潮騒
左手首をバングルに通せば、不確かに揺らぐ幽霊の体が、肉の重みを取り戻す。ただしこの手の実体化には、大抵の場合苦痛を伴う。チェスター・ストックウェル(幽明・h07379)もその例に漏れず、電気が走るような苦痛に表情を歪めた。
それで? と傍らの彼女に促される前に、チェスターは受け取った薬を一気に飲み干す。
「……うん、前よりはずっと飲みやすくなってると思う」
「そうかい、それはよかった」
何しろ、きみの為に日々改良を重ねたものだからね。平坦な声音でそう返したのは、この鎮痛剤を調合した薬屋、ヒュイネ・モーリス(白罪・h07642)である。
「それなら、もっとありがたく味わってほしいものだよ」
「ええ……」
良薬は何とやらという言葉もある、嫌そうに眉根を寄せる彼の方へ、ヒュイネはさりげなく距離を詰めた。
「……何? 俺の顔に何か付いてる?」
「いや、大したことではないんだけど――」
幽霊の実体化を間近で眺める機会などそうそう無いだろう。しげしげとそちらを眺めた彼女は、次に指で触れてみようと手を伸ばす。
じりじりと後退っていたチェスターも、さすがに慌てて身を引いた。
「あ、逃げた」
声色はいつも通りの平坦な調子だったけれど、そこにはわずかに愉快気な響きが乗っていた。
少しばかり抵抗したい気持ちはあるものの、この時のために薬を作ってくれたのは事実――そして実際に、実体化に伴う『痛み』はかなり抑えられていた。頬を撫でる海風、そして潮の香りを、チェスターは改めて味わう。
今回、こうして実体を得た目的はひとつ。海釣りである。
「まあ、食料調達は大切だからね」
食べることは生きること、そう訳知り顔でヒュイネが頷く。あいにくここに居るのは|死体《デッドマン》と幽霊だけれど、そこはそれ。今日のために準備してきた釣り具を、チェスターは海に向けて構えた。
「大物を釣り上げるから、まあ見ててよ」
「がんばれー」
棒読み気味の応援を聞き流しながら、釣り糸を垂らす。
釣りは何度か父親に連れてきてもらったことがある、その時の記憶を頼りに――していったが、あの頃とは違って糸はうんともすんとも言わなかった。
「それで、あとどれくらい待てばいいの?」
「……」
実体化した額にじわりと汗がにじむ。やっぱり川釣りとは勝手が違うのだろうか、もうしばらく粘ってみたチェスターだったが、やがて諦めるようにため息を吐いた。
「薬屋さんもやってみる?」
選手交代、というよりは物は試しと言ったところか、暇そうにしていたヒュイネへと釣り竿が回される。こちらも見様見真似といった様子ながら、チェスターの教えた通りにそれを操る。
「そうそう、上手い」
「わたしは狩りのほうが得意なんだけど」
そう返しつつも、彼女の手つきはすぐに慣れた様子に変化して。
「あ、早速何か掛かったみたい」
「えっ、アタリ!?」
ヒュイネの竿が大きくしなる。予想外の状況に、チェスターは慌てて指示を出す。
「ええと、落ち着いて、ゆっくりリールを回して――ナイス!」
歓声が上がると同時に、彼女は見事魚を釣り上げて見せた。
「これで一匹確保だね」
「君って釣りの才能があるんじゃ……?」
思わず漏れ出たその感想は、果たして正しかったのか……それはしばらくの後に明らかになる。
「ちぇー、結局俺が釣ったのはこの一匹かあ」
「仕方ないよ、魚の機嫌も悪かったのかもしれないしね」
順調に数を重ねたヒュイネは慰めるようにそう言って、バケツの中で泳ぐそれらに目を遣る。おかげで釣りは楽しめたが、今回のイベントはこれで終わりというわけではない。そう、食料を調達したのだから。
「早速捌いていこうか」
「捌くってこの魚を? 丸ごとフライにするんじゃないの?」
