沛雨にくらむ
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「にいちゃん」
「ここに隠れててな。大丈夫、絶対に兄ちゃんが守るから」
そう告げて、瞳に星を宿すひとは少年を物陰に押し込めてすぐに踵を返した。
次の瞬間には何かが鋭く風を切る音がして、金属とぶつかり合う激しい音が幾度も響く。その度に身体を縮こまらせて震える少年は、恐ろしさのあまり両手で耳を塞いで目を閉じた。
どうしてこんなことになったんだったろう。
あれは、そう。確か一週間くらい前のことだ。ささいなことから友達と喧嘩をした。「絶対に自分は悪くない」と意地を張り続けた結果、後に退けなくなった心と友達との仲は拗れに拗れていって、遂に今日、怒鳴り合いの喧嘩になってしまった。
制止する担任の声も無視して、ただただ相手を罵った。本当は仲直りしたかったのに、一週間の間に自分の心はどれだけこんがらがってしまったんだろう。言いたいと思ったなにもかもが、口から出る頃には相手を傷つける為だけの暴言に変わってしまう。
――違う、こんなことを言いたいんじゃないのに。
心は違うと叫んでいるのに、言葉は刃になって友達を傷つけ続けてしまう。まるで何かに操られているみたいに言葉は言うことを聞いてくれない。どんどん自分が怖くなって、少年は教室から逃げ出した。
ランドセルも背負わず学校を飛び出して、当てもなくただ一生懸命に走り続ける。やがて息が切れて苦しくなって、立ち止まって息をしようとして、うまく空気が吸えないことに気付いた。
はくりと開いた口から、カッターナイフの刃がボロボロと吐き出される。
(なんだ、これ。なんだこれ。なんだこれなんだこれ……!)
息を吸えず、刃を吐き続ける少年に蔓のような何かが絡みついてさかさまに宙吊りにする。そうして、少年は自らを捕らえるモノと向かい合うこととなる。
見開いた目の先で、妙に首の長い異形の怪物が、さっきまで喧嘩していた友達を取り込みながら大口を歪めて笑っていた。
声にならない絶叫が空気を震わせる。
死ぬと直感が囁いた。
誰かたすけて、と心が叫んだ。
けれど音にはならなかったのに。
――風と共に現れた大きな人影が、怪物を力いっぱい殴り飛ばした。
颯爽と現れた姿はまるでテレビで見たヒーローのようだ。
けれども少年たちという人質の存在が、ヒーローの思い切った行動を思い留まらせる。当たってはしまわないか。二人をどうやって助けるのか。隙を作る為にはどうすればいいか考えている間も敵の攻撃は止まず、触腕による殴打と少年が吐き出した刃の絶え間ない攻撃がヒーローを何度も襲った。
刃が肌を裂いて鮮血が散る。風が唸る程の打撃を受けた身体が壁に叩きつけられる。どう見たって既に満身創痍なのに休む間もなくいたぶられる姿を見て、意識が朦朧とする少年の目から大粒の涙が零れ落ちた。
いくら小学生でも、自分が邪魔になっていることくらいはわかる。罪悪感に胸を苛まれながら、それでも自分も友達も助けてほしくて弱々しく手を伸ばした。
だってヒーローはまだ真っ直ぐ少年たち見ている。炭酸のような青い光を宿した眸はまだ、諦めていないってわかったから。
小さな少年の手を見た瞬間、ヒーローは歯を食いしばって強く壁を蹴った。
めり込んだ身体を無理矢理に引き抜いた代償を背負い、赤を散らしながら。眼光で流星を描きながら振りかぶった武器が、少年たちを捕らえていた触腕を諸共消し去った。
軋む身体に風を纏い、少年たちを両腕に抱えたヒーローは、すぐさま物陰に少年たちを連れていって敵に向き直る。
――そうして、時は今へと至ったのだ。
激しいぶつかり合いの音が少しだけ止む。少年がこわごわと目を開けると、飛び込んできたのは目が眩むほどの白焔の光だった。
