Aconite
己が意志で何をも選んで来たとはいえど、生まればかりは選べるものではない。
物心ついたときより、ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)には母しかいなかった。時折部屋を訪れ、ライナスに興味のない一瞥をくれて母を連れ出していく男が|父《・》という呼称を持っていることを知ったのは、それなりに言語を解するようになった頃のことである。
その頃には母子の住まう場が離れと言われる場所で、父だという男は他に大きな邸宅を持っていることも理解していた。婚姻関係にある女は母ではない――即ち己は愛人の子とでもいうべき立場であることも、同世代の子にしてみれば早いうちに呑み込んでいた。
父の来訪そのものに何かを思ったことはない。自由があるとは到底思えぬ生活の中でも、明朗で快活なそぶりを崩したことのない母が、そのときばかりは口を閉ざしていたのが印象的なばかりである。
後に彼女から聞いたところによれば、特別父を嫌っていたわけではないらしい。美貌に惚れ込んだ彼と生家が営んでいた工場の契約により、借金の|形《かた》として囲われることとなったそうであるが、それそのものは契約の一環として受け入れているらしかった。
とまれ――。
ライナスにとって母の不在が憂鬱であったのは、それを見逃さぬ女の存在があるからだ。
仲睦まじい男女を装って出ていった後、入れ違うように甲高い足音が響く。存在を誇示するような歩き方が癖なのだ。
開かれた扉の向こうにいる女は、ライナスを見るなり眦を吊り上げた。よく手入れのされた金の髪を小綺麗に纏め、紫の鋭い双眸で少年を見下ろすさまは、実に典型的な上流階級の女のように見える。臆しもせずに顔を上げる夫の愛人の子に、ますます厭な顔をしてみせた彼女が、有無を言わせぬ怒りを孕んだ声で静かに問う。
「また外に出ていたそうですね」
大した時間じゃねえだろうよ――。
とは言わない。黙しておくのが得策だと、ライナスは既に学んでいる。無駄な口答えをしたところで面倒事が長引くだけだ。女が求めているのは彼に大手を振って折檻を行うための|理由《いいわけ》であって、実態ではない。
言葉を返さぬ少年に鼻を鳴らす。隠しきれぬ激情を圧し殺すような声は吐き捨てるように続けた。
「不義の出来損ないらしいことです。お前の母も所詮は工場の小汚い女、躾の必要など理解出来ないのでしょうから、仕方のない話ですか」
父だという男の妻――正妻に当たる女は、聞けば政略結婚のような形で嫁いで来たという。
となれば婚姻そのものに双方にとっての利があったのであろう。その利を享受したときから男は殆ど女に興味を示さなかったらしい。
悪いことに彼女の方は心底男に惚れていた。婚姻関係こそ解消されぬまでも、半ば捨て置かれるようにあった彼女は、あらゆる手段を講じて男の視線を己に引き戻そうとしたようである。
結局――。
それが要因で余計に妻に寄り付かなくなった男は、小さな町工場の娘に一目惚れをした。そのときには既に借金苦に陥っていた彼らに対し、手段を選ばぬ男は借金の肩代わりを申し出たという。
その強引さだけは夫婦揃ってよく似ているのだな、と、ライナスは思っているが。
ともあれ食うや食わずの家族に他に選択肢はなかった。美しい娘一人を差し出して他の全員が助かるとはまるで悪魔への生け贄の儀式のようだが、そうせねば生け贄になる娘ごと共倒れだ。
母はそれを理解していた。抵抗の方法を模索する父母を説き伏せて凛と家を離れた彼女は、男がその契約を律儀に果たしたことを以て、自らが永遠に対価を支払い続けることを決めたのである。
面白くないのは正妻にあたる女の方だ。懐妊を機にいよいよ何らの興味も示されなくなった彼女は怒り狂った。
