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【楽園怪談】逢魔

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 結局のところ、二人でいて不審がられない場所は限られる。
 吾妻・篝(埋火・h00320)が日頃から逢瀬と称してやまない会合は、八上・花風香(水光・h00156)にしてみれば平穏な日常を掻き乱されないための義務のようなものである。情念の重さに大いなる不均衡が生じた関係性をものともせずに、どこにでも侵入出来る身になった篝が大袈裟な溜息を零した。
「俺はたまには大通りで仲良くデートしたいんだけどなあ」
「は? キモ」
 これ以上ないほどに眉間に皺を寄せた花風香が吐き捨てる声さえ、少年の姿のまま時を止めた霊体には好ましいものであるらしい。満足げな表情を睨んだ少女の脳裡には瞬時に幾つもの罵倒が思い浮かんだが、一つでも口にしてしまえばますます眼前の幽霊を調子づかせると直感して声を吞み込んだ。
 篝が脅迫に近しく求める形で実現している二人きりの対話――実態は殆ど花風香が篝の要望に付き合わされているだけである――は、大抵は人目の少ない場所で行われている。何しろ篝は幽霊である。市井の中に真実の霊視の才覚を持つ者は少なく、故に今の彼は殆どの一般人に視認されない。彼の姿を|明瞭《はっきり》と目に映し、当然のようにこうして会話をしている花風香の姿は、幽霊の見えない者たちからすれば虚空に独り話し掛けているようにしか見えないのである。
 そんなことになるのは厭だった。
 まして斯様な状況が眼前の男によって齎されることになると思えば余計に業腹だった。数多の√を渡るようになって知ったことだが、この世界には辻褄合わせと忘却を望む力が強く働いているらしい。たとえば花風香が街中で独り見えない男に語り掛け、鬱陶しく纏わりつく彼を押し返すように空中に腕を勢い良く伸ばしても、大抵の人間はすぐに忘れる。
 すぐに――というのは、即時に――という意味ではない。
 ほんの僅かにもこの男によって|可哀想な人《・・・・・》の括りに押し込められるのは厭だ。見るからに歪んだあからさまな好意を隠しもせずにぶつけて来る彼と二人きりになるよりも、ずっと花風香の眉間に皺を刻む事実であった。
 そういうわけで、彼らが顔を合わせるのは大抵が夕暮れの河原や路地である。精々付近の道路を車の数台が行き来するばかりの場所であれば、誰かに会話を聞かれる心配はない。今しがた何をするでもなくうろついている川辺もまた、そういう絶好のポイントの一つだ。
 しかし花風香が一つ譲らぬことを作れば、篝は彼女に一つ交換条件を出して来る。此度もまたべたべたと纏わりつくように彼女の横に立ちながら、眼鏡の奥でへらへら笑う男は軽い調子で掌を差し出して来た。
「それなら手くらい繋いでくれよ」
「ウザい」
 きつく眉間に力を込めて、纏わりつく体を思いきり突き飛ばす。しかし男と女の体格差は片方が死んだ程度で覆せるものではないようで、律儀にも透過せずに花風香の腕を受け入れた篝は軽くよろけただけに留まった。幽体となった彼にとって質量はあってなきに等しい。そういう存在であるからなのか、或いは当人の意志で|そうしている《・・・・・・》のか分からぬが、そも花風香以外の誰にも触れ得ぬ体は湿った砂利に足音一つ残しはしなかった。
 腹が立つ。
 今にも殴りつけたい衝動に駆られるが、虚空を殴ったのでは車から見ても異常者だ。結局のところ項垂れるように苛立ちの溜息を吐いた少女に取れる行動といえば、足早に篝を置いて前に出るくらいのものであった。視界から少年が消えれば幾分か気分も上向く。その隙に大きく首を横に振って気を落ち着ける。