「捌いたほうが食べやすいでしょ?」
当たり前のように応じるヒュイネに対し、チェスターはしばし頭を悩ませるように沈黙してから。
「……俺は野菜を焼いてるから、そっちはヒュイネがしてよ」
「はいはい」
役割分担の提案に、ヒュイネは変わらぬ調子でそう答える。けれど。
「……少年のくせにナイーブなんだから」
そう付け足してやると、チェスターの背中がぴくりと跳ねる。それに対する返事がないのは、おそらく聞こえなかったことにしたからだろう。
別に魚を卸すのを怖がっているとかそういうわけではないのだ。決して。
背を向けて野菜の下処理を始めた彼をよそに、ヒュイネの方も手際よく魚を捌いていく。元の魚が切り身になってしまえば後は調理の時間。
やがてダッチオーブンに油がひかれ、魚と野菜が彩りを添えていく。トマト、オリーブ、アスパラ。白ワインを注ぎ、ふつふつと煮立つ音が波の音色に溶け込んだ。
霊体の頃は忘れていたその感覚、久しぶりの『空腹』に、チェスターは思わず彼女の手元を覗き込む。
「おいしそうなにおいにつられてきた?」
相変わらずからかうようなそれに、ふんと鼻を鳴らして返す。
「怪しげな診療所より料理こっちの方が需要があると思うよ」
気が付けば日はとうに沈んで、あたりには夜の帳が下りている。焚火の揺らめく明かりが照らすそこから、静かな波音のする方へ視線を向けて。
「夜の海ってなんかいいよね。真っ暗で、月の光だけが反射して」
「ああ、見てると落ち着くのはわかる」
簡易なアクアパッツァが出来上がるのを待ちながら、二人はしばし並んでその光景を眺める。と、そこでヒュイネはチェスターの方へと問いかけた。
「……で、今のところ薬の効き目はどう?」
「……えっ?」
虚を突かれたように目を丸くして、彼は自分の手首を撫でる。少しだけ考えて……素直にそれを口にした。
「その、実体化しているのを忘れるくらい――いや、自分が幽霊なのを忘れるくらいバッチリだよ」
「そんなに?」
ぁは、は。冗談のような感想に、彼女には珍しくそんな笑い声が零れる。
「持続時間も伸びたみたいでよかったよ
途中で戻ってしまったら一人で全部片づけることになっていたかもしれない。
「じゃ、食べよっか」
「いただきます」
「……いただきます」
当然ながら『食事』の機会もそうそうなかっただろう。恐る恐る一口目を口に運んだチェスターは、思いの外その味が気に入ったのか、ガツガツと食べ始めた。
「どう? おいしい?」
一方のヒュイネがそれを観察しているのに気付いて、彼はあえて不満気な顔をする。
「いい食べっぷりだね。あーんってしてあげよっか」
「いいよ、子供じゃないんだ」
すげなく断ってみせたものの、続けてこう付け足す。
「でも味は悪くない――その、おいしい、と思う」
「そうかい? これからは薬屋兼洋食屋でやっていこうかな」
ようやく気がかりはなくなったのか、ヒュイネもまた、自分の料理を口に運んだ。
「きみがこうやって普通に過ごせる時間が増えるといいね」
幽霊と|死人《デッドマン》、生きていないが死んでもいない――そんなことを忘れるほどに普通の『食事』、そんな平和な時間を味わうように、彼女は言う。
「わたしががんばってあげるよ、これからも」
「たかが助手のためによくやるよ」
その本心は、彼からすると相変わらず読めない。だから「くれぐれも無茶はしないように」とだけ付け足した。
解けた腕と脚を縫うのは俺の仕事なんだから。
ナイチンゲールの嘘が作った、あたたかな時間は、まだもう少しだけ続くだろう。夜の海に、焚き火がぱちりと弾けた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功