周辺では飛び抜けて器量が良かったようで、子を成してからもその美貌を自らの武器とした。確かに客観的に見れば美しい女である。しかしそれもライナスの母には及ばず、才女と名高かったらしい彼女のあらゆる才覚は、|小汚い娘《・・・・》を前にしては意味を成さない。
ライナスは母を聡明な人だと感ずるが――まあ、父に当たる人物が、母の聡明さに惚れ込んだとは到底思えぬ。
さもなくば斯様にも無茶な手段を最初から取ろうとはすまい。
ともあれ恋の病熱は父にあたる男の心を大いに焼き、母は離れに囲われることになった。眼前でライナスを罵る正妻は、すぐにも母を痛め付けようとした――。
らしい。
伝聞である。
母は自身を連れて来た男の正妻に真っ向から戦いを挑んだという。男の目を盗んで現れては何かと理由をつけて攻撃しようとする女に対し、臆しもせずに立ち向かったそうである。
上流階級に生まれつき蝶や花やと育った正妻は、自営業の工場で男衆に囲まれ育った町娘のあまりの勢いに、完全なる敗北を喫した。それですっかり母には手を出さなくなったらしい。
問題は。
その矛先が母によく似たライナスに向いたことと、周囲が正妻に同情的であることだ。
表向きの彼女は実に巧妙な淑女である。釣り合いでいえば当然ながら軍配が上がろう。使用人たちへの態度が取り立てて横暴というわけでもない。夫の愛を愛人に奪われた哀れな正妻――同情に足る立場を勝ち取った彼女は、それを自ら意図して維持しているようにさえ思えた。
たとえ妾の子に躊躇なく暴力を振るうような本性を隠していたとしても、それは変わらない。寧ろライナスとその母の存在が彼女を凶行に駆り立てるのだと言う者さえある。
良家の娘として叩き込まれた礼節と外面は、正妻だというヒステリックな女を|品行方正な淑女《・・・・・・・》たらしめるに十全だったということだ。
単に、ライナスやその母の前ではそうある理由がないだけである。
「来なさい。お前の存在が公になればあの人が困ると、何故いつまでも理解出来ないのですか」
困りは――しないと思うが。
あの男はライナスに興味がないのだ。一顧だにしない。母のことは大層愛しているようだが、その子供に関しては単なる付属物に過ぎぬと、彼に向けられる視線が物語っている。
こうなれば彼に助けはなかった。とはいえそれも関係のないことだ。
内心に助けを求めなくなって久しい。助けが来ないことはそれよりずっと以前に理解していた。
服の下に隠せる箇所へと繰り返される体罰に、最初のうちは痛みを覚えていた――ように思う。
唯一愛を注いでくれる母が、自分の怪我に傷付くのではないかと不安がる、幼年期の男児らしい健気さもあったような気がする。だから母が自分のために正妻を怒鳴り付けてくれることを知りながら傷を隠したのだろう。しかしそれも今や遠い過去のことだ。
熱した金属を押し当てられたとき、熱感の他に感ずるはずの激痛を覚えなくなったのがいつからだったのか、ライナスはよく覚えていない。体が痛みを忘れたことに引きずられたか、浴びせられる母への雑言に傷付いていたはずの幼い心には、いつからか怒りだけが満ちるようになった。
以来、この躾と称された拷問紛いの虐待は、少年にとってただ憂鬱なだけの時間に取って代わった。
困るのは精々水に沈められるときくらいのものである。痛覚は消えても苦しみは消えない。呼吸の出来ない感覚も、冷えた体の震えも不愉快でならないのだ。
今日も悲鳴の一つも上げずに青あざを一瞥するライナスに、女は吐き捨てた。
「不気味な。あんな女の血を混ぜるから――」
彼から反応を引き出すために強度を増す折檻に、頑なに無反応を貫くのは、彼の中にある意地が故だ。物陰に隠れるようにこちらを伺う、彼より数ヶ月ばかり前に生まれた腹違いの兄の存在が故であるといっても良い。
上流階級の父と釣り合う女の間に生まれた息子は実に凡庸だった。
