銀狐啼天
きい、きい、と、歩くたびに何かが擦れていた。
指先が冷たい。足の底がぬめりとする。
意識が、判然としなかった。
……あれはなんだ?
あれは、岩の鳥居だ。
ずいぶん数は減っている。でも、まだまだ足りない。
……それは何の数だった?
『ハハ。だから言っただろうが。気は確かか、ってよ」
意識にノイズが混じり、あの嘲笑が目の裏に浮かぶ。
「――黙れッ!!」
鳴り響いた凄まじい破壊音に、俺は一時的に覚醒した。
俺の左肩からだらりと垂れた、気味の悪い色の肉塊が、床の岩盤を勝手に殴りつけて砕いている。
どうやらそれは、腕のようだった。
ひどく見覚えのある、不吉な腕だ。五指を備え、しなやかな鱗に覆われてグロテスクに脈打つ、|暴蛇の怪腕《マガツカイナ》。
なぜ、ヤツの腕がここに?
脳裏に焼き付いた嘲笑を振り払うべく、残しておいた煙草を吸おうとして、俺の腕がもはや、その用を為さないことを知った。
そうだ。この肉塊が、俺の左腕なのだ。
「……は?」
触れた腕から伝わる感触が、これほど気味の悪いことがあるのか。俺の肉体でないはずのモノが、俺の脳味噌にシグナルを送っている。
割れた岩のざらつき、冷たさ、腕の筋線維ひとつひとつが蠢く感触。
皮肉にも、それはかつての腕よりも遥かに強力かつ精密な感覚器官だった。
俺は、ヤツの妖力を支配しきれなかった。
知らぬ間に呑まれていたのだ。
あの戦場で、俺が犯した|過《あやま》ち。他者を信じず、自らケリをつけようと肉片を喰った結果がこれか。
あの戦いのすべては、俺のせいで無駄になったのか。
…………『あの戦い』?
考える途中で、俺は絶句した。鮮明に思い出せるはずのマガツヘビとの戦い。その記憶の細部が、頭から失われつつあることに気づいたからだ。
俺はそこに、一つの幻を視た。記憶に群がる蛇の群れ――手足のない、小さな小さなマガツヘビの大群。それが脳裏を這いまわり、ゾッとする笑みを浮かべる様を。
過去の記憶を、呼び戻そうとした。
幼いころの思い出は。通った学舎は。行きつけの店は。あいつらの名前は。初めて殺した古妖は。
……脳裏にあるはずの何もかもが、思い出せなくなっている。
立ち止まり、息を整えようとしたが、俺の足は鳥居に向けて機械のように歩んで止まらない。頭の奥で、ヤツの声が弾けた。
『よお、クソ餓鬼! 残念だなあ、もう手遅れなんてよ……ハハハ。どうやら、テメエの言っていた通り、俺の本体は死に過ぎて復活できねえらしい。だからよ、テメエの中に残った俺の肉から、テメエの体を奪ってやることにしたのさ』
……馬鹿な。こんな、こんなところで。
『テメエはそのまま、真っ直ぐ歩いて帰りゃいいさ。ケケケ、その時にはもう、テメエの意識なんざ残っちゃいねえがな! クッ……ッハハハ! 『必ず帰還して、迎えられる』んだろ? 俺を殺した英雄としてよ……ハハハハハハハ!! いい気味だ! 妖怪大将? いいぜ、俺が君臨してやるよ! テメエらの世界をぶち壊した、史上最悪の化け物として、その名を刻み込んでやる!!』
脳裏に生じた絶望。それが腫瘍のようにぶくりと膨らんで、ザクロのように弾けた。その内側から、無数の蛇が這い出して、俺の意識を、記憶を、執念を、精神を、希望を、すべて、闇で覆い尽くして。
『俺に楯突いた雑魚は、死ね!!』
――カチリ、と。闇の中に、使い慣れたライターの|火打石《フリント》が鳴る音がした。
火花が散り、風音を立てて小さな炎が灯る。
それは、白銀の炎だった。
炎の内側に、まるで万華鏡のように、様々な人間や妖怪の姿が、映っては消えていく。もう誰かは分からない。俺の、大切な人々。
「……まだだ」
