燦夏
立秋。
夏の暑さが極まり、秋の気配が立ち始める頃を、そう呼ぶ。
暦の上では秋だとしても膚を灼くような陽射しの強さは、まだまだ高みを目指しているように思う。何をしていなくとも額からは珠のような汗が次々浮かび、化け物のような湿気が背中から抱き着いてくる。
ビル群のガラスを乱反射して降りそそぐ夏の光は眼裏を射抜くほど鋭くて、疲弊した野分・時雨の空虚な表情を無慈悲に照らす。
「少しは慣れました?」
そんな暑さを物ともしない瑞々しい爽やかな檸檬色の眼差しに問われた時雨は、言葉を濁すように視線を蒼穹へと逃がしたが、照り付ける陽射しが眼球を貫き、呻く。
「……ほんのちょびっと、だけ?」
小指の爪くらい、と右手のそれをピンと立てる仕草を見た茶治・レモンは双眸をやわらげながらも小さく頷いた。
「いきなり克服はできませんよ。歩み寄ろうとする心持ちがあるだけでじゅうぶんじゃないでしょうか」
「あれ、この子幾つでしたっけ」
ひい、ふう、み。わざとらしく指折り数える時雨の姿に、レモンは軽やかな笑い声を立てた。
〇
独特な暑さをした√EDENから、√妖怪百鬼夜行に渡る頃には太陽はすでに中天に差し掛かっていた。
真上から落ちてくる陽射しが連なる町屋の影を色濃く描き、鳴き上がる蝉が耳朶を噛む。空気のからりとした暑さはやはり気持ちの良いもので、うんと息がしやすくなる。そう感じるのは|√妖怪百鬼夜行《ここ》が地元だからだろうか。時雨は頤を伝う汗を拭いながら、そんなことを考えていた。
「涼みついでに何か食べて行きましょ」
「いいですね!」
レモンの拠点でたっぷりと猫に遊ばれ――猫と遊んだのもあり、腹はほどよく空いている。見知らぬ店を探し求めて炎天下を練り歩くより、近くの馴染みにさっさと向かうほうが良いと見て、時雨は「こっち」と、空を飛んでいく鴉天狗を見上げていたレモンの腕を引いた。
√妖怪百鬼夜行が人間の文化を取り入れるようになって、ずいぶん経つ。今ではすっかりと現代的になったものだと齢数千を超える妖怪共は口々言うが、やはり大正の香りはそこかしこに散らばっていて、街灯一つとっても趣がある。
√EDENに比べればまだまだ古臭いであろうし、それに加えてあちらこちらに古妖を封じた祠だの柳だの社だのが存在するせいで、小路を歩くレモンの視線は目まぐるしい。
「この桜の木は?」
「男を誑かして億貢がせた花魁。おお怖い」
「じゃああっちの注連縄が巻かれた大岩は?」
「デスゲームを開催して人間の醜さを観察、愉悦に浸る教授。趣味悪いったらありゃしない」
道中の会話には事欠かず、店に着くのはあっという間だった。
店内は膚が粟立つほど冷えていた。だがそれも座敷に上がり、窓から射し込む陽だまりの中に腰かければ程よいものになる。
「美味しい匂いがします! ここが時雨さんの行きつけなんですね」
「何頼んでも美味いから安心してください」
物珍しそうに店内をきょろりと見渡すレモンの瞳は、興味できらきら輝いている。店員は人間と妖怪が半々といったところで、多腕の鬼が厨房で忙しなく調理しているのがなんだか曲芸のように見えて面白い。
「僕もこれから通おうかな。『時雨さんのツケで』って言えば良いんですよね?」
熱いおしぼりで手を拭きながら天井の太い梁を見上げたレモンが独語のように零すと、お冷を一気に呷った時雨が「今なんて言いました?」グラスを机上に戻して半目になる。
「なにも?」
レモンは小さく肩を竦めると、冷えたグラスに手を伸ばした。
大した距離でもないのに、やたらと疲れた気分になるのは苦手な猫と対峙したからか、あるいはこの酷暑のせいか。窓際に置かれていた竹団扇で己を煽ぎ火照った身体を慰める時雨は、対面の座布団にお行儀よくちょこんと座るレモンを窺い見る。その顔色は常と変わらず、凍てついたようにも思える無表情ではあったが、やはり冷たい水が喉を滑り落ちていくのは心地よかったのか、漏れる吐息にはどこか安堵が混じっているように思われた。
「――にしても」
胡坐を組んだ時雨は、膝に肘を突いて右手に顎を乗せる。
「見慣れた定食屋にレモンくんが居るの新鮮」
頬杖を突いて真っ直ぐこちらを見てくる時雨の視線に小首を傾げたレモンが「新鮮?」不思議そうに目を丸くする。
「そう。新鮮すぎていっそ違和感ある。君、本物のレモンくん?」
「あっ、気づきました? 僕はレモンくん2号です」
ふふん、と胸を反らして得意げに顎を反らしたレモンであったが「ふぅん?」と、からかいを多分に含んだ眼差しに見つめられて居た堪れなくなったのか「嘘です」「初号です」両手を上げて冗談を白状した。
「初号で良かった。――ところでさっき、ぼくの名前でツケって言ったよね?」
「言ってませんよぅ。お姉さん、お冷のお代わりいただけますかー?」
片手を上げたレモンの呼び声に反応して、ピッチャーを持ってテーブル席を回っていた三つ目の店員が振り返る。
