秋津島に錨を下ろす
星の輝きが弱まり、空は闇から群青、群青から白へと明けつつあった。
峠道で追いはぎを繰り返した簒奪者集団を全て撃滅せしめて、やっと漆黒の影は足を止める。
「……これで全てか」
長身の影が呟くと、傍らにすり寄るように小さな魂魄の火が揺れた。彼はそれをひと撫でし、厳し気な口元を僅かに緩める。
鋭く光る青い瞳、練り絹を零したような銀の髪。この日ノ本の山中におおよそ不釣り合いな長身の異国人の美貌が暁闇の空を一瞥すると、慄いた鴉どもが鳴きながら散り散りに逃げる。
獣たちが畏れて道を譲る気配を感じながら山道を下り、人里に一歩踏み出す頃には銀髪の男の姿は《変貌》し黒髪黒目の若者の姿に変わっていた。
「鬼退治は終わったよ」
抑えた声をかけると、焚火に当たっていた同心が緊張した面持ちで弾かれた様に顔を上げた。
「正信殿、なんと、もう……! かたじけない。すぐに籠を用意します。町の奉行所で……」
「報せは君が届けたまえ。『災い』が片付いたならば私は真っすぐ屋敷に帰るよ。来た時の馬を用意してくれるかい?」
まるでちょっとした仕事の後のような気安さで同心と別れ、眞継・正信(h05257)は朝焼けを浴びながら帰路についた。
故郷を遠く離れた狭苦しい|島国《√》に縛られてどれほどの時が経っただろうか。
初めは帰れぬことに焦り、暫く人々の有様を観察して忘却の法則に狼狽え、やがて星詠みの脅威を覚え口惜しい思いをした日々も遠くなった。
この地に根を下ろせたのは、ひとえに現地住人との奇縁によるのだろう。
藩主お抱えの匙師、眞継に南蛮の密貿易者と勘違いされて匿われた幸運が大きい。彼のもとで血縁の正信の名を借りた。情勢を探る過程で、幕府の庇護下の星詠みの協力者となれた。資産と姓を継ぎ眞継正信として生活の基盤を得られた。
最も幸運なのは、匙師の故・眞継が和薬臭い恰幅のいい老年だったため、吸血の食指が動かなかったことだろう。
本当に、人柄と思慮深さ、口の堅さは文句なしの人物であったが。
『領主マニュエル・ロティエ』であった己がこの『眞継正信』を見たら何と言うだろう。『災い』の芽を潰すために人間の使い走りとなり果て東奔西走する馬上の男を、嗤うか唾棄するか……。
異国の文化に恭順し、討伐される鬼とならないよう吸血を避けて本性を隠すことで生き延びてきた。むしろ、情念のまま荒ぶる鬼や欲のまま軽率に姿を現す魔を狩る側に回りながら。
「……」
馬上の正信はふと眉を寄せた。
この地で長く生きる内に、ゆっくりと体に老いが忍び寄っている。
人間たちは『いつまでもお若くいらして、どんな薬をお使いで?』と微笑むが、『マニュエル・ロティエ』であった頃は斯様に風に肌が乾くことなく、銀の髪もくすみはしなかった。
私は吸血鬼だ。吸血鬼のはず……だ。高貴たる証の|永遠性《不老不死》が静かに侵される毎日を、独り口を噤んで耐えている。
風通しのいい丘陵を越え、竹林の横の道を抜けた。目を細めて見渡せば、丘の上から遠くの港の海のきらめきまで見通せた。あとは蛇行する坂を下ればやっと自宅に戻れる。
縁もゆかりもなかった異国が、今では過ぎ行く景色のどこをとっても『眞継正信』と因縁を結んだ地になってしまった。
坂に現れる絡繰りの辻斬り、港を荒らす妖怪、竹林を塞ぐ迷い路、丘を呪う異界の仏、そして今回、山に現れた鬼畜の凶賊団。
この地で生きるために仕方なく『災い』を鎮めてきた。
それだけだったはずだ。
高く昇ったお天道様に照らされるこの国が、可笑しなことだ、遠き我が領地に勝るとも劣らず愛おしい。
駅に馬を返し、町の中を屋敷まで歩く。
もうすっかり日は昇り、往来は活気づいていた。
正信もまた、黒髪黒目、長身なだけの|住人《√EDENの能力者》として人の波に加わった。
もしも今この瞬間に、目の前でよそ見をして歩く初々しい丁稚の首筋を噛み血を啜れば、老いは遠ざかり、本来の己に戻れるのだろう。
だが、本心の己がそれを望んでいるかと言えば……。
「君、そう、よそ見しては親方を見失ってしまうだろう」
「あっ、こりゃ失礼しました。親方! 待ってくだせえ」
正信はぶつかりそうになった丁稚の肩を片手で止め、穏やかに見送る。
仕方なしに守って来たこの地の日常は、いつしか正信にとっての当然になっていた。
砂埃、家畜の匂い、人の匂い、古びた桶の匂い、新しい白木の匂い。
人々の生活が交差している。生まれ、老い、また生まれる、それぞれの時の匂いが重なり、揺らぐ。
匙師から譲り受けた屋敷の門を潜った。
湿度の高い空気に針葉樹の香気が秘かに染むこの地の空気ももはや懐かしい。
おそらく明日も、明後日も、私はここで眞継正信として日々を紡いで生きていく。
人間の国に縛られた屈辱よりも恐怖よりも強く、帰ってきた、と心から思えた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功