シナリオ

かつてその村で少年だった

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 風が、吹いていた。
 今頃山の寺院では経文旗が大きくはためき、マニ車がカラカラと賑やかに音を立てているに違いない。”人々の幸福”を願う祈りは風に乗って、この街へと降り注ぐ。
 私は、ここからは見えないその景色を心の拠り所として長年この街で働き、そして老いてきた。
 遠くの山々は暗く、空は赤を通り越して紺色に染まり始めた頃、私はゆっくりと大通りの石畳を歩き馴染みの食堂へと入った。
「最近、この坂道がつらいんだよなぁ……」
「なら家まで注文取に行こうか?」
 最近代替わりした若い店主がそんな軽口を言いながら厨房から顔を出す。
「そこまで老いてはいないわ」
 そう笑って、お決まりの席へと座った。
 いつもの一品にビールを注文して、一息つく。夜はこの店で軽く一杯するのが、長年の日課になっていた。
 辺りは仕事を終えた男達で騒がしい。最近では観光で訪れる外国人の姿もチラホラ見かけるようになった。
(「外国人、か……」)
 じわり、とどこか遠くで苦い記憶が顔を出す。
 テーブルに置かれたビール瓶の蓋を開け、そのままぐいっと呷り、目を閉じた。
 遠くの喧騒に混じって、時折聞こえる異国の言葉に意識は遥か遠くに遡る。

 それは今から50年前。私がまだ少年だった頃の話だ。
 当時は国主導のインフラ推進計画により、都市部では学校が次々と建ち、道路が舗装され自動車が走り始めていたという。だが、私が生まれた村はまるでそこから断絶されたかのように、穏やかな昔ながらの生活を続けていた。
 緩い山肌を切り開いた農村、それが私の生まれた村だった。三階建ての家から見えるのは、段々畑と牛、そして村を囲う鬱蒼した森だけで。当時の私にとってそれが世界の全てであり、ぼんやりと、自分はここで一生を過ごすのだと思っていた。
 運命が動き出したのは、前夜の大雨が嘘のように晴れたある日の午後だった。
 私は石垣へと登り、放牧されていた牛を呼んでその毛を漉いていた。
 すると村の少女二人が竹籠を背負ったまま走り、森から村へと飛び込んで、そして叫んだのだ。
「誰か来た!」
「三人!」
 漉いていた牛の黒い毛が辺りに舞った。
 外部から人間が来るなんて珍しい。何年ぶりだろう。私は誰が来たのか思わず作業の手を止めて村の入り口をジッと見た。農作業をしていた村の大人達も同様だ。
 村の入り口に人影が現れ、村長があわてて家を飛び出していった。村長が歓迎するかのように両手を広げたのを見て、ああ、村長の知り合いなのか、と思った。夫婦と思われる男女と、私と同じくらいの小さい影がぼんやりと見えた。
(「今、目があった……?」)
 村の入り口からここまで距離があるというのに、不思議とそう感じた。
 私は石垣から降りると、家の一階にある家畜小屋の棚へとブラシを戻し、急いで村長の家へと向かった。
 私が村長の家へと着いた頃には他の野次馬も到着していて、やけに賑やかだったのを覚えている。
「お客さん?」
 村長の家の道脇に座っていた友人に問うと、首を横に振った。
「新しい村民だって」
 どうやら数日前に大人達が集まり、何やら相談していたのはこのことだったようだ。
 なんの話をしているのかと聞き耳をたてようとして、子供は森で遊んでいろと追い出されてしまった事も記憶に新しい。
「おい、隣国の人間でもないみたいだが、大丈夫なのか?」
 隣の家のおじさんが言った。
 国境にほど近いこの村で外国人の存在は決して珍しい訳ではなかった。当時は国境を仕切る壁や門がなく、境界線が曖昧で国は税金さえ納めてくれたらいいという状況であった。
 現に、私の先祖は隣国から来たという。それ故に隣の家とは違う神の肖像を信仰の間に飾っていた。
「ずーっと遠くの、東南の方からやってきたんだって」
「遠くの国かぁ」
 村からあまり出ることのなかった私は、友人の言葉に胸が高鳴った。
 そして、さっきは遠くからしか見ることができなかったから、その異国の民とやらを間近で見てみたいと思った。