 時折本気でもう一度殺してやろうか――とさえ思うが、己の内心とは儘ならぬものであるようだ。非常に不本意ながら、自身は篝をこの世界への碇に選んだらしい。思い返すだに何故このようなことになったのか分からぬが、少なくとも今の花風香にしてみれば、彼と必要以上に仲を違えることに意味はない。それどころか自身ともう一人のAnker――こちらは心から大切に思う友人である――に累が及ばぬとも限らなくなる。
 それに。
 どれほど厭おうと、花風香は篝を切り捨てられない。折り重なる理由と脅しなぞかなぐり捨ててやっても構うまいはずが、その一つとして捨て去ることも叶わず、結局のところ彼との|縁《えにし》を根本から絶ち切れぬ。いかに嫌悪の色を浮かべて見せても、そればかりは変わらないことだ。非常に不本意な事実であることもまた真ではあるのだが。
 故にこうして振り払うくらいが関の山である。鬱陶しい少年の軽快な声が己を呼んでいるのは無視する。振り返れば余計に厄介なことになるのが分かり切っているからである。
 ふいに鼻を衝く不快なにおいを嗅ぎ取った。|緩慢《ゆっくり》と開いた黒い双眸の端にふと影が揺らいだ気がして、花風香は我知らず顔を上げる。
 影が――。
 伸びている。
 否。
 立ち昇って――いるのか。
 斜陽に長く伸びた花風香の影に交わるように、橋から昏く伸びた冥暗がいやに|明瞭《はっきり》と映る。欄干の幾何学模様を呑み込んで、赤く染まる逢魔が時の静謐に佇んでいる|それ《・・》は、一つ限りの眼で彼女を見下ろしていた。
 意志の読めぬ視線であった。検分とも睥睨ともつかぬ稀薄な眼差しは、|縦になった眼窩で《・・・・・・・・》花風香を見据える。
 影が伸びる。腕のように。
 伸びて。
 伸びたら――どうなる。
 濃く落ちた夕闇の冥暗が花風香を呑み込んだとしたら、彼女は。
 少女が見上げるほどに高くなっていく影が、低くなっていく日差しを遮っている。今や縦型の巨大な眼窩すら遥か見上げる空にある。月のように彼女を見ているのである。立ち込める厭なにおいは鼻腔を絶えず蹂躙する。
 まるで腐った有機物の――。
 違う。
 |水死体のにおい《・・・・・・・》か。
 嗅いだこともないはずの骸の悍ましい腐臭を、花風香は何故かまざまざと思い浮かべた。暮れていく日が照らす川に浮かぶ、水を吸って膨れた人とは思えぬ風船めいた形が内部から崩壊するさまを幻視した気もする。
 腐ったらこういうにおいがするだろう。
 構成物は人も魚もさして変わらぬ。
 水を吸って際限なく膨張する骸と同じように、眼前の|闇《くらがり》が夜闇の如く拡がっていくのを、彼女はそのときになって理解した。このまま夜になる。夜になれば影は消える。或いは。
 ――全てが影になるのか。
 驚愕のあまりに息を呑んだ。強張った足がたたらを踏む。その後ろから。
「この体になってから、幾つか得したことがあるんだよ――」
 人肌の腕が伸びる。
 後方から手を伸ばした篝が、花風香を抱き締めるように引き寄せた。|影のない《・・・・》幽体を飲み込むことは叶わない。ましてその指先には炎が灯る。
 骸は燃やすものだ。
 少なくとも、日本においては。
「|こういうの《・・・・・》も燃やせるようになったこととかな」
 掌の業火が燃え移る。夕闇に濃く落ちた冥暗を赫赫と照らした昼光の如き眩さが弾けた。至近に赤白く爆ぜる炎の熱を感じた花風香は、思わずきつく目を瞑って腕で瞼を庇った。
 己のものに手を出されかけた篝の炎は容赦の一片も孕んではいなかった。囂々と燃え盛るそれが断末魔すらも灰にする。苦悶と共に消え果てる死者の名残の、無数の人間が同時に金切声を上げるに似た絶叫が尽きるのを、少年の双眸はひどくつまらなさそうに見詰めていた。
 少女の眩んだ視界がようやく戻って来る。眉間に皺を寄せると余計にきつく見える黒い眸が瞬いて、残像に焼かれた風景を捉えようと息を吐く。
 防護策もなしに火を間近に見れば、生者には失明の危険すらある。むろん彼女の視覚が失われた程度で篝の|愛《・》に変わりはないし、寧ろそうなって彼の手なしに生きられなくなるというのも悪い話ではない。
