いつか幸福の花をあの丘に
日常に生きる幸せ。
普通である幸せ。
良く聞く言葉かも知れない。けれど。
――〝普通の幸せ〟とは何だろう。どうすれば〝そう〟なったと言えるのだろう。
八咫神・ユウリ(穢れた手・h08712)はいつも、そう考えては立ち止まる。
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ユウリの一番古い記憶は朧気で、まだ『ユウリ』でなかった頃。
二つの黒い影から暴力を受けていた、痛みと熱の事実だけを覚えている。
その影は実の両親だったけれども、もうそんな形でしか思い出せない。
罵声と共に浴びせられる暴力に幼い身体は耐えきれず、ついには動けなくなってしまった。
そして呻き声すら満足に出せないユウリを、影は躊躇なく汚れた路地裏に捨てたのだ。
「おい、こりゃ生きてるぞ」
「いけない、早く治療を」
暗闇の中で聞こえた音。
声だと理解するより先に身体が浮いて、掛かる力に痛みが走る。
「……っ」
息の漏れた音に対して安心させる様な声が応えた。
「悪ぃな、今助けてやるからちっと耐えてくれ」
「もう大丈夫よ」
それがユウリと恩師達との出会い。
ユウリを助けてくれたのは一組の男女。
彼等はユウリを自らの住処に連れて行き、治療を施した。
ユウリは二人の姿を見た時、声から想像した通りだったなと思った事を覚えている。
「お、見えるか? まずは飯食って体力付けるところからだな!」
男性の方は、一目で腕っ節が強いのだと分かる、鍛えた筋肉で大きな身体に無精髭。
「もう、大きな声出さないの。びっくりしちゃうでしょう」
対照的に、妖艶さと淑やかさを併せ持つ、声音や所作の一つ一つさえ美しい女性。
男性は豪快で、大雑把な処があるのかよく女性に呆れられていた。
二人はユウリに帰る場処がないのを理解していて、怪我が治ってもここに居て良いと言ってくれたのだ。
「お前さん、名前は?」
聞かれて、ユウリは開きかけた口を閉じる。名前はあったが、ろくに呼ばれた事もないそれが自分の名前だとは思えなかった。
「そう、じゃあ私達が新しく貴方の名前を考えても良いかしら?」
女性はユウリの様子に気付いたのか、優しく問う。驚いて顔を上げたユウリに二人は笑い掛けた。
「気に入らなきゃ好きな名前を名乗りゃ良い」
「あら、じゃあそうならない様にうんと素敵な名前を考えないと」
拾われてから、ユウリは与えられてばかりで戸惑う。けれど、それは嬉しさでもあった。
この日、ユウリは『ユウリ』として新たな人生を得たのだ。
●
ユウリの怪我が完治する頃、二人は自分達が『八咫神』なのだと打ち明けた。
暗殺組織『八咫神』と言えばそこらの子供でも知っている。
『悪い事をしたら裁かれる』――ぼんやりとした噂だったが、なんせ「悪い子の処には『八咫神』が来るよ!」なんて叱り文句がある位だ。
実態こそ知られていないものの、実績も多く知名度は高かった。
集団組織だと思っていた『八咫神』がたった二人だけだったとは。
ユウリは少なからず驚いたけれど、それで何かが変わる事はなかった。
暗殺者と言っても二人は理不尽にユウリを傷付ける事はなかったし、むしろ優しくてここでの生活は楽しかったから。
『八咫神』も、裁くのは悪事を働いた相手だけ。それも表では裁かれず何らかの力で守られている悪人ばかりで、いわゆる義賊と呼ばれる存在だった。
二人と過ごす内にユウリは男性を「師匠」、女性を「先生」と呼び慕う様になった。
そして師匠からは戦い方と暗殺手段を、先生からは敵の懐に潜り込む方法を学んだ。
穏やか、と言うには少々物騒な日々だったが、ユウリは二人の下で育っていき――師匠に恋をした。
それはもしかしたら少女が父に抱く憧憬であったかもしれない。けれど確かに特別だった。
