【楽園怪談】海怪
世に恐怖の蔓延らぬ時代はない。
本能に根差した欲求か、人は恐怖を取り除くためにあらゆる手立てを行使しながら、その実恐怖を完全に捨て去ることも出来ないのである。然れども√汎神解剖機関においては遠ざけられ失われたかの如く思える神秘は容易に力を盛り返し、明るく照らされた部屋の中で青白い画面越しに好奇を向ける者どもの背後に忍び寄る。
「……さて、陰気臭ェ我が√汎神解剖機関の怪談ツアーも大詰めですね!」
日はとうに暮れた。四百目・百足(|回天曲幵《かいてんまがりそろえ》・h02593)の一日にわたるツアーも終盤だ。以前に√妖怪百鬼夜行の案内を請け負ってくれた月見亭・大吾(芒に月・h00912)と櫃石・湖武丸(蒼羅刹・h00229)への返礼の形で、百足の住まう地を見て回っていたのである。
昼の熱気が夜にも冷めぬ季節に加え、陰鬱なる悪性神秘の気配をそこかしこに湛える√に案内手が語り部とあれば自然と矛先は怪異共の逸話となろうものである。数多の悪性の足跡を辿り、すっかりと灯りを失った浜辺へ降り立った三名は、折り重なる真黒の海へと目を遣った。
「最後にご案内するのはこの海! 雰囲気バッチリでございますです」
楽しげな百足の声が笑う。月のない夜にあっては見えるものといえば波が押し寄せる僅かな揺らめき程度のもので、三人の前には規則正しい波濤が岩礁に当たって砕ける音と、水平線と空とのあわいさえ判然とせぬ黒ぐろとした光景だけが広がっていた。
「昏いな。確かに怪談にはお誂え向きだ」
「いいじゃないか。あたしより真っ黒だよ。吸い込まれそうだ。お月さんでも出てたらもっといい感じだけどね」
絶えず揺らめく波が月光を複雑に反射する光景はそれはそれは美しいものだ。いかにも酒が進もうというものである。思い浮かべれば月見酒の旨味が大吾の口に蘇るが、此度眼前に広がるのは月の光の片鱗もない|冥《くら》い海だ。
歩き出す百足が一番に波打ち際に近寄る。猫又らしく水から離れる大吾と彼との間に収まった湖武丸は、我知らず怪異の長躯越しに聞こえる潮騒へ目を遣った。
世にある昔話はなべて同じ形を取るらしい。殊に恐怖の根源は√を跨いだくらいではそう変容せぬようだった。百足から今日聞いた話の中にも√妖怪百鬼夜行で聞き覚えのある筋書きが世界の差異に揺らいだようなものも多く、それゆえか、彼の脳裡には幼い折に家族から言われた言葉が過ぎっていた。
「夜の海に近寄るなと家族に言われたことがある。海は真っ黒で波も見えにくいのもあるが、何が潜むかもわからないからとな。これを見れば納得がいく」
「そりゃ良い親御さんじゃないかい」
大吾の声が笑った。そちらを見れども足許にあるはずの黒猫の姿は|闇《くらがり》に沈んで判然としない。半ば以上は楽しい観光ついでに面白い話が聞けると認識しているらしい猫又の反対側、絶えず反響する波の音に、やはり影の如く在る百足が軽やかに砂を踏む音がした。
「楽しそうだな、四百目兄」
「ええ! 湖武丸が良い前振りをくれましたからね」
徐に――。
魔は語り出す。
「この浜辺、海水浴場ではない昼間は穏やかな場所なのですが――」
曰く、夜が更けると死体が上がるという。
奇妙なことに|それら《・・・》は一様に水を吸っていない。今しがた水中に沈んだものが、たまさか死んですぐに打ち上げられたかのように小綺麗で、眠るように目を閉じている。
「それも何体も! 何日も! 何回も!」
毎日のように|同じ顔《・・・》が流れ着く。最初のうちこそ通報が入れば跳び上がって駆け出して来たカミガリたちも、あまりに長く続くものだから慣れ切ってしまった。終いには面倒そうに顔だけ確認するだけになり、そのうちにそれも新米の仕事になる。何しろ置いて逃げても次の日の朝には消えているのであるから、回収するだけ無為なのである。
おっかなびっくりの新米カミガリも毎回同じ顔を見せられるものだから次第に面倒になって来て、今や時折この海岸を夜半に通りかかった何も知らぬ者が腰を抜かして交番に駆け込んでは、億劫そうに一瞥されるばかりであるという。
――ああ、またですか。この辺じゃよくあるんですよ。
「して、ここは仲間内では有名な海岸なのです」
静かに閉じられた怪談に余韻を残した沈黙が宿った。波の音だけが絶えず岩礁を打ち付けている。どこからともなく流れ着くという同じ顔の骸の姿をまなうらに浮かべたか、まず大吾の声が束の間の静寂を裂いた。
「そりゃいくつ子なんだろうね。毎日同じ顔なんてさ」
夏夜の湿気を纏う潮風がべたつく。毛並みを洗いながら猫又が言う。
この海岸に流れ着くという同じ顔の、語りからは男とも女とも知れぬ|それら《・・・》は、きっとこの波間から現れるのだろう。そして顔だけを確認して面倒そうに去っていくカミガリたちが何をせずとも朝には消えて、夜が更ければ知らぬ間に現れる。
何度も。
何度も何度も何度も。
「知ってるよ、人間はそんなに一度に子を産まないだろう。猫だってそんなに兄弟はいないよ」
「水棲の妖怪の悪戯とか? いや、死んでるなら違うよな」