 暫くして、村長とその異国の一家が階段から降りてきた。
 周囲には村の新しい仲間を見ようと集まった人だかりで壁が出来てしまい、私とその友人は大人達の足と足の隙間からその様子を窺った。
 見えたのは、異国の民族衣装を着た一家だった。若い夫婦に、私と同じ10か11そこらの少年だ。
 少年はまるで太陽を知らないような白い肌で。ヤマビルのいる森を歩いてきたというのに、まったく出血をした様子がなかった。
「あっ、こっちを見た」
 友人が言う。私は、思わず息を飲んだ。一瞬であったけれど、少年の緑がかった髪の隙間からは、金色の瞳がのぞいていたのだ。
 村長が村を案内すると言って一家を連れて行くと、あっという間に人の波は捌け、数人だけがその場に取り残されたように残った。
「全然笑いもしないし……なんか、怖かったね」
 私がぼんやりとしていると、友人がそう呟いた。
「俺達の歓迎の宴もキャンセルだとよ、面白くねぇ奴らだぜ」
「えっ、歓迎の宴やらないの!?」
 近くにいた隣の家のおじさんが吐き捨てた言葉に、私はひどくがっかりした。久々に干しブドウご飯が食べられると思っていたからだ。
 よく覚えていないが、その後は真っすぐに自宅へと帰ったのだと思う。
 両親と居間で夕食をとっている間も、頭の中はあの少年のことばかりだった。
「俺、明日あそこの子と出かけてくる!」
 少年が気になって仕方なかった私は、両親の心配を他所に翌日の朝、彼の家へと向かった。
 例の一家が住むことになったのは、村はずれの一軒家だ。
 長らく人が住んでいない古い家だったが、村長が「いつか使う日がくるかもしれないから」と、普段からせっせと掃除をしていたのだ。
 この村の家はどこも木造三階建てで一階は家畜小屋となっており、この家もそれは例外ではなかった。だけれど、引っ越してきたばかりだからか家畜の姿はなく。朝だというのに窓が閉じられ、真っ暗でガランとした部屋がどこか怖かった。
「こんにちはー! 誰かいますか?」
 大きな声で二階へと声をかけると、暫くして階段を降りる小さな足音が聞こえた。暗闇から姿を現したのは、あの緑髪の少年だった。
 相変わらずどこかの民族衣装を着ていて、少年からは仄かに嗅いだことのない匂いがした。悪くはない香りだった。
「なぁ、一緒に牛糞でも拾いに行かないか?」
 私は彼を真っ直ぐ見据えてそう言った。だけれど、彼はうんともすんとも答えようとしなかった。
「もしかして、言葉が通じてない……?」
 返事もなく、無表情でジッとこちらの様子を窺うだけだ。
「仕方ないなぁ……おばさーん! 息子さん借りていくよー!」
 そう、どこかにいるであろう彼の母親に声をかけ、彼の手をにぎる。そうすれば、彼は素直に私の後を着いてきてくれた。
 途中の坂道で、遠くの家から視線を感じて見てみれば、友人だった。
 昨日のやつも居るぞ、とジェスチャーをして手を振る。
「なぁ、お前も手を振ってみろよ」
 こちらをジッと見る少年の手をホラと言って無理に振ってみるも、されるがままで友人は苦笑していた。
「なんだかなぁ」
 言葉が分からないというのならば、せめて笑えばいいのに。まるで人形を相手にしているようだと思いつつ、彼を連れて行ったのは村の中心だった。
 背負っていた籠を地面へと下ろすと、放牧されている牛の落とし物がそこら中に目についた。私は木製のスコップを取り出して、それらを掬い籠へと放り込む。牛糞は畑の肥料として使うから、これを集めると大人達に喜ばれるのだ。
「ほら、お前も」
 彼にもう一本持って来たスコップを握らせてジェスチャーをすれば、拙い動きながらも、彼も真似して牛糞を掬った。
「そうそう、その調子。やるじゃん」
 そういって、あっという間に牛糞でいっぱいになった籠を背負い、向かったのは隣の家のおじさんの所だった。
「おじさん、いつもの拾ってきたよ!」
「おう、ありが……」
 そう礼を言いかけて、昨日の少年が一緒に居ることに気づいたおじさんは怪訝な顔をする。
「この子も一緒に拾ってくれたんだ!」