取り立てて人に劣る部分もないが才覚もない。何をやっても半年ばかり遅れて生まれたライナスに三歩ばかり負ける。正妻からすればそれもまた気に食わず、また母がそういう態度であるものだから、兄の方もライナスに敵意と対抗心を剥き出しにしているのだ。
どうあれ妾腹の子である。ライナスがいかに凡庸な兄と比して優秀であれど父に愛されているわけでもない。跡継ぎとしての立場が揺るがされる心配なぞすべくもないと、ライナスは誰に言われるでもなく理解していたが――。
まあ。
それも分からぬ凡愚だったのである。
母が母なら子も子だな――というのが、苛烈な|教育《・・》が苦痛にならなくなって久しいライナスの、半ば時間潰しの如き思索の中心になっていた。彼が母より受けた影響より深く、今しがた腹違いの弟に火を向ける女に支配されて来たなら分からぬでもない。
ないが。
その溜飲を下すような侮蔑と妬心に満ちた眼差しは腹が立つ。
一度ならずその顔を殴ってやりたく思ったが、母より仰せつかった通り、ライナスが手を上げることはなかった。腐っても法制上の妻の子に、認知されただけの愛人の子が殴りかかったとあっては、理由がどうあれ不利になるのはこちらだ。
感じもせぬ痛苦を唯々諾々と受け入れるよりも、この母子のために母と己が窮地に追いやられる方が癪である。しかしそれを理由に情けない悲鳴を上げてやるつもりもなかった。
父が母を部屋に帰すまでの間、降り注ぐ暴力と罵倒の雨は、ライナスが十二のときに止んだ。
母が死んだのだ。
誰も予期しなかった。この折体調を崩していたのは事実だが、あっという間に寝付いたと思えばすぐに呼吸が弱くなった。毎日のように足繁く通っていた父より先に、ライナスは母が天に導かれたことを悟っていたが、誰かに伝えようとは思わなかった。彼の言葉に耳を傾ける者など、最初から母の他にいなかったからである。
代わりに、父だという男が現れて絶望の悲鳴を上げるまで、夜のうちに息を止めた彼女のベッドに静かに寄り添っていた。
表向きは病死とされた。医師もそう見立てたというから、父もそうだと思い込んでいたようだった。しかしライナスは幾分の疑念を抱き、泣き崩れる男と己の他にまともに悼む相手もない小ぢんまりとした葬儀の最中、花に囲まれた母の寝顔を見詰めていた。
聡明な人だった。だからもしも自らに死病が迫っていたならば、息子にだけはそれを告げていたはずだ。年端もいかぬ少年の去就を誰より気にしていたのは彼女である。だから、そうしなかったのは――。
病がそれほどまでに素早く彼女を蝕んだか。
さもなくば、病と偽られた毒が彼女を殺したかであろう。
あの手段を選ばぬ女は、医師を丸め込んで母を謀殺したとしておかしくない。
丸め込む必要もないかもしれない。いかに謀略的な結婚にすぎぬとしても、正妻を置いて愛人に現を抜かす夫を――ひいてはその愛人を、彼女の生家はよく思ってはいなかったはずだ。娘の立場を慮らずとも自分たちの名誉が傷付くとなれば動くこともあろう。抱えの医者に金を積むくらい造作もない。
この場にライナスの味方はいない。あの執念深い女は少年を恨み続け、憎い女によく似た顔を葬ろうと画策するだろう。少なくとも。
家を出ねば殺される。
母はあらゆる知識をライナスに与えてくれた。かの正妻に良いようにされることを防ぐためであると思っていたが、ともすれば毒蛇の牙が己の頸動脈を噛み千切る日を予期していたのかもしれなかった。
部屋に戻った彼を止める者は誰もいない。母も最初からいなかったかのようである。いつも外に抜け出すときと同じように、彼の足は親しんだ部屋を振り返りもせずに去った。
荷は持たなかった。あったところで意味がないからだ。路銀の足しに幾分の金銭を拝借し、少年は誰にも知られぬまま、当て所なく走っていく。
ライナス・ダンフィーズ。
それだけあれば充分である。今も昔も――これからも。
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