に窓を開け放つ。篠突く雨は世界とこの部屋を綺麗に断絶しているような気がした。
 ああそうだ。きっと、どうせ良く思われない。
 両親がそうだったように、『良い歳した大人が何をしているんだ』と眉を顰められるだけだろう。
 今のアダルヘルムにはそうとしか思えない。だからこそ、この趣味と棄てた将来の夢を誰かに話すことは決してしないだろう。あり得る筈もない、少なくとも今は。
「……それでもやはり、俺はこの瞬間が好きだよ」
 誰にともなく呟いた言葉は、降り続く雨音に溶けて消える。その時アダルヘルムがどんな表情をしていたかなんて、キャンバスに広がる風景と絵の具だけが知っていればいい。
🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​ 成功

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