「何なんだろうね。そういう幽霊かな」
湖武丸が顎を撫でる。美しい顔を保っているとしても、息をしていないものを真似るのはいかに妖怪であっても難しかろう。
ならば大吾の言う通りに幽霊か。成程死んでいれば実体はないし、実体のないものは水も吸わない。流れ着いたとて綺麗なままなのも、朝になればすっかり消えてしまうのも得心がいくところだ。
然れども――湖武丸の眼差しは打ち付ける波打ち際に移る。毎夜漂着するというならば確かに面倒になるのは理解出来ようことだが、そもカミガリの仕事とは超常の防波堤のようなものであるのだから、それで粗雑な扱いになるのは如何なものか。
「カミガリ管轄もすっかり慣れてしまっているのはどうなのやら」
「ま、|ただ流れ着くだけ《・・・・・・・・》より危ねェ連中は幾らでもいます。そっちにかかりきりって訳じゃねェですか」
肩を竦める百足は相変わらずの速度で砂を踏んでいる。思案げな溜息は大吾の方だ。
黒い猫又の裂けた二又尾が揺れるのは、月のない冥い海岸線にも幾らか見得た。穏やかな声音が語るによれば――。
「でもあれだね。注目されなくなってきてるのはまずいね」
怪は余人とは断りを違える。故に人の世にあっては目に映らぬものも多い。だが心宿さぬ怪物であれば兎も角、無垢に等しく人の如き想念を抱えて彷徨うものも同じだけある。
「だってほら、一定数いるだろう。気付いてほしくてやってるってやつ」
見られることを、気に掛けられることを、或いは反応を――人の|眼《まなこ》を欲しがるものは、飽きられれば次の手を講じる。
人と同じだ。注目に溺れれば得るためには何でもするようになっていく。人々が自らをただ面倒げに覗き込み、碌な反応も示さず踵を返していく状況を、斯様なものが看過出来ようはずがない。
徐々に行動は過激になっていく。より攻撃的に、より驚かすことが出来るように、より恐ろしいものへと。
「みんなそうとは言わないけれど……ちゃんと見てあげた方がいいよ」
猫又が背を伸ばした。尾の先に揺れる焔が彼の存在を強く示している。揺れる二つの光源に目を遣っていた湖武丸もまた、その意見には賛同するところである。
「害がないなら触れる必要もないとされたか――大吾が言うように構わないでいて問題ないのやら」
男の零す声と殆ど同時に、岩礁を削る波の音が僅かに音を変えたのに気付いたのは誰が一番に先だったか。とまれ三人が気配に顔を上げるのは同時だった。
――曰く、恐ろしいものは|語らば寄る《・・・・・》という。
――曰く、怪は心を量る者を逃さぬという。
曰く――。
「……出たらどうする?」
得体の知れぬものは、|いる《・・》と思ってはならぬという。
故に。
「……嗚呼!」
百足はいたく楽しげに笑った。ひときわ大きな波が岸壁で砕ける。絶えず響く潮騒の音に重い音が混じる。
彼の指差す前方に、|遠目からでも見える《・・・・・・・・・》骸が一つ、転がっている。
「また、ですね。クヒ!」
冥い波打ち際の、隣にいる者の表情さえも濃い影に隠れる|闇《くらがり》の中で、容姿までもがよく目に映る亡骸が静かに横たわっていた。
女である。
海水にぐっしょりと濡れた服と長い髪が砂を巻き込んでいる。だというのに眠っているかのように美しい顔と、膨れ上がらぬ皮膚をしていた。生白いそれと青紫の色をした唇だけが、|それ《・・》が既に息をしていないことを伝えて来る。
新月の浜、光の届かぬ無機質な波の音の中で――。
|それ《・・》は。
|緩慢《ゆっくり》と目を開いた。
「兄、どうする?」
「あたしゃ荒事は御免だよ。気分じゃないね。あれに近寄ったら水浸しにされちまう」
立ち上がろうとする女の濡れた髪が砂に吸い付いている。皮膚が吸うべきだった水を骨が吸っているかの如く、奇妙な弾性を持った動きで体を揺らす|それ《・・》を前にして、湖武丸の眸に問われた長躯の人間災厄は笑う。
|怪異《どうほう》であるからには恐ろしくもない。どろんと垂れ下がる瞼の下から濁って焦点の合わぬ眼が覗こうと、骨を持たぬかのような覚束ない足取りで体を左右に揺らそうと、所詮は災厄にも満たぬ哀れな女の成れの果てである。
まあ――。
普段であれば邪険に扱うまでもない相手であることに間違いはないが。
「ク。そうですねェ。ま、ここで朝が来るまで仲良く四人でお喋りってのも悪くはねェですけど――今日は観光ツアーが本題なんで」
湖武丸も大吾も水に濡れてもらおうというつもりはない。以前の返礼であればアクシデントは許容すれども不本意な状況を呼ぶつもりもない。
ならば。
「消えてもらえます?」
潮騒は変わらず岩礁へ打ち付けている。寄せては返す黒い波間に、漂っていた霊魂が呑み込まれて消えていった。
浜を端から歩いた足跡はやがて夜明けを待たず引き返す。人のものとは思えぬ|膨満《ぶよぶよ》とした跡を夜の間に満ちた潮と寄せた波が掻き消して――。
後には二人と一匹分の足跡だけが残った。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功