願わくは、桜の樹の下で
――|不散桜《ちらずのさくら》、と呼ばれている桜の樹があるという。
その名の通り、花が散ることなく、常に満開の花を咲かせているのだそうだ。噂を聞きつけた咲樂・祝光(曙光・h07945)が足を運んでみれば、強い夏の陽射しを跳ね返すように、淡い桜の花吹雪がひらひらと辺りを待っていた。
「これは……うつくしいと言うよりも、面妖だな」
そこだけが夏の世界から切り離されたような、奇妙な空間になっているのだ。
蝉時雨が辺りに響く中、彼が花びらに導かれるようにして桜の樹に近づくと、ひやりとした冷気が足元から這い上ってくる。かすかに瞳を眇め、見鬼の力を用いて辺りを見回してみれば、樹の根元で何かが渦巻く気配がした。
「呪物が埋まっているのか。……調伏をすれば、すぐに鎮まるだろうが」
陰陽師を生業とする祝光にとって、この手の異変の対処はお手のものだ。
身を屈めた少年が、さっそく土を掘り起こそうと手を伸ばすと、そこで「にゃあ」と間延びした猫の鳴き声がした。
「……ミコト」
その茶トラの、ぽっちゃりしたデブ猫は祝光の相棒で、尾の先が二又になった死霊の猫又だ。気まぐれな性格のミコトは、どうやら桜の下に眠るものに興味を覚えたらしく、前脚をちょいちょいと動かして地面を掘り始めた。
やがて――土の中から、何かが顔を覗かせる。祝光がミコトと一緒に覗き込んでみると、それは白い封筒に入った手紙のようだった。
いつ書かれたものかは分からない。文字はところどころ汚れたり滲んだりしているが、達者な筆遣いだ。読めそうな場所を拾い読みしてみると、どうも遺書らしい。
「願はくは 花の下にて 春死なむ――……誰かの、辞世の句だったか」
最後に書かれた歌を詠みあげて、祝光は目の前の不散桜に目を遣った。
――もし願いが叶うなら、春の桜の下で死にたい。
きっとその願いは叶わず、手紙の主の後悔がこの地に根付いて、不散桜を生んだのだろう。呪物と化した手紙を調伏し土地の穢れを祓えば、この問題は解決するが――、
「にゃあ、にゃうん」
傍らでミコトが声を上げる。手紙の主のことが気になっているのだろう。
死んでも死にきれず、死霊となってどこかを彷徨っているのではないか。その手紙を手がかりに、何とか探すことはできないだろうか。そんな風に言いたげに、彼は祝光の衣を引っ張って何度も鳴くのだった。
「……そんなににゃーにゃー鳴くな、ミコト」
まったく、普段はあまり懐かないくせに、こんな時には妙にすり寄ってくるのだ。
また厄介事に首を突っ込むことになりそうだ――と柔和な貌をひそめつつも、祝光はその口元に優美な笑みを浮かべて、手にした桜護龍符をひらりと揺らした。
「わかったよ、仕方ないな。……今回だけだからな」
出鱈目に繋がった奇妙建築を行ったり来たりして、辺りを漂う死霊や妖怪たちから話を聞く。その内に彼らの抱えた困りごとまで解決する羽目になり、気がつけば祝光は呪いの社の近くで、邪悪な妖と大立ち回りを演じていた。
(何でこんな事になったのだったか……)
破邪の護符を操りながら、ゆるりとため息を吐く。マイペースなのは隣のミコトもそうで、彼のほうは呑気にあくびなどしていた。直後、獣妖の尾が辺りを薙ぎ払う。目の前の足場が崩れるも、その背の極彩色の翼を使って祝光が軽やかに飛んだ。
「――急急如律令」
そのまま結界を張って、吹きつけてくる瘴気を防ぐのと同時――霊力を宿した符を飛ばし、確実に敵を追いつめていく。あと少しで片がつく、と彼が気を引き締めたところで、頭上から雷とともに嘲るような声が降ってきた。
「……ふん。相変わらず下等な霊どものために駆けずり回ってるのか」
威圧的な神気を放つ、龍の角を生やした男がそこに居た。
知っている顔だ。母方の一族のもので、祝光の家――咲樂のことを快く思っていないらしく、よく嫌がらせをしてくる。
「仇の血の、混ざりものには似合いの姿だが……目障りだな」
彼の蔑んだ眼差しが、己の背の翼に注がれているのが分かったが、祝光は柔和な表情を崩すことなく悪意を受け流す。父方の家系の特徴である翼は彼の誇りであり、決して疎んじるものではないと分かっていたからだ。
気にせず妖との戦闘を続けようとするも、男の侮辱はなおも続く。
「貴様の父親は勿論、母親もそうだ。一族の面汚しとはこのことだな! 貴様だけでなく、他にも混ざりものを産み落として――」
――ドクン。
その矛先が家族にまで向いたところで、祝光の表情が一変した。
「……俺のことは、兎も角」
儚い春桜を思わせる相貌が、途端に春雷の苛烈さを帯びる。破魔の桜吹雪が吹き荒れるなか、迦楼羅の翼を大きく広げた少年は――そこで曙光の輝きを宿した桜護龍符を男に突きつけ、威厳のある声で冷ややかに告げた。
「両親や妹達を侮辱するのは、ゆるさない」
その魂魄ごと破壊してやる、という祝光の本気を感じたのだろう。龍族の男は忌々しそうな顔で悪態を吐くと、慌ててその場から退散していった。
そんなこんなで――色々とトラブルに巻き込まれもしたが、ようやく手紙の主を見つけ出した祝光は、彼を桜の樹の下に連れてくることに成功した。
幽霊となり此の世を彷徨っていた青年は、自分が誰なのか、どんな未練を抱えていたのかも分からなくなっていたようだが、不散桜を目にした瞬間、全てを思い出したかのように微笑んで、祝光とミコトに向かって一礼した。
透き通った手で樹に触れると、彼は咲き誇る頭上の桜を見上げ――、
「……ああ」
祝光が瞬きをする内に、その姿は花びらの向こうに消えて見えなくなっていた。
握りしめていた手紙もどこかへ消え、満開の花が見る間に散っていく。不散桜は元通りの時間を取り戻したのだ。
「願はくは 花の下にて 春死なむ――」
手紙に書かれていた歌を口ずさみ、祝光は旅立っていった死者のことを想う。自分にはまだやるべき事があるし、辞世の句など思い浮かばないけれど。
季節外れの桜が散っていくのを愛猫とともに眺めながら、祝光はぽつりと、歌の続きを口ずさんで遠い空の彼方を見上げた。
「――その如月の 望月のころ」
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴 成功