鞠の行方について
悲哀の念だけが蹲っている。つづらの中身に興味なんてなく、
善と悪だけで判断するなど、傲慢だろうか。
本当の事を話したところで、真実を口にしたところで、それを嘘だと嗤われたならば『おしまい』である。ある種の依存性が、ある種の執着心が、膨れに膨れて、嗚呼、そのクセに破裂の気配すらも見せつけない。いっそ、ダンマリを、貫き通すべきなのかと、僅かに思ってしまえたのだが、終いには、切り落とされる可能性にのみ、ぶつかった。わかる。わかってしまう。誰かの悲しみが、誰かの焦燥が、不可避に、心の奥底から理解できてしまう。故にこその現状だ。そうとも、真実、自らの羽を啄む事こそが――ひとつの愛情表現なのである。ぽん、ぽん、ぽん、誰も耳朶を傾けていないと謂うのに、楽園、遠くへ遠くへと、届かせるかのようなオノマトペ。とん、とん、とん、誰も触れようとしないと謂うのに、失楽園、果実をもいでいないと知って尚、この袋小路。「あるじさま……あるじさま……あるじさま」小さな、小さな、童の姿。庭の中の童は文字通りの『籠の鳥』であり、一種の、加護のようなものを身に宿しているのか。ぽん、ぽん、ぽん、とん、とん、とん……。跳ねる鞠が地に落ちたのならば拾ってやると宜しい。拾って、また、蹴り上げてやるのが遊び方か。「あるじさま……あるじさま……あるじさま」繰り返し、繰り返し、主人の何もかもを反芻していく。これが恐れの結果なのであれば、これが悲しみの結果なのであれば、最早、戸を閉めておくしかない。そう、戸は閉められている筈なのだ。閉ざされて、鎖されて、然るべきなのだ。だと謂うのに、さて、加護の中で渦巻いているのは――なつかしい「ひんやり」なのであった。目を開けての、ぐるり、見渡す限りの、外、外、外。外から伸びてきたのは真っ白な掌。最早、籠の鳥は――三浦・小雀は――違える事もなく、啼いてみせた。「……鶴見おねえさま……」喪失、消失、言の葉で表現するならば『こう』か。楽園の存在を、失楽園の存在を、如何して暴けたのかは訊ねる所以もなし。
千羽鶴を折っていたのか、まとめ役として追っていたのか、何方にしても『見つけて』しまったのだから、干渉する以外に道などない。恩返しの為に|舌を切る思い《したきりすずめ》など、まったく、呆れた事ではないのかと。「……小雀」成長した童の色を変えたかのような、綺麗さと儚さを内包しているかのような、鈴のような、声掛け。慈しみの化身を彷彿とさせる気配とやらは――嗚呼、邪悪になっても健在と思えた。「すずめ……主の命令だからと、いつまでも、どこまでも、閉じ込められていることはありません。主に悪意がなかったとしても、いえ、むしろ、余計に、たちが悪いとも思えます」聞いての通りだ。見ての通りだ。雪のような指先は成程、籠の鳥を自由にしてやりたいと、そう、囀っているのだ。「行きましょう。いいえ、生きましょう。このような籠の中では、生きる事も、活きる事も、ままなりません」邪悪なインビジブルに、悪霊に、おそらく、死んでいるものに、そうやって説かれていること自体が不可思議なのだが。けれども、この、力強い銀色の世界は――童にとって、めまいがするほどの『もの』であった。「少なくとも、雀は籠の中で飼い慣らされるような鳥ではありません。少なくとも、雀は、舌を切られるような真似はしていません」くらくらと、ふわふわと、反物に巻きつかれたのかと、引っ張られたのかと、錯覚するかのような、子守唄。筆舌に尽くし難い蠱惑とやらが、憑くかの如くに。「香久山の嘆きを否定はしません。ですが、これは、これだけは……間違っています」呼吸を整えているのか、次の言の葉を考えているのか。鶴の一声と表現するには、あまりにも――懇願のようにも――聞こえるのであった。「出ていきましょう、すずめ。自由に、なりましょう」
増殖こそが自由なのであれば、羽ばたく事こそが自由なのであれば、留まる事だって自由な筈だ。行方を示され、それを強制される事、如何様な|自由《●●》があると謂うのか。「……鶴見おねえさま……」一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、指先が触れたかのような錯覚。喉元まで出かかった何かしらを懸命に殺してやったならば、本心だけを掬い取ってやると良い。「……そう、鶴見は……そう、おもうのね」強く、強く、細雪を拭ってみる。童の双眸に湛えられている情念よ……今こそ、光を放ってやるべきか。
「でもね、すずめはあるじさまが大好きだから」
「――いいの」
「このままで、いいの」
そうですか……。しんしんとこぼれる「よかった」の一言。所以など、意図など、童ひとつでは解せないが、深淵を彷彿とさせる鶴の|果実《ひとみ》は笑っていたのか。消えていく、溶けていく。なつかしい「ひんやり」は最早ない。去っていった。去って、しまった。それこそ、昔話の正体のように……。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功