 しかし今は。
 反射神経に優れた彼女の目が無事に焦点を結んでいるらしいことを喜んでおくことにする。
「勿論、花風香とこうやって二人っきりになるチャンスが増えたのも、得したことの一つだけど」
 首を大きく横に振る花風香の耳の至近から、からからと笑う調子の良い声が聞こえた。それで今の状態を知覚する。
「良い加減離れろ」
「ちぇ」
 唸るように吐き捨てた言葉に羞恥の色は一片もなかった。かの影が連れて来たにおいを凌ぐほどの強烈な嫌悪感に、果たして篝はすんなりと体を離した。
 吸い込んだ空気が未だ鼻腔の奥に蟠る腐臭を撫でる。一つ大きく咳を零した次の吸気は、清涼な川の香りに塗り替わった。己が力に近しい感覚が身に巡れば、不愉快な気分も幾らか落ち着く。
 橋の影は常と変わりなかった。欄干に施された幾何学模様のあしらいが徐々に不均等に伸びていくのも、暮れていく夕陽の前では見慣れた光景である。それだけを見れば、まるで白昼夢から醒めたようにさえ思えた。
 しかし。
 未だ花風香の視界には眩暈のような残像が残っている。篝の腕の感触も身に感ぜられたし、何より眼前に生えた草が焦げ目を残していた。
 深々と溜息を吐く少女の横合いから、少年の期待に満ちた双眸が割り込んで来る。今日一番の屈託のない笑顔が幾人を騙して来たのかを考えるだけで厭になるから、花風香は考えるのを止めて、見慣れてしまった眼鏡から視線を外して質問を遮った。
 そのつもりであった。
「命の恩人と、手、繋いでくれる?」
 厚かましくも言外の拒否を撥ね付けて、篝の掌が催促するように伸びて来る。
 眉間にひどく皺を刻んで口を引き結んだ。命の恩人――というほどのことをされたような気はしない。そも√能力者であり護霊の助力も得ている花風香にしてみれば、充分に対処出来ることであったようにも思う。驚愕が勝ったあまりに反応が遅れただけだ。すぐにも剣を抜き放ち、清澄なる水の気配で以て斬り裂いてやれば良かった話である。だが。
 篝が彼女を助けたのも、また事実であった。半ば茫然と驚きに身を任せていた花風香を引き寄せた行動によって我に返ったのは真実だ。炎によって焼かれた影が完全に消失したことも、眼前の状況を見れば容易に想像がつく。
 長らく考えた末――。
 花風香は揺れる篝の手に無言で自らの手を重ねた。
「最悪」
 呻くような嫌悪の声と眼差しを受け取り、篝はいたく嬉しげに笑ってみせた。彼女はこういうところが己の甘さで、何よりつけ入る隙なのだとは思ってもみないことだろう。その生真面目なまでの思考ゆえに篝を振り切ることも出来ず、結局は体よく言いくるめられて彼の言うことを聞く羽目になっているのだ。
 それが愛しくてたまらない。彼女だけが触れられる体温のない指先で強く握ってやれば、花風香はますます厭そうな顔をした。
「酷いなあ花風香。お前のこと命懸けで守ってやったのに」
「懸ける命ないだろ」
「そうだな」
 少年は気負いなく笑う。
 眼鏡の奥の双眸が眇められる。何らの悲しみも絶望も怒りも憎悪もない、ただ凪いだ視線が、花風香を絡め取るように真っ直ぐに見詰めている。
「お前が取ってっちゃったもんな」
 息が詰まる。
 状況からして択一だった。半ば巻き込まれるような形で奪った命の重みと、反芻する幽かな罪悪感を、軽やかな言葉が擽るように刺激する。まるで一つの瑕疵もないかのような顔で、笑いながら手を握って来る存在しないはずの質量が、急激に花風香の双肩に圧し掛かった。
 分かっていて言っているのだ。これまでの付き合いで厭というほど理解している。
 だが。
「――最悪」
 俯いて吐き捨てるような花風香の声には、幾分力ない色が乗った。それを聞き遂げて――。
 篝は静かに笑った。
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