朝日が地平線から顔を出した瞬間みたいに眩しくて綺麗な光。そんな一瞬の光のあと、世界はようやく静寂と平穏を思い出したようだった。
「もう大丈夫。怖いやつは兄ちゃんがやっつけたからな。二人共怪我は?」
少年たちに駆け寄ったヒーローは――自分の方が酷い様子なのに――すぐさま安否を確認して二人を抱き上げる。
友人は未だぐったりして目を覚まさないけれど、呼吸が出来るようになった少年はなんとか意識があった。頷けば心底安心したように安堵の息を吐く。
「今病院に連れていくから安心して。えっと……君、名前は?」
「……さくらい、かずき……」
「そっか。よく頑張ったな、かずきくん」
苦しくてつらかったな、と笑ってくれるヒーローに、少年――桜井・和樹は一気に溢れ出た怖さと安堵で嗚咽を溢れさせる。
そうして信頼できる解剖機関の者が二人を保護するまで、和樹はヒーローの服を離さなかった。
「兄ちゃんもびょういん」
「大丈夫だよ、兄ちゃんは頑丈だからな!」
一緒に行きたがる和樹を車に乗せていると、空が一気に暗くなる。雨が訪れようとしている。
走り出す車を見送って、大きく手を振って――。
「ぐっ……ゲホッ、がふっ」
人気が無くなった路地裏でヒーローの青年――祭那・ラムネは、我慢も遂に限界に達して夥しい量の血を吐いた。
身体をくの字に曲げて乱した呼吸を、いくらも間を置かずに降り出した雨が掻き消していく。
無理矢理に我慢していた痛みも、もう十分だろうとばかりに身体のあちこちで熱を持って主張する。痛みで視界が回って、うまく立てない。ふらついた拍子にぶつかった壁にそのまま背を預けて、ラムネは自らが吐いた血だまりの中に座り込んだ。
「あばら……2,3本いってるかな……内臓も、ちょっとわかんないや……」
朦朧とする意識の中で、何とか自分の身体を検分する。
触腕の殴打は容赦がなかった。自動車に激突されるような衝撃が何度もラムネを襲ったが、意識の手綱をギリギリのところで手放さずに済んだのは少年が助けを求めることを諦めなかったからだろう。
骨折の痛みとは別に、内臓が燃えるように熱い。戦いの最中何度も受けた呪いは怪異を撃退したことで消えたはずなのに、呪術的効果が毒として体内に残ったのかもしれない。蝕む毒と怪我が全てになって、もう熱いのか痛いのか、自分では判断がつかない。
震える手でスマホを操作してみたが、こんな時に限って霊障により起動してくれなかった。
「こんなときも……あるよなあ……」
仕方ないか、なんて乾いた笑いが零れた。頭がまわらない。意識がどんどん混濁していくのがわかる。もう目を閉じてしまいたい衝動を後押しするように、雨はどんどん強くなっていく。
いっそ雨が冷たくて気持ちいいな、と思った。それと同時に、怒られるかもなあなんて他人事のように思う。
身体はとっくに起き上がる気力を無くしてしまったようで、指先一本にすら力が入らずにスマホを取り落とした。水溜まりに落ちた手とスマホの音すら、雨音でもうよく聞こえない。
ただ思考の片隅で、少年たちが何の後遺症もなく無事に回復しますようにと願った。
こんな時ですら気に掛けるのは自分のことではなく誰かのことで、それがラムネがラムネたる所以なのだろう。
あばらの痛みに激しく咳き込んで、また血を吐く。もう目蓋を開く余力すら失くして、ラムネは遂に意識の手綱を手放した。
ぱしゃん。
頼りない水音を立てて、支えを失った身体が倒れ込む。
――ああ、それでも。助けられてよかった。
最後に微か呟いた言葉と笑顔を、土砂降りの雨は覆い隠していった。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功