 牛糞を拾ってきてくれた村の子供に悪い対応はできない。私がゴリ押し気味にそう言えば、どこか気まずそうに懐から包みを取り出す。
「ああ、いつものやつな、ほらよ」
「やったー!」
 受け取ったのは謝礼代わりの嗜好品だ。ビンロウの実をキンマの葉で包んだもので、この村の住人は皆、老若男女関係なしにこれを愛用していた。
「ほら、噛んでみろよ」
 村の石垣の上に並んで座りソレを差し出せば、少年は受け取ったキンマの葉をその場で広げた。
「違う違う、そのまま噛むんだよ。飲み込んじゃ駄目だぞ」
 そういって自分の口にを放り込む。渋いエグ味とピリピリとくる辛み。そして、ほんわかとした高揚感。
 ビンロウの実の影響で真っ赤になった口で笑ってやれば、彼は目を丸くした……ように思えた。
 私の願望から来る目の錯覚と言われればそれまでだが、それが私は嬉しかった。
 彼が私の真似をして、嗜好品を口に含む。彼の口の中には長い長い牙……いや、白い犬歯が見えて、それがキンマの葉とビンロウの実を噛み砕いた。
 唾液と混じったそれは赤へと変色して。真っ赤に染まった口元に、私は思わず静止した。
 いつもの見慣れた光景だというのに、何故だか見てはいけないものを見てしまった気がしたのだ。白い肌に長い牙、そして真っ赤な口元が、まるで人間ではない別の生き物のように思えて。
 私はそんな自分の思考を打ち消すように、道端にビンロウの実を噛んだ残りカスを吐き捨てた。地面には真っ赤な染みができた。
「どこまで飛ばせるか競おうぜ。俺、ここ! ほら、お前もペッて吐いてみろよ!」
 ビンロウの実を吐き出させて、少年の口元を意識しないよう余所を見ながら言った。
「明日は森へ行かないか? 竹籠を背負ってこのキンマの葉を取りに行こう。北の方には生えていないから良い小遣い稼ぎになるんだ」
 話が通じているのか分からないが、私はそう言って彼を家まで送り届けたのだった。

 約束通り次の日も少年の家へと向かった。相変わらず家畜の姿はなく、真っ暗でガランとした家だった。彼は一階の階段にぽつんと座っていて、たまたまかもしれないが、私を待っていてくれたようで嬉しかった。
「おじさーん、今日も息子さん借りてくよー!」
 真っ暗な階段に叫ぶも返事はない。
「留守なのかな?」
 そしてそのまま彼の手を引いて、村を囲うように生えている常緑樹の森へと向かった。
 改めてお互いの足が足首まで保護されているのを確認し、竹籠を背負って村の外へと出る。
 鬱蒼とした森は朝でも暗く、足元は先日の雨でぬかるんでいた。
「ヤマビルに気を付けろよ、アイツらすぐ足元から登って来て、血を吸い終わるまで離れないんだ」
 そう言う私の後ろを彼は黙ってついてきた。
「これがキンマの葉だ。昨日齧ったやつ」
 木に絡まるように生えたツタからハート型の光沢のある葉をむしり取って籠に入れる。
「あと、あれはお茶にして飲むやつ。目に良いんだ」
 そう父親譲りの知識を披露してみる。しかし、彼はうんともすんとも言わずにただ黙って私を見つめていて。もう少し、目を輝かせるとかなんかしてくれたっていいじゃないかと思った。
「じゃぁ、この辺でこれと同じのものを集めてくれないか」
 キンマの葉と茶の葉を見本として彼に渡せば、彼はそれらを手に木々の葉を漁り始めた。
「同じところばかり取っちゃ駄目だぞ、枯れちゃうから。少しずつ広範囲に集めるんだ」
 そう言えば、彼は手を止めて別の所を摘み始める。なんだ、やっぱりある程度言葉が通じているじゃないか。頷くぐらいしてくれたっていいのに。
 そう思い私もキンマの葉を摘み始めたところで、私の中にちょっとしたイタズラ心が芽生えた。
 彼をこの場でひとりぼっちにしたら、どんな顔をするのだろう? と。
 ずっと無表情な彼も、真っ暗な森に心細くなり「お母さん! お父さん!」と泣くかもしれない。
 それは、私の人生史上最悪の思いつきだった。
 彼が背伸びをして木の葉を摘んでいる内に、こっそりと距離を取りそして走った。鬱蒼とした森はすぐに私の姿を彼から眩ませて、一人になった私はピリリと辛いキンマの葉を噛みながら森の中を歩いた。
