天気がいい。
●喪われぬ——
胸の透くような青空。夏の澄んだ空気と焼けるような暑さ。それでも墓地は静謐としていて、ヒューイ・フラワーワークスはそっと目を閉じる。
黙祷。
八月十五日は、終戦記念日というらしい。
第三次世界大戦の続く√ウォーゾーンにおいて、第二次世界大戦が終わっただけの日に取り立てて深い意味などなかった。戦いの続く世界で、終戦記念日を思うことに意味などないから。
それでも、日本においては古来よりこの時期は「盆」と呼ばれ、死者が帰ってくるとされている。たくさんの人が当たり前に死に続けるこの世界で、死を想うことは必要だと、ヒューイは感じる。
何よりこの墓地に眠るのは、ヒューイの家族や知人だ。
戦闘機械群のうち、人類殲滅を推進するモノたちにより、ここ近辺は空爆が多かった。地雷もそこかしこに埋められていた。この地を取り戻した人間の手により、残された不発弾などの危険物はほとんどなくなっている。撤去に携わった多くの人間も亡くなっている。
養護施設に併設されたこの墓地に眠るのは、戦争の犠牲者たち。中でも不発弾の事故で命を落とした人間のものが多かった。ヒューイの両親もそこに含まれる。
養護施設で育った子供は、大抵がヒューイと似たり寄ったりの身の上で、共感ゆえに、仲間との絆は強かった。
学徒兵として動員のない日、代わる代わるに施設と墓地の管理を手伝う。義務づけられたわけではないが、ヒューイたちは自然とそうしていた。
肉親を失った痛みを、悼みを、忘れないようにすることで、この世界では磨り減ってしまった|倫理観《アタリマエ》を保とうとしているのだ。
その人はその|倫理観《アタリマエ》を捨てた人だ。
そのはずだ。
——だからヒューイは迷わず、銃口を向けた。
生ぬるい風にさらさらとその人の灰色の髪が揺れている。少し猫毛のような柔らかく跳ね気味の髪は手入れがいまいちのようで、色味とは別にくすんで見える。
墓前に相応しい静謐を当然のように保っていた青年は、ヒューイに気づいて振り向いた。長い前髪からちらり、くすんだ緑色の右目を垣間見せる。それはヒューイと同じ色の目だった。
ヒューイの姿を認めるなり、その口元はふっと笑みを描く。
「大きくなったな、ヒューイ」
当たり前だろ。
心の内で、ヒューイは言い返す。何せ、会わなくなってから八年は数えた。男児三日会わざれば刮目せよという。八年で変わっていない方がおかしい。
当然その人も、記憶より逞しい体つきになっている。見上げていたはずの背は、いつの間にかヒューイの方が追い越してしまったが。
でも、記憶とちっとも変わらない笑い方をする。
ヒューイの兄、ジェイド・フラワーワークスは。
「何をして、いるんですか」
久方ぶりに会えた弟の硬い声。
「何をしにって、墓参りだよ」
苦笑を浮かべながら返した。
墓地に墓参り以外の何をしに来るというのか、とジェイドは一瞬思ったが、人類殲滅を推進するような戦闘機械群の派閥なら、死者の眠りを守る石たちを吹き飛ばすくらい何の躊躇もなくやるだろうと思い至る。例えば、統率官『ゼーロット』の率いるレリギオス・オーラムとか。
何せ、ジェイドは人類の裏切り者で、レリギオス・オーラムに与している。工作員にはちがいない。破壊工作を仕掛けに来たと疑って然るべきだ。
夏の陽射しに反した冷たい銃口を掲げる弟。その眼差しも銃口も、唯一の肉親を前にして揺らぐことはない。
成長したな、と思う。人類を裏切って、眼前で仲間を撃ってみせたジェイドに、あの頃のヒューイは照準も碌に合わせられず、今にも泣き出してしまいそうな顔で、手を震えさせていたというのに。今はちゃんと「裏切り者」を見据えられる。惑うことも、迷うこともない。
立派になったな。兄ちゃんは鼻が高いよ。
……さすがに、口には出さなかったけれど、ジェイドは笑みを深めた。
墓前には綺麗な花束があった。白い花だ。名前は知らない。
ジェイドが手向けたものである。ヒューイに告げた通り、墓参りに来ていたのだ。その墓にはヒューイの父と母が眠っている。それはジェイドの父と母でもあった。
盆。亡くなった人が帰ってくると言われる季節に墓参りをする。それは至極当たり前の慣習であった。そういうのを言い訳にして、「人」はようやっと、死と向き合うことができる。
何か一つを思うには、人の生は忙しく、儚い。ヒューイの与り知らないことではあるが、ジェイドは体内のどれか一つが起爆すれば、簡単に粉微塵となって、ここに眠る人々と同じかそれ以上に悲惨な末路を辿ることができる。あまりにも簡単に。
いつ死ぬか、いつ吹き飛ぶかもわからない命だ。もしかしたら、花の方が逞しいかもしれない。そんな自嘲を孕むから、ジェイドは墓参りに来た。
ヒューイが訝しむのも無理はない。何せ、ジェイドの所属するレリギオス・オーラムは現在、人類側につく√能力者たちからの反撃を受けている。全ては知れなくとも、自分の住む世界の動乱だ。多少なり事情は耳にしているだろう。
だから、嬉しかった。ヒューイは知らないままでいてくれている。
おれが人間爆弾になったなんて——両親を殺した凶器を身体中に埋め込んで、狂気に陥ったような生を選んだなんて、知らなくて。
一生知らなくていいよ。お前はそのままでいてくれ。そのまま、強く生きてくれ。
死ぬのはおれが先で在りたい。おれの方が年上なんだ。その方が理にかなっているだろう?
