紅鏡に映るときめき
炎天がじりじりと建物も地面も、なにもかもを容赦なく焦がす夏。湿気を湛える空気がさらに暑さを加速させ、まるで蒸し器に閉じ込められたように感じさせる。
もうなにが暑さの原因かすら分からなくなるような、そんな季節の中のとある日、依頼の帰り道だった見下・七三子は、最も日差しが強い昼日中にアスファルトの上を歩いていた。
慰め程度にワイシャツの胸元を掴み、パタパタと風を送ってみるけれど、焼け石に水にすらなりやしない。
くらりと霞みそうになる視界を押して、どうにかこうにか日陰になっているベンチを探し当てて座り込みながら、身にまとっている黒いスーツを見下ろした。
「暑くなってから気づいちゃったんですけど……」
無意識にぽろりと呟くと、思わずといったふうに盛大な溜息がこぼれる。そう、気づいてしまったのだ。
「私、ちゃんとした夏服って持って無かったんですよね。基本いつも黒いスーツですし……」
クールビズから逆方向へ全力で走ったような服装。どう考えても、この時期に頻繁に着ていて平気ものではないだろう。自分自身に呆れた笑いがもれてしまいながら、熱に物理的に浮かされた頭で、どうしたものかと悩んだ。
赤らんだ顔で、少々ぐったりしているようにも見える七三子に向けられる心配げな周囲の視線にも気づかないほど、悩みに悩んだーー結果、思い至ると同時に決意した。
(エコスタイル、導入しようと思います……!)
このままではいつか本当に倒れてしまうだろう。それは身体にも良くはなく、周囲の人々ひ心配と迷惑を掛けるのも本意ではない。
ーーその思いは本心である。けれど、それ以外にも、彼女にはひそやかに憧れていることがあった。
︎✦︎
七三子がエコスタイル実践のために訪れたのは、座り込んだベンチからそう遠くないファッションビルだった。
きっとその名の通り、ファッションに関するテナントが多くあるだろうという安直な考えの元に選んだけれど、まさにその通りで。入った瞬間から多種多様の服をまとうマネキンのずらりと並ぶショーウィンドウが、彼女を出迎えた。
まるで華やかな迷路のような様相に少々たじろぐ。どこへ、何階へ、向かえばいいのかすら分からない。けれど暑さ対策とひそやかな憧れ、その両方を果たすべく意を決して足を踏み出した。
(涼しげだけど、キレイめというか、大人しめの服で……)
ひとつひとつ、テナントの前を確認しながらゆっくりと歩く。カジュアルやスポーツ系、マニッシュ、ギャル系ーーと本当に多い。希望するイメージに近しい所もあったけれど少し派手すぎたり、逆に七三子より遥かに年上の客層をターゲットにしたものだったりと、なかなかに難しい。
好ましい店をひとつ探すのも一苦労だと思いながらも、普段自分が着ない服を見られることが楽しくもあった。
ーーそんな中で、目を引くマネキンがいた。
着ているのは白いワンピース。控えめなパフスリーブに、バックリボンのウエストマーク。ほんの少しだけフィッシュテールのように前後の長さが異なっているフレアスカートは、くるりと回ればふわりと広がりそう。愛らしく綺麗な装いだけれど、柄がないことで七三子の望む大人しさもある。
「……たまにはスカートとか、履いてみようかなとか、思ってたんですよね」
ぽつりと零れでる、独り言。そう、七三子の密かな憧れは、ごく普通の、彼女くらいの世代の女の子が着るような服への興味だった。
もうこれは一目惚れ、もしくは運命の出会いとも言えるのかもしれない。そのままふらふらと惹かれるままに、七三子は自動ドアをくぐっていく。
店内へ入ると、ワンピースと同じくらいに七三子の胸を弾ませるアイテムが満ち溢れていた。ーーけれど少し、溢れすぎていたのかもしれない。
