いつかをカタチにする瞬間
──服を作らせて欲しいと口にしてから、どれくらい経っただろうか。
渡瀬・香月が常連客の背を見送った後は、すっかり閉店の時間が迫っていた。店内が空っぽなことを確認してから、扉のプレートを『Closed』に架け替えて、いつも通りの締め作業へと移っていく。レジ締め、テーブル拭き、床掃除。いつもと変わりないそれらの業務だが、作業にあたる青柳・サホの手はいつもより少し手早かった。勿論手抜かりは無いよう確認はしっかりと行なっているが、『この後』のことを考えるとどうしても気が急いてしまって。掃除に使った道具を所定の位置に戻しがてら、厨房で明日に向けた食材のチェックと調理器具の点検をする香月の背中をチラと覗いていると、ちょうど終わったところだったのか。振り向いた香月と目があって、そのまま話しかけられた。
「──よし、粗方終わったか。お疲れサホ」
「香月さんもお疲れ様です。えっと、それじゃあ…」
「ん、それじゃあおまちかねの…採寸タイムだな!」
にか、と香月が人好きのする笑みを向けると、少しホッとしてサホがはい、と頷く。そう、今日は閉店後に時間を貰う約束をしていたのだ。──香月に、『仕事でもプライベートでも使えるベスト』を誂える為の、採寸の時間。約束を、現実のものにする為の時間。サホが早速道具を取りに行こうとすると、姿見があるから、とバックヤードに場所を移すことを提案して、香月も一緒に裏へと回る。その並び歩く短い時間、香月の広い背を見てサホが思うのは面接でのこと。
──服が作れるなんてすごいな、と。素直な感心が込められた短いひとこと。
店の面接自体は割とあっさりと採用が決まり、働ける時間の都合を決める為のすり合わせの会話の中。サホがファッションデザイナーを目指す大学生であることを告げた時に、香月からそう返されたのだ。店を構えて料理を作れるのだって凄いことだと思うのに、香月の言葉からは尊敬すら感じられて、なんだかくすぐったかった。だからだろうか、気づけばサホの方からするりと『いつか服を作らせてください』、なんて口にしていた。いいの!?と嬉しそうに驚く香月に頷いて、気づけばそれは小さな約束となって、サホの胸の内にそっと仕舞われることとなった。──暫く一緒に働いていたら、なんとなくわかってくる。香月はきっとサホの言葉を社交辞令として受け取ってくれただろうし、実行されなくても気にする人ではない。だからその場のノリで発した話を広める為の放言であると、無かった事にしてもきっと問題はない。けれど、そも当の発言者であるサホが気になってしまうのだ。きちんと|相手《香月》に告げた以上、それは最早サホだけでは完結しない。それに根の真面目さからか、どうしても無責任に言葉を発したくないとも思ってしまう。そうして募ったモヤモヤを解消するべく、ついに今日こうして時間を作ってもらったのだ。
「お時間を取らせてしまってすみません。……じゃないな、ありがとうございます」
「いやいや。まさか本当に作ってくれるなんて実は思ってなくてさ。めっちゃ嬉しいわ。こっちこそホントにありがとう!」
ワクワクした様子の香月の言葉にやっぱり、とサホが思う反面、自分から言い出して良かったとも実感した。でなければこうして時間を持つことも叶わなかっただろう。バックヤードに入ると適当に物をどかせて空間を作り、いつも使っているメジャーと愛用のノート、ペン、サンプルの生地をテーブルに広げて準備は完了。姿見の前で香月に立ってもらい、採寸へと取り掛かっていく。
「ちょっと、いや、かなり触れちゃうと思うんですけど、不快だったらすみません。早めに済ませるので。」
「俺の方は大丈夫!サホがやりやすいようにしてくれれば。あ、腕上げる?それと台使う?」
オーダーメイドの経験なんてない物だから、嬉しさも相まって香月からつい矢継ぎ早な質問が飛ぶ。普段より少しはしゃいで見えるのが新鮮で、サホがいえ、と返そうとして一瞬ぴたりと止まる。メジャーを持って改めて向き合うと、香月とサホの身長差はかなりある。ざっくり15cmといったところか、これは確かに大変そうなので素直に台を借りるか否か──。
「── いや、大丈夫。とどきます。まっすぐ立っていてください。」
「ん、了解」
結局脳内で電卓を弾いて、あちこち測って動き回るなら台は邪魔だろう、と気合でカバーすることに決めた。オーダーメイドは採寸が命、なるべく狂いのないようにと背筋を伸ばして、まずはネックから測っていく。そのまま首から測り肩幅、袖、裄、胸囲……と順に下へと下がりながら測っていく。
「胸囲は……結構ありますね。何かスポーツとかやってました?」
