希うは、
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無影灯が照らす真白の部屋。
手術台と滅菌済の器具を備えているが此処は外科病棟ではない。静謐を打ち破るのは規則正しい心音を示すモニターの電子音。白衣に似たガウンを纏いマスクで口許を覆った女の手には医療用の手袋で覆われ、鋭いメスが握られている。
冷たい鋼の刃先が見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)の腹に触れた。
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空調の唸りと僅かな金属音。無駄のない動作で皮膚を切り裂き|中《・》を暴く。
心拍音がモニターと空気を揺らし続けるが、それは彼女の安眠を邪魔しない為の大事な命綱。
これは|解剖《・・》ではない。|覗き見《・・・》なのだから。
「……綺麗やね」
一・唯一(狂酔・h00345)から|恍惚《うっとり》とした声音が零れる。
刃先を拒む筋肉の抵抗。丁寧に解すように断ち切りながら、赤く脈打つ平均よりは太めの血管を傷付けぬよう把持するためにそっと鉗子を差し込んだ。
改造人間たる七三子の中身は一般的な人間の構造と変わらなかった。艶やかに輝く臓器の配置は慣れ親しんだ記憶通りで、手順に狂いと焦りはない。
「嗚呼、でもやっぱり強い子やから」
手元に伝わる感触は彼女の外見とは裏腹に、刃を押し進める際の抵抗が強く、効率的に鍛えられた構造物のような、まるで機械的な設計に近い印象を受けた。均整の取れた筋肉の層が現れる。密な繊維は同年代の女性と違って柔らかな印象が薄い。
「たくさん、たくさん、頑張っとるもんね」
唯一にとって|臓器《ナカミ》を眺めるのは実益を兼ねた趣味である。
愛らしい笑顔で周囲を癒す七三子の|中身《うちがわ》が柔らかく壊れやすい印象ではなく、強靭さを醸すものであるように。外見と内面の違いを知れるのは面白い。
そして本来であれば聞こえる事のない|秘密《こえ》が|覗ける《聞こえる》からだ。
『わたしは、せんとういん。個性も、感情もいらない』
「周りが戦いやすいように立ち回って、戦況次第で色々な事が出来るんはボクには出来ひんわ。ほんま凄い子」
独り言のような返事。
鮮やかなルビーは瞼の向こうに隠れ、爛漫とした輝きは見えない。それでも目を合わせるように視線を向けて微笑みを向ける。
『わがまま言って迷惑に思われて、きらわれたくなくて』
「我儘なんて言うたところ見た事ないけどなぁ。もっと遠慮せんと願い事言うてええのよ。みんな七三子が大好きやから、我先にとこぞって叶えてくれるで」
頭を撫でる代わりに脈打つ臓器へ愛し気に指を這わす。
『わたしはここにいるよ』
「うん。七三子がおらんようなったら寂しいから、何処にも行かんでね」
胸腔の奥、収縮を繰り返し鼓動す赤みを帯びた塊は生命の炉。液体を送り出すたびに微細な振動が伝わる。
××××と叫ぶ心臓の傍に張り付く見知らぬ装置。
「なんやろ、これ」
延命目的であるようには思えない。心臓は正常に動いていて、欠陥があるようにも見えない。強弱をつけて刻むリズムに不穏な気配は認められず打楽器の演奏のように鼓膜を揺らし続け、モニターの電子音にも異常はない。
改造人間独特のものなのだろうか。
彼女が不要だと、捨てなければと決意した|モノ《・・》に関係があるかもしれないが機械に精通しているとは言い難い唯一にはやはり装置の正体は判らなかった。
ただ少しだけ。
破損しているようにも見える。
『―――――、――――――――、――――――?』
装置の方に意識を奪われていた唯一を七三子の|声《・》が引き戻す。
寝顔の健やかさに変わりはないはずなのに、寂しそうに、悲しそうに、小さな子供が縋り付いてくるような、絞り出すような悲鳴に似た響き。
「戦闘員の七三子も、|普通《・・》の女の子しとる七三子も、……もし戦われへんようになっても……笑って、楽しそうにしてくれてたら、充分やから。そんな事、言わんでよ。なぁ、七三子」
眠る彼女の頬に思わず手を伸ばしてしまう。白い肌が赤黒く染まった。それでも流れていない涙を拭うように七三子を撫でるのを止められない。
『みんなだいすき』
「ボクも、大好き」
七三子の笑顔が見たくなった。
花が綻ぶように柔らかく、周囲を照らすような明るい笑顔を。
無影灯の下に照らさ続けていた|声《ナカミ》とのお別れの時間。
まずは器具を取り外し、押しやり乱していた組織を正しい位置に寄せて溢れる血を丁寧に拭う。余計な力で傷付けないよう慎重に。極細の糸を通した針が僅かな圧の後皮膚を貫き、左右の皮膚を引き寄せてゆく。縫い目は極限までに控えめな力で、然し縫合が雑になってはいけない。緩やかに、然し確りと。繋ぎ合わせる力は必要最小限。強すぎれば皮膚が不自然に引き攣り痛みの元となり、弱すぎれば隙間から感染症を引き起こし、どちらにしろ七三子に痛みを与えてしまう。それは避けねばならない。