 道中、食べられる木の実を見つけた。泣きじゃくるだろう彼に「ごめん、ごめん」と笑って仲直りの印として渡そうと思い、背負った竹籠へと放り込んだ。
 当時、考えの浅かった私は本当にそれで何事もなく、いつも通りの日常がずっと続くと信じていたのだ。
 時間にして、二時間くらいだろうか。木々の向こう側に見える太陽の位置から「そろそろだな」と山道を下っていった。しかし彼はすぐには見つからなかった。
「あれ……この辺だったよな……どこだ?」
 彼の姿が見つからず、たらり、と汗が出る。まさか私を探して動き回ってしまったのだろうか。
「おーい! どこだー? そろそろ帰るぞー!」
 そう大声を出しながら山道を行く。すると、ガサガサと藪の方から音がして、私はホッと胸を撫で下ろした。
「なんだ、こんな道外れに入ったのか」
 そう笑って藪をかき分ければ、そこには”狩り”をしている虎の姿があった。
 虎の足もとに倒れているのは人間だった。自分と同じぐらいの背丈の少年で、肌は白く、髪は緑で金色の目をしていて――。
「あ……ああ……」
 虎に首を噛まれた少年の瞳孔は開き、口からは血の泡を吹いていた。
「そんな……」
 思わずその場で腰が抜け、体が震える。
 虎は少年の首を噛んだまま、その身を連れ去ろうと彼の体を引きずった。
「まっ……」
 待ってくれ。青ざめたまま出た言葉が途切れた、その時だった。
 彼の影から、ずるりと何かが這い出したのだ。
 まるで牛の内臓のような、白い触手が虎の体へと絡み付き、そして虎の体を貫いた。
 虎は断末魔をあげ倒れるとヒクヒクと痙攣して、やがて動かなくなった。
 臓物の触手が虎の体から引き抜かれると、その身は血を浴び、粘膜がてらてらと木陰の中で光っていた。
 生臭い、まるで家畜を解体した時のような鉄の臭いが辺り一面に広がって私は正気に戻った。
 逃げないと。
 誰から? 虎から? このおぞましい触手から? 彼から?
 訳も分からず立ち上がり、必死に山道を走りに走った。そして、村に飛び込みこう叫んだのだ。
「大変だ! 大変だッ!」
「いったいどうした?」
 集まる大人達を前にして、次の言葉が出てこない。
 なんて言えばいいんだ? 自分が少年を森に置き去りにしたせいで、虎が彼を殺してしまった?
 それとも彼の死体から、触手の化け物が飛び出して、虎に絡み付き串刺しにしたと言えばいいのか?
 大人達に「どうした?」と問われる度に、なんと答えればいいのかわからなくなる。そして私は口走ってしまったのだ。
「あの……男の子………村に引っ越してきた子が……」
「あの外国人がどうした?」
「あの子の影から……こう……なんか内臓みたいな、長い化け物が飛び出してきて、虎を……串刺しに……」
 我ながら最低だと思った。彼を森に置き去りにしたという事実を言わずに、彼が虎を殺したことだけを口にしたのだ。
「内臓の姿をした化け物だと!?」
「あの……白い、牛の……胃みたいなのが……」
 涙目になりながら、たった今見てきた光景を口にする。怯え切った私を見て、大人達はお互い顔を見合わせた。
「それはきっとステワ・ルトゥだ……! ステワ・ルトゥに違いない!」
 村の老人がそう言った。ステワ・ルトゥとはこの地に伝わる怪物で、人を喰うという水中に潜む臓物の姿をした化け物だった。
「化け物は退治せねばいかん!」
 あっという間に熱狂した人々は松明を手に森へと向かった。
 日が落ちかける中、彼らが見つけたのはカラカラに干からびた虎の死体だけだった。
 村長の家の前に置かれたミイラ同然の虎の死体に、見物に来ていた者達は絶句した。
 夕闇も相まって、まるで苦悶の表情を浮かべているような、そんな顔に見えたのだ。
「どうする? 森を捜索しているが、虎を殺したステワ・ルトゥの行方がわからない」
「山ごと焼くか?」
「いや、それは我々も困る」
「もしかして、あの家に帰っているんじゃないか?」
「家に?」
「うちの牛が一頭足りない! きっと奴らに食われたんだ、あの化け物どもめ!」
 隣の家のおじさんが叫んだ。
