√泣かない蒼鬼『道は己が決めた』
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『友達』という言葉は知っている。
それはひどく温かいものに思えたし、美しいものに思えた。
得難いものにも思えたし、かけがえのないもににも思えた。
思えた、と心のうちに留めておくしかできない理由を幼い櫃石・湖武丸(蒼羅刹・h00229)は持っていた。
歳の頃は未だ十を数えない。
「兄者、姉者!」
その声に振り返る兄や姉。
その笑顔は確かに彼にとって得難いものだった。
大切なものだ。
同時に彼らも自分のことを大切に思ってくれているのだという自覚があった。
いつも己を気にかけてくれる。
それはじんわりと心に染み入るものだった。大切にしなければならない。こんなにも大切なものがあるのだから、他に多くを望んではならないのだと思った。
けれど、理屈はわかっても幼い心の御し方まではわからない。
こればかりは経験でもって練磨していくしかないことなのだ。
「湖武丸、どうしたんだ?」
「兄者。どうしておれには友達というものができないのだろう」
その言葉に兄は黙ってしまっていた。
どう答えたものかと考えているようだったし、言葉を選んでいるようだった。
けれど、湖武丸はもうとっくにわかっていた。
周囲の自分を視る目に態度。
違和感を感じる。
どうしてこんなにも己は軽んじられなければならないのか。肯定などなく、否定ばかりが己の背中に積み重なっていくような気がしてならない。
「湖武丸、本当のお前はもっと強いはずだった」
はずだった、という言葉に面を上げる。
兄は、うむ、と頷いた。
「力が弱く、体は小さい。確かにお前はそう自覚しているようだ。それは本来の力を分家に奪われてしまったからだ。だから」
「おれは半分しか力を使えないのか?」
「そうだ。もっと複雑な事情というものがあるが、それは……」
難しいことだった。
幼い湖武丸には多くのことは理解できなかった。
だが、理解したことは少なくない。
妖術が使えなかった。
鬼としての特別な力がなかった。
その理由が『分家』にあるのだということだけは理解した。
「だがな、本来のお前の力を取り戻すためには……奪った者を殺さねばならない」
「どうしてだ?」
「力というのは、魂に結びつくものだ。器の中身を入れ替えることはできても、殻になった器はどうなると思う」
「空になる」
「そうだ。そうなれば、虚が生まれる。すでに分家の子も成長している。その分、力を取り戻すということは、その身に虚を宿すということ。即ち、死だ」
「それは」
嫌だ、と思った。
きっと、己が力を取り返して欲しい、と言えば家族はそうしただろう。
けれど、湖武丸は、その言葉を飲み込んだ。
自分の力とは言え、誰かを殺すような真似を家族にしてほしくはない。
奪うということは、確かに得ることであろう。
だが、力を得る以上に多くの恨みを得ることにもつながるだろう。
例え、相手が大罪を犯したのだとしても、だ。
そして、分家だというのならば、湖武丸にとって身内に違いない。
「わかった」
湖武丸は口ではそう呟いて見せた。
頭を撫でる兄の掌の暖かさが、どうにも気まずかった。
兄はきっと自分が他者の罪を許せるだけの器を持っているのだと褒めてくれたのだろう。
けれど、湖武丸は違った。
力を奪われたからこそ、胸の中には虚がある。
生まれながらの虚。
埋めることは即ち、他者の死を願うこと。
それは、いやだ。
理不尽だとわかっている。
理不尽には声を上げて抵抗してもいいのだとわかっている。
それでも。
それでも、だ。
湖武丸は分家の子を恨みきれなかった。
それが優しさだというのならば、きっとそうなのだろう。
優しさとは人の憂いに寄り添うこと。
であれば、己は力を奪わざるを得なかった分家の者の憂いに寄り添うことができるはずだと思ったのだ。
「あっちいけよ! こっちにくるな!」
「力をうばおうってんだろ! そうはいかないぞ!」
「櫃石家の半端者! 恥知らず!」
心無い言葉が、優しさという柔らかな己の輪郭を容赦なく傷つけていく。
もしも、湖武丸がもう少しでも成長していたのならば、耐えられただろう。
けれど、彼は幼かった。
月日というものは残酷だ。
少しも待ってはくれない。機が熟した、などと悠長なことを言ってはくれない。
「母上! どうしておれは……こんなにもみなにいじめられなければ! おれはおれがとてもみじめにおもえてくる! どうしてこのようなことになってしまったのだ! おれはおれでいるだけで、傷つけていいと言われているようで、とても、とてもつらい!」
母親にすがりつく己の体の小ささを呪った。
己と同じ紫の瞳が泣きつく彼のつむじを憂うように見つめていた。
悲しみと怒りとがないまぜになったまま、母の膝濡らし、胸を叩く。
行き場のない感情だった。
受け止めるのは母親しかいなかっただろう。
幾度か、このような言葉を母に向かって湖武丸は吐き出した。
甘えていたのだ。
許されると思っていた。
優しい母だった。
なら、己の憂いに寄り添ってくれると思ったのだ。
だが、寄り添うからと言って寄りかかれば、優しさという感情はひどく柔らかく脆いものであるから、容易に傷ついてしまう。
涙がこぼれて滲む視界で、母もまた泣いていることに気がついた。
「ごめんね」
その言葉は他のどんな言葉よりも、意地の悪い者たちの謗る言葉よりも湖武丸の胸を打ち据えた。
そう、理解したのだ。
己が酷い行いに泣く度に、なじられ怒る度に母に泣きついた。
その都度、母を苦しめていたのだ。
こんな風に生むつもりはなかったのだと詫びる彼女の垂れる頭を見た。
違う。
こんな風に母を苦しめたかったわけじゃあないのだ。
それは、楔となって胸に穿たれ、己の真芯にすら到達する刃となって抉った。
どうしようもないほどの喪失。
『欠落』。
「母様。もう泣きません。怒りません」
「どうしたというのです、湖武丸。いいのです。悪いのは母なのです。あなたは何も」
「いいえ。ごめんなさい。悪かったのはおれです。おれがもっとつよければ、母様も泣くことはなかった。ですから、どうか泣かないで。おれが、もっとつよくなるから」
それは宣誓の言葉だった。
同時にこれは己への罰なのだとも思った。
優しい母を悲しませた罰。
心の内側から悲しさや悔しさというものが消えたわけではなかった。
溢れているのに、その行き場がないのだ。
つまりは、感情の発露ができなくなってしまっていた。
苦しいことだ。
悲しいことだ。
けれど、このことは飲み込まねばならない。
「もう誰も悲しませない。おれが耐えればいい。どのみち」
もう泣けないのだ。
であれば、と幼い湖武丸は自覚した。
他の誰から強いられたわけではない。
己が決めたのだ。
誰におもねる必要もない。
だが、もう言い逃れもできはしない。
これは己の道なのだ。
己が決め、己が進み、己が定めた道なのだ。
「これからも、こうやって生きて行く」
得た『欠落』は埋まらない。
青鬼は泣くことができないのではない。
そう、泣かないと幼き日、今日に決めたのだから――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功