門火に代わる
郊外の自宅までの帰路には、都市部の仕事で火照った肌を吹き抜ける風が宥めてくれる。低い位置に溜まった雲のうえに溶かした金が降り積もって、夏空の青をゆっくりと薄らがせてゆく。鮮やかすぎる昼と眠る生命の胎動に満ちた夜のあわい、夏の夕暮はグラデーションの形で存在する。
汗を吸った外着から着替えた斯波・紫遠(くゆる・h03007)がじゅうぶん冷やした煎茶のグラスを手に縁側へ腰を落ち着ける頃には、また景色は変わっていた。空模様は水をたっぷり含ませた紺青の水彩を一筆だけ塗り広げたぶん夜に誘われ、月の輪郭を露わにする。庭先の向日葵や芙蓉も、陽射しを浴びてまさに見よと花弁の豪奢さをひけらかすべき時が過ぎたことを賢明に悟っているのか、心なしか俯き気味にその色彩を隠すようだった。
「あ」
思わずに声を上げると共に、紫遠の口元が綻ぶ。ついと視線の端に明滅した光の線は恐らく蛍だ。四季の花々がてんで勝手に自生するこの庭へ時折迷い込んで来る彼らにとって、年々暑さを増すばかりのこの国のなか、短い生命の最期まで休まる場所であればいいと、思う。
「(出遅れちゃった。蛍だけで十分だなんて言われないかな)」
気分によっては、もしかしたら。これぐらいがちょうど粋ってものだ、なんて言って。
懸念はあるが、紫遠が察する術はない。相手がこちらに伝える術もまた同様に。ならばせっかくの用意を無駄にしないためにも、紫遠の勝手にさせて貰う。弔いは生者のためのものであるなんてよく言ったものだ。これで、そんなの要らなかっただなんて彼が機嫌を損ねるなら、偏屈と指さして笑ってやろう。そもそも元はあの爺さんの所有していた家だ。故人を偲ぶための材料なんてどこにでもありふれているが――今日は特別、殊勝なこともしてあげるよ。
柱の影を定位置にしている灰皿に煙草を一本、火を点けて静かに寝かせた。紫遠の口元にもまた同様の一服を。呼吸の分だけ勢いを増す咥え煙草はずいぶん早く尽きるだろう。生者と死者に流れる時の差異を知らしめるように。
吸って、吐く。ただ静かなばかりの庭先で、夕風に煽られた煙草の火が勢いを増しては弱める。送り火ついでに供える酒も用意してやればよかったかと思ったけれど今更だ。楽しく酔ってくれるのはいいけれど、いざ潰れて|送り火の目的を忘れられる《あの世へ帰れなくなる》のもなんだし。
「|遺言《宿題》はまだ終わってない。待っていて」
長く長く、生きて、生きて、その先の顛末が一般論と同じになるかも分からない。|狗神憑き《死ねない体》の紫遠に遺された課題が、どれほど難解なものか。あなたは分かって言っただろうか。
――自分が何者かを探すこと。
――死ねないなりの『命の使い方』を見出すこと。
アシスタントAI『Iris』に咎められてなお胸の内に燻り続けていた希死念慮を、ついに縛したのはその二言。爺さんが死んでまだ五年か、とも、もう五年か、とも思う。十年、二十年と重ねても同じことを考えるのだろう。ただ一時、気まぐれに『家族』になった他人同士。それだけの関係と言えばそれまでだけれど。
会えないことを、惜しむ気持ちは強くない。年々『いい人』になれてる気がするんだけどどうかな、なんて言ったら、鼻で笑われるんだろうか。そんな想像を、穏やかに出来る程度には紫遠も大人になった。
暮れてゆく空の下、泳ぐ蛍の光が快い風を祝って明かりを増す。煙草の火もまたふたつ、ただ赤く、くゆる煙の袂に留まり続ける。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴 成功