まつりうた
青色の瞳を瞬きさせて、ツァガンハル・フフムス(忘れじのトゥルルトゥ・h01140)はゆるゆると首を巡らせた。白に黒の混じった髪のひと房が、視界の端を掠める。
「ここは――……、」
|また《・・》、知らない場所にいた。覚醒は、いつだって唐突だった。直前のことを何も覚えていないのは勿論、これまでの過去も、自分は何者であるのかも分からない。
「どこだろ? ……あっ、」
軽く首を傾げたところで、どこからかお囃子が響いてきた。甲高い笛の音に、力強い太鼓のリズム。それにがやがやとした喧騒が、辺りの生ぬるい空気に漂っている。
時刻は夜らしかったが、周囲は明るかった。あちこちに灯されたまるい提灯が、ツァガンハルを誘うようにゆらゆらと揺れている。靴底には砂利の感触。神社の境内なのだろうか、木々の向こうに朱塗りの鳥居がちらちらと覗く。
「お祭りかな。賑やかで、たのしそうだ」
広場では様々な屋台が軒を連ねていて、紅白の垂れ幕の真ん中に大きな櫓が組まれていた。笛や太鼓の音はあそこからだ。さっそく石段を降りて、お祭りの会場へ向かおうとしたツァガンハルだったが、そこで近くに誰かがいることに気がついた。
(……子ども?)
石灯籠の陰に、白い狐のお面を被った子どもが立っている。浴衣姿のその子は、黙って広場のほうを見ているようだった。家族や友達とはぐれたのだろうか。
「おまえさん、どうしたんだ? 迷子か?」
その姿が何だか寂しそうに見えて、放っておけなくなったツァガンハルは声をかける。一瞬、子どもは身をすくめたようだが、ややあって彼のほうを見上げて静かに答えた。
「ううん、違うよ。ひとりで来たの。……お兄さん誰?」
「オレもひとりで、あっ……!」
そのまま言葉を続けようとしたツァガンハルが、思わず声をあげる。そう言えば、自分が誰か分からないのだった。色々と忘れてしまうのには慣れっこだが、こういう時にすぐ自己紹介できないのは困りものだな、なんて頭を掻く。
(だけど、大丈夫だ)
懐から皮の手帳を取り出すと、その一番目立つところに書かれた文章を読み上げる。もう何度となく繰り返した、身体に染み着いた動作だった。
「”オレはツァガンハル。白黒という意味。”……だ! よろしくな!」
自分で口にすれば、ああそうだった、とその名がすとんと胸に落ちる。そうして、にかっと人懐っこい笑みを浮かべたツァガンハルは、一緒にお祭りを見て回ろうと子どもに手を差し出したのだが――直後に、その表情が険しくなった。
「……うっ?!」
そのまま、よろめくようにして膝をつく。先ほどの笑顔とは打って変わって、彼は苦しそうに、何かに耐えるような顔をして身体を丸めていた。
「ど、どうしたの……?」
おずおずと声をかけてくる子どもに、安心させるように頷いてみせると。
ややあって――消え入りそうな声と一緒に、ツァガンハルのお腹が哀しげに鳴った。
「こ、これって『はらへり』ってやつかもな……?」
ああ、お腹が空くという感覚も忘れてしまっていたけど、きっとこれがそうだ。ぐるぐるしてきた頭で手帳をめくれば、今の状況にぴったりのメモ書きが顔を覗かせた。
――お腹が空いている時は、迷子になりやすいので注意!