蛇に包まれた炎が縮み、だがふたたび、火勢を増して燃え広がる。煌めく炎が闇を照らし、蛇の群れを焼き尽くしながら、自らの記憶すら焼いていく。
『おい……こりゃ何だ? 何のつもりだ!?』
「悪いな、お前ら……俺は、最後まで頼りにならなかった……だがよ、この体をこいつにくれてやるくらいなら、全部、ここで終わらせてやるよ。それが俺の、せめてもの役割だ」
尾が逆巻き、俺の全身を白い炎が包んでいく。その炎は、まだマガツヘビに穢されていなかった、純然たる俺の妖力だ。
それは、マガツヘビと混ざり合い、変質した俺の存在そのものを、焼き払うだけの力を残している。
『ふ……ざけんな! くだらねえ真似してんじゃねえよ、ブチ殺すぞ!!』
「なってねえなクソ蛇が。脅すってのは、こうやるんだよ」
俺は指先で胸骨をぶち破り、自らの心臓を抉り出した。心筋が、マガツヘビ由来の赤黒いものに置き換わっている。
『やめろ……テメエ、イカれてんのか!? ……そうだ、テメエにはもう記憶がねえ! つまりは|世界座標《Anker》が残ってねえってことになる! その状態で――』
「構わねえよ」
心臓が、指先から伝う静かな白炎に包まれた。
「忘れられる英雄もいる」
『こ、この――餓鬼がァッ!!』
一瞬。
強烈に勢いを増した炎は、閉ざされた岩室を目まぐるしい銀に照らして――俺たちのすべてを、包み込んだ。
〇
岩室鳥居を限界まで覗き込み、一千億本の鳥居が並んだその時。脱出に要する時間はおよそ350万日となる。それは、人間が100回生き死にしてもなお届かない、壮絶な数字だ。
だが。
岩室鳥居とは、奇妙建築のひとつであり――それは古妖を封印した際に生まれる副産物だ。発端の古妖に変化があれば、奇妙建築は歪み、ときに、砕け散る。
この日。何者かが、ある古妖の封印を解き、殺し、そして、喰らった。
〇
「…………」
失敗した。突然流れ込んだインビジブルが、肉体を修復してしまった。
そんな言葉の羅列が、頭の中に浮かんではすぐに消える。もう二度と、思い出せはしないだろう。
喉の奥がカラカラだ。
食欲、飢餓、空腹。喰う、啖う、空……俺は、何者だ? ああ、そうだ。妖怪の、大将になる存在だ。
すべての妖怪を……≪破壊≫、して?
なにかが……違う。けど、なにが、違ったンだっけ。
カラダが、焼けるように熱い。胃袋も脳みそも、おまけに胸の中まで空っぽだ。
「どこ、だ……ここ」
暗い。夜だ。左目が熱源を探るが、風の冷たさを感じるだけ。
左腕で地面を触ると、そこに腐った木の感触があった。指先を這わせていくと、倒れた障子戸のようなものが落ちている。
古い、とても古い、社のどこか?
俺は、ここに封印でもされていたのか
「分からねえ……けど喰う、喰わなきゃ」
ぐちゃぐちゃの思考が、急に一つにまとまった。頭の中で争う二つの意思が、その結論で合意したかのような。
「喰わなきゃ……」
手近な柱を引き抜いて、ボロボロの社殿を内側から叩き壊す。崩れ落ちた梁と屋根の残骸から這い出すと、木くずの粉塵の向こうから、青ざめた月が俺を見ていた。それは、まるで憐れんだ瞳のように。
『またな』
誰だ。思い出せない。右目から涙が零れていた。俺は何かを、忘れているのか。
痛む胸の中身を絞り出すように、月に、吼えた。
「Rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr…………!!!」
人ならぬ、歌のような獣声が、夜空に響き渡っては消えてゆく。
〇
『銀狐啼天』完
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功