師匠はユウリを褒める際に頭を撫でる癖があったが、それがユウリの心を刺激する。
気持ちは次第に「頭を撫でないでほしい」から「子供扱いをしないでほしい」に変わっていったが、それを強く言葉にする事は出来なかった。
師匠と先生がお互いを愛しているのを知っていたから。
そして二人はユウリも娘の様に可愛がり、愛してくれていたから。
二人が望むのなら、二人の子供でいようとユウリは恋心をしまいこむ事にした。
ユウリも二人とずっと一緒にいたかったから。
けれど、それも長くは続かなかった。
●
ユウリが18歳になった日、『八咫神』が襲撃された。
相手は今まで裁いてきた標的の残党が手を組んだ集団。
その中には普通の女性や年若い青年などが混じっていて、ユウリは「悪人にも家族がいたんだな」と思った。
戦況は滅茶苦茶で、結果は相討ち。
個人の戦力は『八咫神』が圧倒的だったが、人数差に圧されて捌ききる事は難しかった。
それでも襲撃者は全員倒し、生き残っているのはユウリと、致命傷を負った師匠だけ。
「ユウリ、お前は日常に戻れ。生きて幸せを手に入れろ」
死の間際、師匠はそう言ってユウリを撫でようと手を伸ばす。
ユウリは師匠の言葉が、その意味が理解できなかった。
「わかりません……私には、お二人がいない世界が幸せだとは思えません」
「それでも生きろ。お前ならできる。俺は親父として、そういう奴に育てたつもりだ」
もう目が見えていない師匠の血塗れの手が、ユウリを見付けられずに虚空を泳ぐ。
もう片手は傍らにある先生の頬に添えられていた。
もう温度のない、亡骸。
ユウリには大好きな二人といられる『八咫神』だけが世界の全てだった。
でも、それももう、終わるのだ。
我が子である事を望まれたので、ユウリは師匠の手を頬ではなく頭に導いた。
頭を撫でる師匠の癖。
「……今まで本当にありがとうございました」
これ以上苦しまない様に、ユウリは彼に教わった方法でその命を静かに終わらせる。
「愛しています。お父さん、お母さん」
二人の亡骸を高台の丘に埋葬した後、ユウリは師匠との会話を思い出していた。
暴漢から親子を守った時の事。
「なぜ、依頼でもないのに助けたのですか?」
「お互いを守ろうとしてたからな。いいかユウリ。自分が綺麗だと思ったモンはちゃんと護れよ。護れない手ってのはな、段々穢れていくんだよ」
師匠の言葉がユウリの頭の中で廻る。
ならば「世界で一番綺麗な人たち」を護れず、殺したこの手はなんだろう。
いまこの世界で最も殺されるべきなのは、きっと。
ユウリの頭の中が真っ赤に染まり、衝動的にナイフを首に当てる。
約束を破ってしまうが、それ以上に自分が許せなかった。けれど。
「これは、何……?」
いつまで経っても死は訪れず、恐る恐る開いた目の前に広がる景色に呆然とする。
――世界の様子が一変していた。
丘の形こそ同じだったが、墓標は消えて見知らぬ世界が広がっている。
「……これは私に立ち上がれという事ですか?」
二人の望みがユウリの普通の幸せであるのなら普通の人間としてやり直そう。
誰も自分を知らない世界なら、うまく溶け込んで「普通の人間」になれるかもしれない。
「……約束を守らなくては」
元の世界で両親の墓標があった場処を離れて、ユウリは歩き出した。
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まだ歩き出したばかりのユウリには答えが分からない。
けれど、いつか、普通の幸せを見付けられたら。
きっと二人と過ごした幸せとも違う、けれど自分がまた心から「幸せだ」と思える様になったら。
お父さんとお母さんに、伝えに行きたい。
――いつか笑顔であの丘に。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功