 この村では牛は大切な家畜で、寿命や事故で死んだ家畜以外は食べてはいけない決まりがあった。嫌な予感に、私は村の人達を直視できなかった。
「女子供は牛を数えろ! 男どもは松明を持て! あの家に向かえ! 村を守るんだ!」
 ――あの家。
 怒号が飛び交う中、私はこれから行われようとしている事に気が付き、思わずその身を震わせた。
 その場で帰らされた私は、もうすっかり暗くなった夜道で、尚も震えが止まらず見かねた友人に背をさすられていた。
「もしかしてお前、アイツが怪しいからずっと一人で見張っててくれたのか……?」
「えっ……? いや、その……」
 違う。違うんだと叫びたかった。けれど舌はもつれ、言葉にならずに消えていく。
 本当は彼がこの村で馴染めるよう、手を貸したつもりだった。
 牛糞を集めて彼を嫌うおじさんと縁を作り、この村で皆が好むビンロウの実を共に味わい、遠くから彼を眺めているだけの村人たちに、彼もこの村の一員だと伝えたつもりだった。
 あの仏頂面の少年が森から大泣きしながら帰ってくれば、彼の人間らしい一面に、村の人達だって普通の少年として扱ってくれるようになる、そうありもしない未来を描いていた。
 その全てが今、裏目に出ていた。
 いつも無表情で人形のような彼を家から出して、多くの視線の前に曝け出したのは私だったのだ。
 どうしてこんな事になった……?
 わからない。なにもわからないまま。私は家の三階にある信仰の間から、外を眺めていた。
 暗闇の中、村の外れから空を照らすような真っ赤な炎と、真っ黒な煙が立ち昇ったのが見えた。
 私は窓の縁に手をかけ無言でそれを見つめていると、母が後ろから私を抱き寄せた。
 その日は一睡もできないまま、朝を迎え、大人達があの家の焼け跡から死体を運び出したと聞きつけた時にはすぐさま村長の家へと走った。
 多くの人が集まる中、大人達をかき分け無理矢理その身をねじ込む。
「こらっ! 子供が見るものじゃない!」
 そう、背を掴まれた瞬間、私の視界に映ったものは、二つの真っ黒な塊だった。
 敷物の上に炭化した肉の塊と、両腕を縮こませ強張った体制の人間の形をした何かがそこにはあった。
 私は人混みからすぐさま追い出されたが、動く気になれずその場にほぼ放心状態で立っていると微かに大人達の声が聞こえた。
「どうして、人間の遺体が?」
「もっとよく見ろ。化け物の死体じゃないのか?」
「俺達は、人を殺したのか……?」
「いや、化け物の仲間だったんだろう」
 ひそひそと囁く、動揺の声。
 あの一家は、全員が化け物ではなかったのか。では彼は、半分、人間だったのか?
 真相は分からないまま、化物夫婦の遺体は村の外れに埋められることになった。
 墓標も花もなく、あれは化け物の死体だったのだと皆口々に言って。
「俺の、せいなのか……?」
 昨日まで隣にいた少年は消え、その両親も炎の中で焼き死んだのだ。
 ぐるぐると様々な思いが頭の中に去来して、ぼんやりしていると。
「――――」
 誰かの気配がした気がして、振り返る。だけれど、そこにあるのは風に揺れる木々だけで。
「は、はは……まさか、な」
 いくら村の男衆が森を捜索しても、彼の遺体は見つかることはなかった。

 数日後、隣の家のおじさんが「居なくなった!」と騒いでいた牛が足を滑らせ崖下で死んでいるのが見つかったが、全ては後の祭りだった。
 皆が口を閉ざし、何事もなかったかのように振舞い、見た目だけの日常が戻った。
 私は同世代から真っ先に村の異変に気付いた英雄として、事あるごとに村のリーダーとして指名されることになる。
 そんな資格など、私にはないのに。

 そして時が経ち、私が成人を迎え、村の女子との婚姻を間近に控えた頃だった。
 隣の家のおじさんが、川べりの風呂に行ったまま帰って来ず、様子を見に行ったら川の底に沈んでいた。
 前日の雨で増水した川に足を取られたのだろうと誰かが言った。
 三つ隣の家のお兄さんは、火だるまになって死んだ。その悲鳴は村中に響き渡り、あわてて村人が水をかけたが遅かった。
 彼は料理が好きだったから、調理中に服に火が燃え移ったのだろうと誰かが言った。
