沈みゆく星座
平穏無事な日常と言うものは薄氷の上にあるものだ。そのことを知らないシリウス・ローゼンハイムではない。今や欠落していて思い出せない何か、それとて確かに穏やかな日常の上に存在していたことを、遥か昔に読んだ本のあらすじの様にして他人事の様にして、知っている。
戦いに身を投じながらも、曲りなりにも今また平穏な日々を得て、それを忘れていたのだろうか。
今日も真夏日だ。日曜の午下、照り返しの眩しい白い通りで、何処かの店で涼もうと会話をした少し後。そうして日常はそこまでだ。
誰かの悲鳴。止める間もなく弟が動く——伸ばす手の届かぬ彼方、目にしたものは噴き出す様な血飛沫だ。
「ロキ!!」
愛しき名を呼ばう自分の声が妙に遠いのは、既に手遅れを知っているからだと、他人事めいて妙に冷静な思考が告げる。もどかしいほどのコマ送り、白手袋を嵌めた指先が血の海に沈み、靡く銀の髪が一拍遅れでふわりと落ちた。此方に背を向けた弟の顔は窺えずとも、胴を頭を無数に穿った凶刃を見れば、忌み嫌っている奥の手すらも間に合うものとは思えない。
短い永遠、宙を舞った黒き剣が地を叩くのを何処か遠くに聴いた刹那に時が動いた。シリウスの喉の奥から溢れたものは慟哭だったか咆哮だったか、次の記憶は簒奪者だったものの血肉の中で呆然と立ち尽くしている場面まで飛び、その後もまた朧げだ。
白昼堂々、何処の星詠みも予知し損ねた簒奪者の強襲、『一般人』の犠牲者がただの一人も出なかったことは奇跡と称する他にない。無論、そうなるべく身を挺したとあるAnkerへの敬意から、そう言うことにされたとも言える。簒奪者の襲撃と同時、最初に犠牲者となる筈だった子どもを庇って斃れたのはシリウスのAnkerにして弟、プロキオン・ローゼンハイム。医術を修めながらも剣を持つ身、咄嗟に動けてしまったが故の悲劇。
それらは断片的に聴いた話だ。事件の後処理、事情聴取、それらに己がどう応じたかシリウスはまるで覚えない。断片的な会話に自分の声の記憶は不在。様々な声で紡がれた慰めの言葉はどれも全く無味乾燥に、無意味に通り過ぎてゆく。棺に入れた花はどんな風に香り、何色をしていたか。どうでも良い。何も、全てが意味を持たない。今、この瞬間までも含めて全ての音はノイズの向こう、景色はセピア色をしている。
見も知らぬ子どもはおろか、あの場の幾人の命を束にしたとて、シリウスにとってはプロキオン一人の命のほうが比べ物にならないほど重い。そのことを知らぬプロキオンでもなかったろうに、何故。
夢ともうつつとも定まらぬ、靄のかかった様な思考の内から浮かび上がってそんな言葉が言葉としての像を結んだのは唐突に、枯れた荒野で満天の星空を仰いだときのこと。何処をどう辿ってこの場に辿り着いたかシリウスには解らない。ただ、死に場所を探そうとしたことだけは覚えている。何処でも良い筈でありながら、何処にも相応しい場所がない。帰る場所もなければ行くべき先もない事実は、だが、『その場』を定めるだけの気力も判断力も持たぬ今のシリウスを延々惰性で歩かせ、彷徨わす。
崩れる様に、膝をついた。歩みを止めたと同時に思い出した重力に消耗し切った身体がもはや抗えず、引かれるがままにそうなった、とでも言う方が正しいか。天を仰ぐと言うよりも微かに顎を上げた結果として、夜空が視界に飛び込んだ。瞬きながら己を見下ろす星々を、奇異なものでも見るかの様な心地で見上げ——そこに、いつかのプラネタリウムの空が、残酷なまでの鮮やかさで重なった。
茹だる様な夏の夜空に、冬の大三角形はない。弟の名前を冠する星が今のこの空に不在である、その事実には何処か奇妙な安堵があった。大三角の別な頂点に燦然と輝く|己の星《シリウス》もまた然り。共にあるべき一等星を守れなかったシリウスに、その名は呪いの様に重くのしかかる。
手に馴染む槍を杖代わりに、泥の様に重い身体を引き起こす。行き先など定まらず、およそ決めるべくもない。死を望みながら、自ら命を断つ気力すらもはやない。
いっそこの身が、世界が、終わってくれれば良いものを。或いはいっそ、誰か殺してくれないか。
受動的な希死念慮、行く宛てのない彷徨を夏の星だけが見下ろしている。
肌寒さに薄目を開けて、小さくくしゃみを一つ。普段は頬に心地よい筈の冷えた床の感触も今日は硬さが嫌に際立ち、シリウスは逃れる様に身体を起こす。嫌な夢を見た、そのことに思考を向けることすら忌まわしく、冷房のリモコンを手に取り、八つ当たりめいて性急に室温を数度引き上げる。それからソファに腰を下ろして、一つ、長く息を吐いた。
どうやら弟はまた散歩にでも出かけているらしい。窓の外の憎らしいほど青い空、陽炎を錯覚しそうな程に今日も真夏日だ。
酷暑から戻って来る筈の弟のことを思って、やがてシリウスは室温を再び下げた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功