どれひとつとして、言葉にはしない。動乱が終わるまで、オーラムにも勘づかれてはいけないから。どこまで奴等の目や耳が届いているか、わからないから。
それに、ヒューイは知らなくていいのだ。ヒューイさえ、|平和《きれい》な世界で生きてくれたら。
綺麗な中に、|汚いもの《おれ》はいらないだろ?
せめて「綺麗」であるために、ジェイドは笑う。
「もう行くよ」
ひらひら。弟に、あまりにも気さくに手を振った。銃口は向けられたままなのに、彼はあまりにもヒューイを警戒していない。
ヒューイの記憶にある「大好きな兄さんの笑顔」を矢鱈綺麗に象るのだ。へらりとした緊張感に欠ける笑顔。愛嬌があって、憎めない、「お前がお前を嫌いでも、おれはお前をずっと好きだぞ」というような……。
ヒューイは奥歯を噛んだ。歯軋りにはならなかった。本当は泣きたかったから、うまく力が入らなかったんだ。それなのに、涙を我慢することばかり慣れてしまったから、苦痛を鈍らせることに、慣れてしまったから。
銃口を向けたまま、兄の背を見送る。
あまりにも隙だらけの背中だ。敵地に来ている自覚があるのだろうか。……ありはするのだろう。
あのとき。ヒューイの目の前で、自分が裏切り者であることを証明するように、味方を撃ち殺したジェイド。ヒューイは殺さず、一瞥して「じゃあな」とだけ言い置いて、背を向けた。あのときの背と、今が重なる。
どれだけ背丈が変わったか、戦況が変わったか、立場が変わったか知れない。それなのに、兄の背はあのときと同じに「ヒューイになら撃たれてもかまわない」というかのように、不用心だ。
お前になら、殺されてもいいよ。
……重たい。銃が、期待が、信頼が。
どうして、だとか、いかないで、だとか、言うべきことも、言いたいことも山ほどあるはずなのに、ヒューイはどれひとつとして言葉にできない。しないのではなく、できない。
喉がからからに乾いたかのように、声になってくれない。言葉になってくれない。
兄の背中があまりにも無防備だから。
兄の笑顔があまりに綺麗だったから。
「じゃあな」
「……」
ヒューイの中に渦巻く感情の奔流を、この兄はどこまでも慮らない。あまりに身勝手だ。身勝手にまた、ぼくを置いていく。
またな、なんて再会の祈りすら口にしてはくれない。
だって、おれの人生にヒューイは必要だけど、ヒューイの人生におれは必要ないからな。
去りながら、そんなことをとりとめなく思う。もう拳銃の射程の外。ちょっと期待をしたのだが、弟は今回も自分を撃たなかったらしい。
少し寂しくて、ふと右手を見下ろす。
特筆すべきことのない平凡なてのひら。多少爆弾が埋まってはいるが、ちょっとやそっとの接触で起爆するようなものではない。
……頭を撫でてやればよかったな。
ぼんやり浮かんだ考えに、すぐさま表情は苦笑に染まった。
できないだろ、そんな資格、ない。今更お兄ちゃんぶるなんて、ちゃんちゃらおかしい。でも、拒絶に振り払われてはみたかったかもしれない。ヒューイにもとうとう反抗期が! お兄ちゃん寂しい、よよよ、なんて、おどけてみるのも楽しいことだろう。
でも、せめてそれはこの動乱が終わってから。終わる頃、自分が生きているかはわからない。今のままでいられるかもわからない。
それでもまずは何もかも、成し遂げなければ意味はない。
天を仰ぐ。
ああ、やっぱり、胸の透くような青空だ。
綺麗すぎて、笑える。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功