やがて閉じられた腹。消毒液の香りが漂い、柔らかなガーゼが当てられる。赤の残滓をひとつ残らず拭いた後に包帯で身を包んでいく。きつ過ぎず、緩くないように。力の配分を調整し、傷痕を隠した。
バイタルに異常はない。呼吸も穏やかで正常。顔色も悪くはない。眠る様子にも変化が見られない事を確認する。
暫くは一筋の淡い線が残るが、いずれ知らぬうちに消えるだろう。何もなかった事になる。痛みも、傷痕も。
これは|解剖《・・》ではなく、|覗き見《・・・》だったのだから。
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「えっ、ここで食べていいんですか? ほんとに?」
「勿論やで。そのつもりで連れて来たんやから」
√EDENまで足を伸ばした七三子と唯一が向かったのは、誰もが知る五つ星ホテルの最上階。堅苦しくない程度のドレスコートが必要とは言うが、互いに黒を纏ってボタンを留めていればレストランのグリーターも笑顔で二人を案内してくれた。
「対価をいただくほどのことではないと思うんですけど」
「そんな事ないで。七三子の|秘密《ナカミ》知ってしもたんに」
「……じゃあ今度、一緒に甘いもの食べデートにでも行きたいです」
一方的な行為は火種だ。お礼をしなかったからといって、何か言い出すような利己的な人だとは思っていない。お役に立てるのでしたら、と恥ずかし気に身を差し出してくれた七三子に報いたかったのは唯一のほうである。
だからこそ七三子を誘ったのはスイーツビュッフェ。出来るだけ好きな物を、好きなだけ、と考えた末の|お誘い《対価》。
「わああ、すごい」
席へ案内される道を、キラキラ光るケーキたちを同じくらい目を輝かせた七三子が普段より遅い足取りで進む。微笑ましく眺めながら背を押し、辿り着いた窓際の明るい席に腰を下ろした。
「ふふ、食べたいの見つけた?」
「全部ですっ!」
元気な返事と共に最初の一皿目を取りに行く後ろ姿は無邪気な少女のようだ。
今はちょうど収穫の秋。栗、いも、南瓜など実りの季節を堪能できるラインナップが並ぶ。りんごや葡萄に混じり、人気のシャインマスカットもある。秋を象徴する食材たちが見事に姿を変え、美味しそうに目を楽しませてくれていた。
「どれも本当に美味しそう……!」
「野菜のグリルとかグラタンもあるんや。しょっぱい系も美味しそうやわ」
「えへへ、どれからにするか迷っちゃいますね」
ひとつずつ、全てのメニューを制覇するようにお皿に乗せていく。ひとつひとつは小さく作られているが所せましあっという間に皿の上は大混雑となった。綺麗に盛るべきか、隙間なく欲張るべきか悩ましい問題に直面してしまう。
「まずはこれぐらいにしてあげましょう……!」
多少見栄えよく丁寧に並べたケーキたちを運び席へ戻った。喉を詰まらせないためのお供は王道の紅茶。大きめのポットで提供され、カップを満たせば芳醇な香りが漂う。
「あっ。そのガラスのなんですか?」
「これ? 南瓜プリンやって。最後の一個取っちゃった」
「次行ったら絶対取ってきます!」
「じゃあ先にお食べ」
はい、とまだ手の付けられていないプリンが七三子のお皿の隣に置かれる。
「え、唯一さんだって食べたくて取って来たんですから。私また取りに行きますから」
「ええのよ。ボクやったら場所すぐわかるし。今日は七三子が優先」
「うう……じゃ、じゃあ有難く頂きますっ」
いただきます、と互いに声を重ねてフォークを手に取る。
ふんわりとしたスポンジに生クリームが絡み、甘く柔らかな風味が鼻腔を擽って、舌の上で滑らかに溶けてゆく。噛み締めればフルーツの風味と混ざり合って口の中で小さな幸福の波紋が広がって、フォークを持つ手が止まらない。
「んんん、美味しいです……!」
次に選んだのはタルト。黄金色に焼かれた生地はサクサクで、香ばしさとバターの香りが満ちる。カスタードクリームの優しい甘さとフルーツの酸味のアクセントがリズムのように舌の上で踊った。
「えへへ、大好きな唯一さんとお出かけできて、こんなにおいしいケーキと紅茶をいただけて、私は幸せものです……!」
楽しそうに、嬉しそうに、美味しそうに。ケーキを堪能する七三子を正面に、唯一は微笑む。
「なぁ、七三子、―――――――?」
ふと、七三子の手が止まる。丸い瞳が瞬きに揺れた。
「うん? いえ、そんなことないですよ?」
なんでそんな事を問うのかと不思議そうに首を傾げた七三子を見て、安堵したように頷く。
「変な事聞いてごめんやけど、それならええわ。あ、あと傷も痛まへん?」
「あ、はい。大丈夫です。痕もほとんど見えなくなりました!」
「良かった。大好きな七三子を困らせたくないもん」
「唯一さんの腕前、全く心配してませんよ?」
七三子が笑う。この笑顔が永遠に続くように、そう願いを込めた甘い時間は緩やかに過ぎて行った。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功