「いや、特にこれと言って打ち込んだものはないなぁ。強いて言えば友達と野球とかサッカーとかバスケで遊んだくらい?多分今ついてる筋肉はフライパンを振っているからじゃないかな。あれ割と重いから」
話しながらも細かに採寸を進めるサホを、見るとはなしに見つめながら香月がふ、と笑う。測ったセンチを細かにノートへ書き込むサホの姿は、本当に真面目そのものだ。普段の仕事ぶりも細やかで、よく気がついて信頼に値する。けれどそれとはまた違って、今はなんだか一層真摯で生き生きして見える。──接客業をしていると、社交辞令は毎日当たり前のように口にする。店で心地よく過ごしてもらえるよう、食事をより気軽に楽しんでもらえるよう。例えるならそう、シュワリと軽い泡立ちが舌を撫でる|食前酒《アペリティフ》のように。楽しんでいるとはいえ、サービスとしての側面もあるのは事実だ。だから雑談中に出た軽い話を、本当に実行してもらえるとは思ってなくて。サホから話を持ちかけられた時、実は結構驚いたのだ。そして勿論、とても嬉しかった。何気ない言葉を忘れずに拾ってくれる、その真面目な一途さが。だからこそ真剣に取り組むサホの邪魔にならないよう、せめてピシリと背を正して向き合う。
「着丈、胴囲……よし、これで大丈夫。胴囲まで測れば充分なので、採寸自体はこれでお終いです。次は生地を選びましょうか。」
「へぇ、生地まで選ばせてくれるとは…!」
姿勢を崩した香月が感動して向ける目に、サホが差し出すのは|生地の見本《バンチブック》だ。選んだ生地を同じサイズに切り纏め、リングに通した簡易のものだが、やはり袖を通すなら肌触りや厚みの確認はして欲しい、と予め用意しておいたのだ。
「表地は共通にして、裏地は自由に選べるようにしたいんです。なので、この中から好きな色と柄を選んでください。もし希望に沿ったものがなければ、それも遠慮なく言ってください。違うものを探しますから」
「うわっ、これだけあると迷うな…!ええと、表は黒で背中側は茶色系とか出来る?あと、ほんの少しだけ光沢があるのがいいかな」
「出来ますよ。それだと…この辺りの生地なんてどうでしょう?」
パラパラと捲ってはサホが生地の候補を出し、時には肌触りや強度も確認してもらいつつ香月の希望を詰めていく。シルエット、生地のしなり、色の掛け合わせ…少しずつ出来上がりの予想図が描けると、サホが胸の高鳴りを感じて、一度深呼吸をする。──人に寄り添える服を作りたいと思っている。その人にとって特別な一着を作りたいと思っている。それがこの道を選んだ原動力だ。けれどおそらく、デザイナーとして世に出れば、自分の名前など大きな業界に埋もれてしまうだろうとも思っている。デザイナーを目指す人間なんて世界に星の数ほどいる。その中にポツリと混ざる『サホ』の名前はきっと、誰にも知られる事は無いのでは、と。ならば、せめて今だけは。目の前の人のために、約束に向き合ってくれる|このひと《香月》の為に、とっておきの一着を仕上げたいと思うのだ。他の誰でもない、サホ自身の手で。
──この人が着る服を作ってみたいな、と思ったのだ。落ち着いた無地も良いし、個性的な柄入りもきっとオシャレだと思う。何を選んでも何を着ても、絶対に着こなしてくれるだろう、と。デザイナーとして作りがいがあると、そう思った。だから、その直感を大事にしたい。
「…おっけ、候補はこの辺かな。後はサホに選んでもらっていいか?センスにおいては信頼しかないんで」
「…ふふっ。はい、任せてください。一度仮縫いまで済ませたら、また見せにきますね。」
「うっわ楽しみ…!是非頼むわ」
「それと、着てる間にほつれたり破れたりしたらすぐに教えてください。直しますから」
「アフターケアまで完璧…改めて作って貰うのって贅沢だな!いやでも正直すげー助かる。ほら、ボタン付けってめっちゃ難しくない?前にやろうとしたとき、こう…なんて言うんだろう…クルクル回っちゃって…」
料理は繊細な盛り付けも難なくこなすのに、指をくるくる回して苦笑う香月は本当に裁縫の類が苦手なのだろう。想像するとなんだかおかしくて、ボタン付けも私がやります、得意なんです、と付け加えながらサホが採寸の道具を片付ける。そうしてその日はひとまず解散となり、軽いお礼代わりの賄い弁当を香月から渡されて、サホがいつもの帰り道へと流れていった。
──家に帰ったらすぐに型紙を作ろう。暫くは、これを仕上げるのにかかりきりになるだろう。学校に通ってバイトに行って、課題だって毎日山の様に出されている。そんな忙しい中に抱え込むベストの仕立ては──なんて、やりがいがあるんだろうか。
切り出した布地に差し込むひと針目を思えば、帰路を辿るサホの足は、少しずつ早くなっていった。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功