√デディケーション『Glass Life』
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『まるでわたしたちみたいね』
その言葉はまるで魔法のように溶け込むように胸の中に染み込んでいくように思えてならなかった。
二人で呼んだ√EDENの絵本。
読んだ率直な感想だった。
そして互いに、そう名乗ることにしたのだ。
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名前はなかった。
代わりに数字があった。
それが名前じゃあないのだと気づいたのはいつだっただろうか。
「今日から此処が君の家だ」
告げられた言葉の意味を計りかねていたが、そこはとても温かい場所のように思えた。
「ジル」
小さく呼びかけた名前は、幸せの象徴だった。
少なくとも、わたしにとってはそうだった。
きっと『ジル』は自分を利用するために施設に引き入れたのだろう。それはわかる。けれど、どこかそれだけではないのもまた感じていた。
情が移った。
そう思えることはなかったが、多分、事実なのだろう。
そもそもあの施設は様々な実験を行うための場所だ。
『|新物質《ニューパワー》』
それは斜を迎えた人類にとって至上命題であった。
解決しなければならない問題であるし、同時に壁でもあった。それは、わたしにとってはあまり関係のない話に思えた。
けれど、違ったのだ。
とても密接につながりのあるものだった。
「お外にでたいの」
「だめだよ。外は怖い人がたくさいるからね」
「でも、お外に行ってはダメって言うなら、ジルはどうなの?」
自分は大丈夫だと、『ジル』は言った。
うそつき、とわたしは思う。
『ジル』だって大丈夫ではない。
周囲の人々が『ジル』を見る目には敵意が満ちているように思えてならなかった。それは直接的な暴力だとか、罵りだとかではないもので発露されようとしていた。
だから、自分の身に降りかかる災難が回避される可能性があったのだとすれば、きっとこの時だけだったのだ。
「お外に」
「だめだよ」
これでお話はおしまい。
これ以上はない。
わたしは『ジル』以外の誰かに手を引かれて、真っ白は服に着替えさせられて、寝台の上に横たえられる。
覚えているのは、真っ白な光がいくつも輪を描いていたこと。
そして、見知らぬ大人たちがいたこと。
口元を覆う布切れと、どこか正気ではない眼差し。
それがどういったものかはわからない。けれど、少なくとも『ジル』への悪意が良くないカタチで自分という手段でもって発散されていることだけはわかった。
身を開かれ、切り分けられ、内側にあった温かいものを取り出され、その全てを詳らかにされるのは、そう時間はかからないことだった。
赤黒い色が見える。
赤はだんだんと傷んで、黒く変色していく。
けれど、本当の黒にはならない。
わたしは知っているのだ。
赤は本当の黒にはならないってことを。けれど、それ自体に意味もない。
「……結局、ただ一つ死体が生まれただけだったな」
「期待外れだ。アイツが気にかけているからなにかあるのだろうと思っていたが」
「どういう趣味をしているんだろうな。まさか、実験対象に情が移ったとでもいうのか? 馬鹿なことを」
「いや、案外そうなのかもしれんぞ。どれだけ優秀でも年若いんだ。精神を病んでいてもおかしくはないだろう」
それは『ジル』を疎ましく思っていた同じ施設の人間たちの言葉だった。
ぼんやりとだが思い出せる。
「結局、なんだったんだろうな、『これ』は」
「さあな。わからないということは、これからわかるかも知れない可能性だと言われればそうなのかもしれんが」
その手には『心臓』があった。
本来の持ち主の体から摘出されてなお、脈打つ心臓。
彼らが求める『|新物質《ニューパワー》』への足がかりになるかもしれないというのは、言うまでもない。
「肉体に宿る生命というものは、一体どちらなんだろうな」
一人の男が言う。
「つまり?」
「頭……つまり脳か、それとも心臓か」
「それは、脳、だろうよ」
「そうか? 脳なくとも心臓さえ脈打つのならば、肉体は生き続けることができるだろう。であれば、心臓こそが生命なのではないか?」