「そうだ、色々思い出せないのも、きっとお腹が空いているからだ……!」
ぐっ、と拳を握って気力を奮い立たせると、ツァガンハルは子どもの手を引いて、急ぎ足で石段を下っていく。突然のことに戸惑う相手に向かって、彼は良い事を思いついたといわんばかりに、からからと笑ってこう言ったのだった。
「うははっ、まずは何かを食べて――それから、オレと一緒に遊ぼうぜ!」
祭りの会場には様々な屋台が出ているようで、ツァガンハル達が近づくにつれて美味しそうな香りが漂ってきた。
「これは、“粉もの”っていうヤツか? よし、まずはこれだな!」
近くの鉄板からは、じゅうじゅうという音とともに盛大な湯気が上がっている。香ばしいソースの匂いからするに焼きそばらしい。さっそくふたり分注文すると、はふはふと息を吹きかけて一気に平らげる。続けて挑むのは、ほかほかのたこ焼きだ。
「たこだ! たこが入っているぞ! ……ん、たこって何だっけ?」
口いっぱいにたこ焼きを頬張って、顏までまんまるにしてふたりで笑う。
最初はツァガンハルの豪快な食べっぷりに圧倒されていた子どもだったが、いつしかすっかり懐いていた。大型犬を思わせる彼にぎゅっとしがみついたり、時おり肩車をして貰ったりして楽しんでいる。
「りんご飴に、わたがし……それと、キンキンに冷えたラムネ」
屋台に並ぶ食べものは、前に食べたことがあったかも知れないが、ツァガンハルの目にはどれも新鮮に映った。それでも、何か「特別」なものがあったような――そうしている内に、彼の顔がぱっと輝いて屋台のひとつを指さす。
「……ドーナツ屋さん?」
「そうだ! オレはドーナツが好きなんだ!」
首を傾げる子どもに頷き、手帳のメモと見比べる。そこにふにゃふにゃの線で描かれているのは、まるい穴の開いたお菓子の絵だった。
シンプルに揚げて砂糖をまぶしたものや、チョコレートや生クリームのかかったもの。色とりどりのチョコスプレーでデコレーションされたもの。
沢山のドーナツを目にすると幸せがこみ上げてきて、大きな口を開けてドーナツの輪っかをかじると、もっと幸せな気分になる。そんな感じでツァガンハルが幸せを噛みしめていると、祭囃子に重なるように澄んだ唄が聞こえてきた。
『――あそぼ、あそぼ、いっしょにあそぼ』
歌っているのは子どもだった。狐のお面をつけたまま、櫓のほうを見ている。
『おめんをつけてあそびましょ、ふえのねあわせておどりましょ――』
盆踊りが始まったらしい。浴衣を着たひと達が輪になって、お囃子に合わせて踊っているのが見えた。皆、お面をかぶって、顏を隠している。
「このお祭りはね。人間も妖怪も、死者も生者も一緒になって楽しむんだ」
ツァガンハルの背中におぶわれていた子どもが、そこでひょいと地面に降りる。
「……だから、みんな正体が分からないようにお面をつけるの」
知らないひとがこっそり紛れていても、気づかれないように。気にしないように。
そういえば、まだこの子の顔を見ていないな、とツァガンハルは気づく。
「そうなのか。記念に、おまえさんの似顔絵を描こうと思ったんだが……」
ペンを取り出しかけた彼に向かって、子どもは寂しそうに首を振った。そのまま祭囃子を追いかけるように数歩進んでから、さっと振り返る。
「本当はね、お兄さんと約束をするつもりだったんだ」
「約束?」
うん、とちいさく頷いて、子どもがちいさく人差し指を立てる。
“今夜、ここで一緒に遊んだことは内緒だよ。誰にも言ってはいけないよ”
“もし、約束をやぶってしまったら”
どこからか、ざわざわとした風が吹きつけてくる。
祭りの炎が大きく膨れ上がった――と思ったら、頭上に灯されていた無数の提灯が、ふっと一斉に掻き消えた。
『――ぼんぼりきえたらかえりましょ』
辺りが暗闇に包まれるなか、余韻を残すようにして祭りの唄が終わる。
それから、からんとお面の転がる音。顔は見えない。だけど――、
「だけど……、ぜんぶ忘れてしまうなら、仕方ないね」
最後にツァガンハルが聞いたのは、ぞっとするような、冷たい声だった。
                  🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴                成功