残響
|赫《あか》が見えた。
水面の奥底からせり上がったそれは、蝋燭の色であり、その|頭《かしら》で揺らぐか細い火であり、そして男の眼前ですべてを飲み込んだ炎であった。茫々と昏き水底にひとつ灯ったばかりの赫は、瞬く間に視界を、思考を染め上げ、黒海はたまらず強く眸を閉じた。波はないというのに、躰を預けた小舟が微かに揺れたような気がして、裡から湧き上がる震えを抑え込みながら船縁へと手を掛ける。
今宵は満月の夜だった。
ぶらりと家を出たことに特に理由はない。気が漫ろだったかと問われれば、そうかも知れぬと答えるだろう。畏れを裡に抱えるばかりで、どうにも外へと脚が向かぬ性分ならば、心惹かれたからという答えが最もらしく聞こえるのではないだろうか。
白く形の良い耳が、水音を捉えた。
それが細波の音だと気づくのにそう時間はかからなかった。黒海の知る、あの荒々しく岩場に打ち付ける波音ではない。穏やかに染み入るような、語りかけるような、そんな柔く静かな調だった。
誘われるように爪先が向く。どう路地を辿ったかは覚えていないが、気づけば大きな満月を映した小さな湾に居た。月映ノ潟、という名が脳裏を過る。まぼろしを映す潟、と何処かで仕入れた言葉が囁いた。
先を見遣れば、砂浜には木船があった。帆も櫓もなく、ただ古びて黒ずんだその姿が何故だか放ってはおけなくて、黒海はそろりと近寄った。ここで出逢えたのもなにかの縁。渡航も久しいであろう船に、少しばかり付き合うのも悪くはない――そう思ったのは、夜風に混じる潮の香のせいとも言えよう。
波打ち際まで押し運び、湾を離れると同時に船上へと身を移せば、ひとときの主を得た船は凪いだ潟を緩やかに渡り始めた。
貌を上げると、|舳《へさき》が示す場所には眩いひかりが満ちていた。以前深潭めく娘とともに見た、あの燦めきだった。|昊《そら》に在る様も美しかったが、水に抱かれ金の飛沫が舞う様はまた息を飲むほどで、だから黒海は知らずと手を伸ばしていた。――伸ばしてしまった。
瞼の裏に止まぬ赫を映しながら、けれど黒海は恐る恐る眼を開けた。薄らと拓けた視界から消えた血の色に安堵するも、再び凪いだ水面に見知った姿を見つけて一際大きく瞠目する。
あのころ唯一、己の存在を知っていてくれたひと。一国の王であり、兄であったひと。国を治めながらも、離れて暮らさざるを得なかった己を常に気に掛けてくれたひと。
呼吸が詰まる。視界が震える。戦慄く唇を噛みしめた黒海は、それでも懐かしいその姿から眼が離せなかった。
心から敬愛していたその命を故郷とともに奪ってしまったのは、他でもないこの己だのに。手ずから赤い蝋燭を選び予言した末に招いた滅亡だというのに。今もなお、その涯で暗澹たる喪失感を抱えながら命長らえている。
あの赫に飲まれた世界で、自身の手を取ってくれた妹への感謝は紛うことのないものだ。娘の力を受け継ぎ、今の己があることも識っている。
それでも、淡きひかりへと手を伸ばさずにはいられなかった。
このままともに月光へと沈んでしまいたいと、望まずにはいられなかった。
――死ぬことのできぬ身なれば、それもまた甘美な幻想に過ぎぬというのに。
掠れ毀れた声が、なにかを紡ぐ。
伝えたかったのか、縋りたかったのか、それさえも分からない。
吐息にまぎれ零れた声のままそっと眩い水面へと指を伸ばせば、咲きひらく花のような波紋のなかに|彼《か》のひとの懐かしい|面影《かお》が浮かぶ。
嘗てのように、己が名を呼ぶ声。
すべてが夜の静寂に消えたあとも、それだけは淡く細波に混じり、いつまでも耳奥に響いていた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴 成功