「だが、考えることもできなければ、命令を下すこともできない。脳一つないとな」
「が、『これ』は動いている。脳の命令なくとも」
ガラス管に収められた脈打つ心臓。
それは摘出された今も、送り込む血液なくとも脈打ち続けている。
「では、体は?」
「帰してやると言いさ。研究の続行を言い渡してな」
それはあまりにも人の心のない言い草であったが、この√汎神解剖機関においては珍しくないことだった。
どんな不条理も理不尽も、人類の黄昏を回避するためには必要なことだと肯定されるのだ――。
●√
悔やんでいたのかも知れない。
悲しんでいたのかも知れない。
狂っていたのかも知れない。
『ジル』は黙々と虚ろな目で、身体中のあちこちに走る裂傷の後を縫合していた。
「……」
言葉はない。
ただ黙々と汎ゆる体の部位を解剖された少女の骸、その肌に残る全てを縫合し直していた。
心臓が摘出された死体は、そうすることの意味を見いだせなかった。
だが、死化粧とも言うだろう。
「綺麗にしてあげなければ」
それは一種の使命感だった。
自分が招いたことだということを『ジル』は知っていた。
己の愚かさは言うまでもない。
これが彼女に対してどれだけの慰めになるのかもしれない。が、それでも殺らずにはいられなかった。
縫合した痕はもう見えなくなっていた。
『ジル』の優秀さは言う前もない。
「……いつか、ときみが言っていたものを入れておくよ」
硝子の棺。
収められた少女の体は、その言葉に答えを返さなかった。そっと組まれた腕の間に『白紙の絵本』を抱かせ、棺を閉じる。
幸せになってほしいと思っていたし、幸せにできるとも思っていた。
その全てがうぬぼれだった。
いつだって、そうしたことがわかるのは手遅れになってからだ。
人生というものは斯くも悲しみに満ちているのかと『ジル』は思った。
「せめて、此処ではない何処かで幸せになって欲しい。君が願ったもの全てが叶いますように」
土を被せる。
冷たい、地の底に彼女を一人にするのは忍びなかった。
けれど、そうしなければならないのだ。であれば、と呟きは解けて消えていく。
雪のように。
凍える息を切らしながら『ジル』は彼女の埋葬を終える。
「さようなら、アリス――」
●√
生命は死せる時、不可視の怪物インビジブルへと変貌する。
それがこの世界の理。
如何なる√に置いても変わらぬ普遍。
埋葬された棺の中から、本来は新たなるインビジブルが立ち上るはずだった。
しかし、何時まで経っても、生命失われた骸からインビジブルは現れなかった。
硝子の棺が軋む音が聞こえる。
地の底から響く音を聞く者はいない。
いや、一人だけいた。
黒いドレスを纏った少女。
硝子が軋む音が響く地の底に手をを伸ばすようにして触れると、不思議なことに小さな手を握っていた。
握りしめた手は思った以上に力強いものであった。
そして、引き上げられるようにして一人の白いドレスの少女が冷たい地の上にへたり込んだ。
彼女は緑色の瞳をしばたかせ、首を傾げた。
「どうして、わたし、こんなところにいるの?」
「あなたは覚えていないの?」
「なにを?」
粉雪が舞い散る中、白いドレスの少女は首を傾げていた。
「なにか、覚えていないの?」
「……なにか」
黒いドレスの少女の言葉に白いドレスの少女は躊躇うように瞳を伏せた。
なにか、忘れている。
けれど、何を忘れているのかが判然としない。
多くのことを取りこぼしたように思えるし、最も大切なものを手放してしまったかのような気がする。
それは『欠落』と呼ぶに値するものだった。
考えても、考えてもわからない。
不安と恐怖とに胸が……高鳴らない。手のひらが触れた胸からは、本来あるべき心臓の音が聞こえてこないのだ。
自覚すらできない。
「どうして?」
「きっとあなたは多くのことを代償にしてしまったのよ」
「代償?」
「そう、あなたが今ここで生きているという代償。人一人の一生分と釣り合う何かを。だから、あなたは今、ここで生きているの」
「そう、なのかしら? そうかもしれないわ」
でも、と白いドレスの少女は自分の胸に当てた手をもう片方の手で握りしめた。
