花時雨
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――ぱた。ぱたた。
空から雫が零れ落ちてくる。
程なくして降り注ぎ始めた静かな水音はホワイトノイズのように優しく耳に滑り込み、淡いひかりにも誘われて津々見・呉はゆっくりと目蓋を開いた。
緩慢な瞬きを繰り返して寝惚けた頭を覚醒させると、呉は枕元に置いていた眼鏡を掛けて壁の振り子時計を確かめる。
朝の六時だ。けれども部屋に入り込む光は薄く、突き刺すような朝日もない。
カーテンを開けばうすぼんやりとした灰の空から雨が降っている。よかった、と思った。ここ暫くは日照り続きで、庭先の花も作物も萎れていた。その矢先のこの雨は、人々にとっても作物にとっても安堵と喜びを齎す、まさしく『喜雨』に違いない。
寝台から身を起こすと、手早く着替えを済ませて簡単な朝餉を用意する。朝餉を食す間も雨は降り続け、一向に降り止む気配はなかった。
いつもならばこの後は身支度を済ませ、いつもの茶寮へと向かう。軽やかな鈴音と共に扉を開けば、いつも花の香が薫る店。あそこで文箱を開けば、すらすらと文字が綴れた。
けれども今日は雨だ。茶寮に向かう間に履物も文箱も濡れてしまうかもしれないし、マスターたちも久々の雨に暇をもらっているかもしれない。そう思った呉は、出掛けるのを諦め窓際の机に腰を下ろした。
呉は|手紙《ことのは》の代筆者だ。手紙を書くことが出来ない人の代わりに想いを綴り、遠い彼方の誰かに届けている。
文箱を開き、今日書き記す手紙に相応しい便箋を選ぶところから、既に代筆業ははじまっている。此度は目の見えぬ老婆が離れて暮らす孫に送る手紙だ。優しい風合いの便箋がいい。彼の人は花が好きだから、季節の花が彩るものがいいだろう。
品の良い老婆だったから、言葉選びは柔らかで上品に。伝えたい言葉をメモしたノートを広げながら、呉は万年筆を墨壺に浸して言葉の海から相応しい言葉を選び出す。
文を交わすことが趣味だった。
文というものは相手を想い、言葉を熟考して選び記すもの。相手を思い浮かべ、伝えたい言葉や想いを言葉にする為に時間をかけている間、思考は手紙を送る相手のことで一時満ちる。そうして書き上げて送る文に、届く文には確かに相手や自分の存在を感じられた。
それがたまらなく好きで、気づけば趣味を活かすように、好きな事をずっとしていられるように、誰かが伝えたい想いや心を伝える手伝いをすることを選んでいた。
ひとつひとつ、言葉を選び書き記す間、雨は思いの外心地よいBGMだった。
余計な音を遮断し、静かに揺らぐ雨音は自分の中の余分なものを洗い流してくれているかのようだ。そうして手紙に向き合うと、何故だかいつもより深く集中できるような気がした。
キリの良いところまで一気に書き進めると、呉は一度万年筆を置いた。
窓を見遣れば、慈雨が渇いた大地を潤し続けている。萎れかけていた窓際の紫陽花の葉は、気づけば随分と元気を取り戻していた。
ふと、窓際を共有する隣人が思い浮かぶ。先日出会ったばかりの彼女のことを、呉はまだ多くは知らない。強いて言うのならば思いの外近所に住んでいることと、儚げながらに芯の強さを抱いていることくらいか。
「……文を、したためてみようか」
口をついて出た思い付きは中々悪くないように思えて、文箱から便箋を取り出す。
突然の文に驚くだろうか。だが、彼女のことをもう少し知りたくなったのだ。面と向かっては言いにくいけれど、文ならば言葉を届けることも叶う。
まずは自己紹介と、今日の雨のことを綴ってみよう。
甘雨が植物の成長を助ける雨のように、この慈雨もまた、言の葉のやりとりから生まれる関係を育てることを願って。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴 成功