 噂好きのおじいさんが、泡を吹いて死んでいた。おじいさんは山で取った薬草を飲むのが日課だった。
 その中に毒が混じっていたのだろうと誰かが言った。
 血気盛んだったお兄さんが崖から落ちて死んだ。牛に荷物を載せ隣町まで運んでいる途中だった。
 興奮した牛に不運にも押されてしまったのだろう、と誰かが言った。
 ――私は、それらに耐えられなかった。
 死んだのが、あの家を焼いた時にあの場にいた人間ばかりだと気づいたからだ。
 私は結婚を機に、向上心を理由に家族と共に都市部へと逃げるように引っ越した。もしも、死体が見つからなかった彼が今も生きていて、あの時の報復をしているというならば、次は自分だと思ったからだ。

 こうして私は都市部に移り住み、妻との間には三人の子宝にも恵まれ、全てを忘れるように幸せに暮らしたのだった。
 しかし、何事にも終わりはあるのだ。昨年、長く連れ添った妻を亡くした。病死だった。彼女は子や孫に囲まれ、自身が辛いのにも関わらずに笑顔で旅立っていった。理想的な最期だったと思う。一人家に取り残された私は、家を出た息子夫婦に「うちに来ないか」と誘われたが、ゆっくりと首を横に振って「私はここがいいんだ」と言った。

 閉じていた両目を開く。たった数分間目を閉じていただけだというのに、目の前に広がる賑やかな食堂に私はどこかホッとして、なんだか更にビールが飲みたい気分になった。
「おい、ビールをもう一本」
 そう厨房に声をかけると、向かいからヌッと白い手がビール瓶を差し出した。
「おっと……ありがとう」
 見知らぬ若者に礼を言い、ビール瓶を受け取りそのまま呷る。
 しかし、いつの間に座ったのだろう? 気が付けば帽子を目深に被った青年が正面の席へと腰をかけこちらを見据えていた。
「……どこかで会ったかな?」
 緑がかった髪に、白い肌。長い犬歯にそして、帽子の下から覗く金色の瞳。
「っ……!」
 そこで、私はやっと気づいたのだ。目の前にいるのはあの時の彼だと。
 私は見ての通りの老人だというのに、彼はまだ若く二、三十代といったところか。
 やはり、彼は人間ではなかったのだ。そう確信した私は怯えながらギュッと目と瞑った。
 とうとう彼が私の前にも現れた。ならばやることは一つしかない。彼は私に復讐を成す為にここまでやって来たのだ。他の人間達を始末し終えた最後に、怯え切った私を残して。
「うぅ……」
 いつ死の瞬間が来るのだろうと肩を震わせていると、いつの間に背後に回ったのか一回、二回と肩を軽く叩く感覚があった。
「あの時は、遊んでくれてありがとうねぇ」
 そう、耳元で声が聞こえて私はハッとした。あわてて目を開き立ち上がるも彼の姿はなく、店主に尋ねた。
「ここの席に居た男は!?」
「男? そこの席には誰もいなかったよ。何急に? 怖い話?」
 眉をひそめる店主に、私は足を躓かせながらも店の外へと出た。
 夜の街でいくらあの緑髪を探しても、その姿は見つからなかった。
 ”なに? 今度は鬼ごっこ?”
 山から吹く風と共に、そんな彼の笑い声が聞こえた気がした。彼の笑い声なんて、聞いた事がないのに。それは、私が少年時代に彼に求めていたものだった。
「待って! 待ってくれぇ!」
 大通りで彼に叫ぶ。いや、呼び止めてどうしようというんだ。私は首を横に振る。
 私は許されたのか? 我々は彼らに、あんなひどいことをしたのに? 本当に?
 そこでやっと気がついた。私はひたすら彼に怯えるだけ怯えて、まだ謝罪の一つも口にしていないと。
「……っ! すまない、私……いや、俺が悪かった! 俺が悪かったんだ! 全ては俺のせいだ!! 俺のせいでこんなことになったんだ!!!! すまない!!!! すまない!!!!」
 私は地面に頭を押しつけて、そう、彼の耳に届くように祈りながら、街の端まで届くような大声で叫んだ。
 そして街の人々が何事かとこちらを見る中、私はその場で子供のようにおいおいと泣き崩れたのだった。
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