トップスにボトムス、夏用の羽織りもの、小物類。言葉にするとこれだけだけれど、さらにそこから細分化される。通路からテナントを見ていたとき以上の情報量に、夏の暑さとは別の意味でくらっとするような気分になる。
可愛いと思って身体へ当ててみても、これでいいのか、自分に似合うのか、と悩んでしまうのだ。
(店員さんに聞いてみて、まるっとコーディネートしてもらえないかな……とか……)
商品を素敵に着こなしている店員ならーーと救いを求めるように、そうっと周囲を見渡す。
なにを選んだらいいか分からないとは少々言いづらく、なかなか声を掛けられないでいると、ひとりとぱちっと目が合った。
困っていることが鮮明に伝わったのか、七三子のような人が他にもいるからなのかは分からないけれど、その目が合った店員は意図を察したようで、にこやかに近づいてきてくれる。
「いらっしゃいませ。なにかお探しでしょうか?」
「えぇっと、ですね。普段スーツが多いので、涼しげな夏服が欲しくて……あとはキレイめで、あまり派手ではない感じ、とか……」
小首を傾げながら欲しいイメージを言葉にしていく。これで伝わるだろうか、と少し心配になりつつも、店員は頷きながら耳を傾けてくれていた。
「それでですね、私、あまりファッションとか詳しくなくて……選んでコーディネートしていただくことって、可能でしょうか」
おずおずと伺うように店員へ視線を向ける。全てをお任せだなんて、少し無茶を頼みすぎただろうかと不安が出てしまったけれど。
「もちろん、大丈夫ですよ。あまり華やかすぎないように、お客様に似合いそうなものを見繕わせていただきますね」
「あ、ありがとうございます!よろしくお願いしますね」
店員が組んでくれたコーディネートは三着だった。
まず一着目は、ベージュ系のワントーンコーデ。トップスにはノースリーブのサマーニット。ボトムスにはAラインのシルエットが綺麗なミモレ丈スカートを合わせている。ゴールドやパールのアクセサリーを選ぶと、より女性らしさが際立つとアドバイスもくれた。
二着目は黒のキャミワンピースに、淡いくすみピンクでオーバーサイズのシアーシャツ。インナーにはオフホワイトのシアーTシャツが用意されていた。ストレートラインのワンピースは、七三子の細身の身体をより綺麗に見せるだろう。
三着目にはフリルが控えめにあしらわれた、半袖のリブニットカーディガン。合わせるボトムスは腰周りはタイトで、裾は太めのプリーツのミニスカートだ。クロップドとミニの丈ということもあり、先の二着より肌見せが多く少々挑戦かもしれないけれど、ラベンダーカラーのトップスと白のボトムスが夏らしく爽やかだ。
「わぁ、どれも素敵ですね……!」
流石と言うべきだろうか。ササッと組み合わせられていったコーディネートに感嘆の声をあげた。
どれから試着しよう、と悩む七三子に店員がもう一着手に取り見せてくる。
「勘違いでなければですけど、こちらのワンピースを見ていらっしゃいましたよね。良ければご一緒に試着はいかがですか?」
「あっ。ありがとうございます」
それは店内に入る前、目を奪われたワンピースだった。気づかれていた照れくささと気遣いに、頬をほんのりと染めながら受け取り、他の三着とあわせて案内をしてくれた試着室へと早速向かった。
試着室内に入り、フックへハンガーに吊るされた服をかける。それらを眺め、どれから試そうか悩んだ結果、見せてくれた順番通りに試着を始めることにした。
ベージュのワントーンコーデはシンプルながら華やかな印象になった。モックネックで大人しやかだが、ノースリーブで涼しげ。スカートは広がりすぎず、けれど動く度に綺麗に揺れて、心まで浮き足立つかのよう。
