Square one
さしたる仕事ではなかった。
白銀の髪を揺らすシリウス・ローゼンハイム(吸血鬼の|警視庁異能捜査官《カミガリ》・h03123)の眼前にはただ一人の魔術師が残されている。植物の蔦を操る強力な術師といえど、√能力者でもある吸血鬼の力の前には障壁にも成り得なかった。
「悪足掻きは止めておけ。楽に死ねなくなるぞ」
槍の穂先を向けてやれば息を呑む。シリウスは武器を以て相対する他に道のない者に容赦をしない。鮮血に似た色の双眸を眇める銀の吸血鬼へ、しかし魔術師は杖を向けた。
ならば男も慈悲はかけない。精確に投擲された槍の着弾と殆ど同時、最後に放たれた術式の狙う先が己の胸元であることに気付いた。
構いはしない――常であれば。
死が√能力者に齎す影響は極めて少ない。死を失った肉体は如何なる損壊にも構わずに、いずれは再びこの世界に舞い戻るのだ。だから。
シリウスが気に掛けたのは己の命ではなく、胸元を飾るガーネットのブローチだった。
死した両親の形見なのだと弟が言って、彼に譲ってくれたものだ。さりとて亡き彼らの顔すら思い出せぬ|今の《・・》彼にとって、それに宿るのは両親への愛着ではない。脳裡には何よりも先に愛し慈しむ弟の顔が浮かぶのだ。
砕ければ弟が悲しむ――その表情を想起する。己とは違い両親の記憶を残しているらしい彼が、その形見だというものを失えば、きっとひどく浮かない顔をするだろう。思考する余地さえない刹那、シリウスは幾度失えど何れは戻る命よりも、二度と戻らぬブローチの方を優先した。
背を向けるように魔術に身を晒す。刹那に己を貫く衝撃に息を詰める。体中が痺れるように痛み、痙攣する喉が呼吸を拒否している。まるで己の中から何かを奪い去らんとするかのような、或いは何かを強く縛そうとするような感覚に抗いながら、シリウスは一度目を伏せた。
――ようやく息が戻って来た頃には、全てが終わっていた。
詰めていた息を吐き出す。幾分の変調があるのは当然のことだろう。それなりに熟達の術師が放った魔術をまともに食らったのだ。しかし命までもを奪うには至らなかったようだ。幸いにして体に残るような傷跡や流血の跡も見られない。これならば弟に手当をしてもらうまでもないだろう。
シリウスの手中にしかと収められたブローチは無事だ。安堵の溜息が口を衝くのと同時、|緑の髪《・・・》が視界の端に揺れる。
「――ん?」
強い違和に顔を上げた。
魔術師の姿は跡形もない。槍に貫かれて死したか、或いはどこかに逃げおおせたのかまでは分からぬが、少なくともこの場からは退いたということになろう。しかし眼前に立ちはだかっている問題はかの敵の行く先ではないのだ。
静かになった戦場の跡を横目に、シリウスの手は己の髪を持ち上げた。血の色をした双眸に映るのは弟と揃いの銀ではなく、深い森によく似たフォレストグリーンである。
どうやら随分な変化が齎されたらしい。しかしその本質を手繰ることは叶わなかった。少なくとも現在のシリウスが知覚しうる範囲での支障はないようであるが、そうだとすれば一体何の魔術だったというのか。
ともあれ彼が一番に思い浮かべたのは分かりようもない全容ではなく、当座の変化に対する弟の反応の方だった。少なくとも見目が一変したのは確かだ。|大丈夫だ《・・・・》と幾ら言い募ったところで説得力などあったものではない。
「どう説明したものかな――」
揃いだった髪を失ってしまったのも痛い。幾つも重なる理由を前に眉間に皺を寄せたシリウスは、とまれ遅くならぬうちに、言い訳を考えながら弟の許へ戻ることとした。
◆
――そして彼の記憶は徐々に曖昧になっていく。いつどのようにして斯様な魔術に掛けられたのかも、髪の色の変わった切欠の核たる任務のことも。
かの魔術師は、報復として吸血鬼の力を封じ、ただびとと変わらぬ存在へと堕とさんとした。しかし彼が強く握り締めたブローチのお陰か、或いは彼が弟を想ったが故の抵抗か――絶大なる力の全てを媒体なく封じ切ることは叶わず、シリウスの裡には戦いに支障なき程の力が残されている。
蔦の魔術によって縛された力の片鱗は、緑髪の形で彼の身に残る。本来シリウスが持つ吸血鬼の本質に近付かぬ限りは、如何にしても元に戻らなかった髪を、彼はそのまま束ねることと決めた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功