「飲む前に酔っちゃダメですよ、はいお冷やのお代わり!」
冷たい水がなみなみと注がれたグラスを時雨に差し出したレモンは、物言いたげな時雨の視線を無視して伏せられていたメニュー表を手に取った。
日替わり定食、季節の御膳、天ぷらに揚げ物、うどんにそばに、刺身まである。でもどうやらハンバーグは無いらしい。
「あ。ブリの照り焼きはあるみたい」
「じゃあ僕はそれで。定食にしても良いですか?」
「どうぞ。身長伸びない程度に食べてくださいよ」
あと八センチか。頬杖を突いた手のひらで覆った口の中で独語するも、レモンはそれに気付いていない。
「時雨さんは何にします?」
ページを適当に捲っている仕草は選んでいるというより流し見ているに近い。空調の効いた店内に居ても、それまで浴びてきた陽射しのダメージは早々無くならず、終いにはパタンと閉じてしまう始末。
「ぼく暑さで食欲減ってきちゃった」
両手を後ろに突いて上体をのけ反らす時雨を見てぱちぱち瞬きしたレモンが、それは大変だと自分のメニュー表を覗き込んで吟味する。
「暑いならポン酢料理とかどうです? あ、焼き魚にかけたらさっぱり頂けますよ」
「魚かー。あ、刺身にしようかな」
「なるほどお刺身! それも美味しいですよね」
今だとアジとスズキが旬で美味い時期だ。真蛸もいい。そうなると酒が欲しくなる。
「飲んでも良い? ちょっとだけ」
人差し指と親指で見えない何かを摘まむ仕草をしながら問うてくる時雨にレモンは思案の表情を浮かべている。
「飲んでも良いですけど……歩いて帰れる量にして下さいね」
べろべろに酔っ払った大人を引きずって歩くのは流石に遠慮したい。だが、いざとなれば浮遊魔法で風船みたいにぷかぷか浮かせて運んで帰ればいいか。想像するとちょっと楽しくなった。
〇
「あっっっつい!」
「味がしみてて美味しかった……!」
店を出たとたん、時雨の叫びとレモンの感嘆が重なった。
食事をした程度で太陽の位置が変わることはなく、むしろ今が一番暑い刻限である。ゆえにか、せっかく流し込んだ酒も瞬く間に蒸発してゆくように思われ、そう考えていることすら暑さに拍車がかかる。
レモンはというと、甘辛く煮つけられたふっくらしたブリと、照り照りのタレが染みた大根を思い出して、ずっと目がきらきらしている。小鉢はタコとワカメの酢味噌和え、カボチャの煮物、きんぴらごぼう、マグロの刺身と四種もあって、汁物は海老を使った海鮮味噌汁で満足感たっぷり。やはり時雨のツケで通うのもありなのでは?
「飲んだのに冷えない! むしろ暑い。水分補給したいし、冷えたもん食べたい」
真剣に悩み始めたレモンをよそに、今にも太陽に角を突き立てんとする様相の時雨が矢継ぎ早にぼやいている。
「ははっ! 時雨さん汗すごいですよ」
拭っても拭っても滝のように汗が滴るのを見て肩を揺らしたレモンであったが、その拍子にくすぐったさが頬を滑り落ちたことに気が付く。手の甲で触れると、それは汗だった。
「あっ、僕もか。何ででしょう、いっぱい食べたからかな」
からりとしていようが、やはり暑いものは暑い。恨めしそうに太陽を睨めつけていた時雨は、ふとあることを思い出してレモンを振り返る。
「今から、うちに来ません?」
「時雨さんのおうちですか?」
「そう。スイカ食べたくないです?」
先日、ご近所さんがスイカを冷やしていた。まだ残っているだろうから、今から向かえばありつけるはずだ。
「スイカ! 大賛成です、是非ご一緒させて下さい」
夏と言えばスイカ。スイカと言えば夏。
夏にスイカを食べぬのは、スイカに失礼というものだと神妙に、けれど嬉しそうに断言するレモンに、全く持ってその通りだと時雨がうんうん頷く。
「ぼく、スイカ大好物なんですよ」
「そうなんですね、覚えておきます!」
「付き合ってくれるならかき氷も奢っちゃう」
「かき氷まで!」
「ふわっふわに削ったかき氷。欲張りさんセットを満喫しましょう」
これは嬉しい驚きだ。
甘くて瑞々しいスイカに、ふわっふわのかき氷。夏には持ってこいの、これ以上にないデザートにレモンの身体がそわそわ揺れる。
今のお口はいちごの気分。こうしちゃあいられない。
「そうと決まれば早く行きましょう、時雨さん! スイカとかき氷が、僕たちを呼んでますよ!」
道なんて分からないはずなのにレモンは路地奥を目指してさっさと歩き出す。
「早く行ったら、汗かかない~!? 歩こ~よ。もしくは浮遊魔法使って!」
時雨は慌てて追いかけた。が、何を思ったかレモンは脱兎のごとく駆け出すのでギョっとする。
「浮遊魔法で楽ちんしない! ほら、走って走って!」
「嘘でしょ~~若い子こわぁい」
涼し気で朗らかなレモンの笑い声と時雨の悲痛な叫びは、路地を吹き抜ける風にひとからげにさらわれ、眩しい夏の陽射しにとろけていった。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功