キャミワンピースは着慣れた黒だからか、どこか落ち着く。しかし僅かに入っていたスリットと、淡いくすみピンクが、女性らしさをきちんと齎してくれている。キャミソールタイプは首元や腕の露出が途端に多くなるけれど、シアーのシャツとTシャツで涼しさを保ちつつも程よく隠れた。
カーディガンとミニスカートのコーディネートには一番緊張してしまった。ボトムスがハイウエストのため思ったよりは見えないけれど、腹部がちらりと覗き、脚だって随分と出てしまっている。それでも、年相応らしい服装に胸がドキドキと高鳴る。
「……最後はこのワンピースですね」
このお店に入る切っ掛けとなった一着。少し可愛らしすぎただろうかと不安になりつつも、全身鏡に背を向けながら袖を通す。
一拍の深呼吸のあと、振り返った。
「ーーわ、ぁ……」
くるりと動いた身体に合わせ、スカートがふわりと可憐に翻る。しかしパフスリーブは控えめだからか、想像よりも落ち着きを感じさせるし、自分に似合ってる気もした。
けれどひとりで判断はつかなくて、カーテンを開き、外で待って試着を見てくれている店員に声をかける。
「あの、どうでしょう……?」
「まぁっ、よくお似合いですよ!」
キラキラと瞳を輝かせている店員の言葉に、営業トークでもなければ嘘もないことが見て取れ、「えへへ」と七三子の表情が思わず綻ぶ。
「あの、どれも買おうかと思うんですけど、一着選んで着て帰りたいなって。大丈夫ですか?」
「もちろんですよ。どちらになさいますか?」
折角ならと思い尋ねてみたけれも、どれに、と問い返されると再び悩んでしまう。だって、どれも気に入ってしまったのだ。
試着を終えてハンガーに吊るされた服を見て考え込む七三子に、店員は微笑ましさにくすりと笑みを零しつつ助け舟を出す。
「どれもお似合いでしたものね。でも折角着てお帰りになるなら、一番ときめいたものを選ばれるとよろしいかと思います」
「一番、ときめいたもの」
助言を聞き、あらためて服を見つめる。
「ーーそれじゃあ、」
︎✦︎
「ありがとうございました。たくさんお洒落を楽しんでくださいね」
お会計を終え、丁寧に畳んだ服を詰めてくれたショッピングバッグを受け取る。大切そうに抱えた七三子は、店員の言葉に嬉しそうに頷いた。
「はい。こちらこそ、ありがとうございました」
入口まで見送り、頭を下げた彼女へ七三子もお礼と共にぺこりと会釈を返して店を後にする。
軽快に足を進める度、ふわふわと浮つく気持ちと連動するかのように、白いスカートの尾鰭が揺蕩いなびく。
七三子が選んだのは、最初に目を奪われ、最後に試着したワンピースだった。
ショーウィンドウへちらりと視線を向ければ、知らない自分が映る。その顔は嬉しそうに口元がゆるみ、そしてほんの少しだけ緊張していた。
普通の、女の子のような姿の自分は、周りからどう映るだろうか。そんなことを考えて、ふとある人が頭に浮かぶ。
(どう、思うかな。似合うって言ってくれるでしょうかーー?)
きっと言ってくれる。そう思ってはいても、やはり普段と違う自分が大切な人にどう映るかは心配してしまう。
そんな心配を振り払おうと、頭を軽く横に振り、パッと顔を上げる。大丈夫、だってときめいた服なのだから。そう言い聞かせながら、止まってしまっていた足を踏み出した。
ファッションビルを抜け、青空の下に再び身を晒す。真白いワンピースが太陽を反射し、あざやかにきらめく。
熱で焦がされることは変わらないけれど、買い物の前よりも随分と爽やかな心地がした。
「いい服が買えたから、このままふらっとお茶でもしに行こうかな……!」
ーーときめきに身を包んで、惹かれるままにお茶をしよう。
カサっと音を立てるショッピングバッグと、わくわくと弾む心音をお供に、新鮮な気持ちで街を歩いていく。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功