ここに、もう一つ何かがあったような気がするのに、と彼女は思い出せないなにかにすがるようだった。
忘れてはならないこと。
忘れたくないこと。
その二つが白いドレスの少女の命を支えているように思えてならなかったのだ。
「思い出して」
「思い出す……」
空っぽの自分。
なにもない自分。
寄る辺もない自分。
違う。
そんなはずはないのだ。必ず、自分には何かがあったはず、なのだ。
黒いドレスの少女が手を伸ばした。
「思い出せないなら、思い出させてあげる。あなたの『ほんとうの思い出』を」
その言葉に違和感を覚えた。
それは本当に『ほんとうの思い出』なのか。けれど、流れ込むようにして頭に浮かび上がる思い出に困惑してしまう。
二人であの白い部屋から逃げ出した思い出。
手を繋いで、駆け出したあの日。
白と黒が揺れる。
ドレス。
白い部屋から白い廊下へ。
鳥かごから逃げ出すように、羽ばたくように『わたしたち』は抜け出してきたのだ。
「どうして忘れていたんだろう?」
それは、と黒いドレスの少女が口ごもる。
本当ではないから、とは言えない。言えるわけがない。
それは、自分が空っぽだとうことに耐えられなかった白いドレスの少女が作り出したものだからだ。
全てにおいて彼女に都合がよろしい現実。
それが本当とは言えないだろう――。
●√
最初は、ただの哀れみだった。
散々に利用されるだけ利用された少女。
刻まれ、死に絶えることしか許されていなかった生命など、人の倫理の全てに泥をぬるような行いの結果でしかない。
どこまでも身勝手な正義でなされたことは、大局を見れば人類にとって必要なことであり、正しいことなのかもしれない。
だが、切り刻まれた少女に焦点を当てれば、それは許しがたい残虐行為に他ならない。
だから、不可視の怪物インビジブルと言えど、哀れに思ったのだ。
『うその思い出』で、虚を埋めて、けれど決して埋まらぬ『欠落』を抱えて、少女が一人生きていくのは、あまりにも不憫だった。
「だったら、あたしは」
黒いドレスを身にまとう。
緑の瞳と薄桃色の瞳。
揺れる白い髪は、ありすと同じ色。
「あなたのお名前は?」
白いドレスの少女が手を伸ばした。
「アリス・スノウライト」
粉雪が舞う中、見上げる緑の瞳は、どこまでも真っ直ぐで純真無垢だった。
だから、伝えたのだ。
憐憫も要らないだろう。彼女に必要なのは、きっと一緒にいる『誰か』だ。
だから、自分はこの姿になった。
彼女の傍に寄り添い、従い、共にあること。
それだけのために自分は今ここにいる。
「ここが、楽園だというのなら、もうあなたはもうどこにも逃げられない。だから、あたしがいるのよ」
「もうどこにも?」
「そう。もうどこにも」
不思議そうに白いドレスの少女は頬を膨らませた。
「いいえ、わたしはどこにでも行ける。だって、白紙なんだもの」
そう言って彼女は『白紙の絵本』を黒いドレスの少女、 アリス・スノウライト(フェイク・フォーク・テイル・h00421)に示してみせた。
何も描かれていない絵本。
どの頁を見ても白紙ばかり。
それは、未来を示すものであった。
皮肉なことだ。
もう何処にも行くことのできない。
死という可能性の終着点に向かう少女への手向けとして『白紙の絵本』を棺に収めたのだ。
けれど、皮肉だと思えたのは、彼女が真に√能力者として蘇生したからだ。
少女の―― 沫雪・ありす(白紙の絵本・h00132)の最大にして最高の思い出を|寄す処《Anker》として。
そして、粉雪は沫雪へと変わる。
肌指すような空気にぶるりと体が震えるのを見て、アリスはありすの手を取った。
「ありすにはあたしがいるわ。あたしは、ありすのうさぎよ」
「わたしのうさぎさん。きかせて、あなたのおはなしを」
何一つ失われていないと言うように微笑む少女がいる。
その碧の瞳は、どこまでも純粋に。
そして、この世の全ての不条理を射抜くように、眼差しでもって見つめる。
たとえ、彼女が多くを奪われてなお陰りはない――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功