夜に揺蕩う
街の喧騒からすこしばかり離れれば、神社の境内に溢れる祭囃子が一層鮮やかに聞こえてくる。
暖色系の提灯のあかりが夜の輪郭を描き出し、愉しげな賑わいが祭を彩る。屋台からは甘いソースや香ばしい焼きトウモロコシの魅惑的な匂いが漂い、行き交う人々の脚を幾度も止めていた。
そんな喧噪のなか、イディット・ロンウェ(満ち充ち足りて午睡・h07273)は買ったばかりの瓶ラムネを片手に一度、鳥居の手前で立ち止まる。
「待ち合わせここらだけど、氷月いねぇ――……いや、いるわ、いる」
紫の眸が、群衆の向こうにひときわ目立つ銀色を捉えた。夜顔の花しなやかに咲く藍地の浴衣に合わせるのは、月白めいた上質の帯。団子サイドテールにまとめた髪を飾る月の簪が、祭の灯りを浴びて燦めきを添えている。
その男――雨夜・氷月(壊月・h00493)の容姿は、どうやら祭の場でも人を惹きつけずにはいられぬようだ。男女問わず声をかけられ、そのたびに軽やかに躱して艶やかに笑んでいる。その様子はまるで猫がじゃれるように、けれど眼の奥にはどこか気怠そうな影が滲んでいた。
(随分とたかられてっし。おもろいから、ちょっと見てよ)
イディットは口の端をゆるめ、少し離れた灯籠の陰に寄りながら瓶ラムネの栓を指で軽く弾いた。シュワシュワと炭酸の弾ける音が、祭囃子の拍子と重なる。
(俺の『目立たない』とか『正体を隠す』は、きっとこーゆー時のためにある、ハズ)
喉を通り過ぎる涼やかな気泡が、満足感をも膨らましてゆく。誰へともなく「うまー」と呟いた声も、人混みに吸い込まれていった。
――そのとき、氷月と視線が交わった。
雑多な景色のなかでも映える、露骨なほど整った微笑みを湛えて、氷月は見つけた大柄の男へと大仰に手を振ってみせる。
「待ってたよ!」
「あ、見つかっちまったわ」
無駄にキレーな笑顔が、怖ぁ――なんてぼやくイディットへと向かって、取り囲む輩を適当にあしらいながら氷月が素早く駆け寄った。黒のハイネックインナーの上から纏った、黒の縦縞の走る高麗納戸の浴衣越しにその影へと滑り込むと、月白から鈍色へ染む博多織の帯の脇からひょいと貌を出す。
「アンタデカいし隠れやすくて良いね。その調子でちょっと周り蹴散らして!」
「あーハイハイ……――いや蹴散らすってなんだ。もぉ俺を見た途端、ナンパ共はヤベッて貌でいなくなったが?」
「え、もう? ナンパ野郎弱すぎない?」
くつくつと喉を鳴らす氷月を一瞥しながら、イディットもラムネ瓶を逆さにして残りの泡を見送った。空になったそれを手近なゴミ箱へと放ると、ふたり肩を並べて歩き出す。
「でもま、俺のガラの悪さで快適にいけんなら、ヨシ」
「いやあ、海を割って歩いたヒトとやらはこんな気分だったのかな! 俺だけで歩くより圧倒的に楽で助かるー」
「祭り、人多いもんなァ」
「そうそう。気配消さなくていいのが最高」
「……いつも気配けしてんの?」
そう云っているそばから、次々に人々が氷月の|容《かんばせ》に脚を止めていく。貌の良さも考え物だと心中でドン引きしながらも、イディットがちらりと視線を動かすだけでそそくさと四散していく群衆たち。そのさりげなくも露骨な動きに、イディットはつい仄かな笑みを刻み、
「さすがイディット。なるべく離れないように歩こ」
氷月もまた、愉快な光景に満足げな微笑みを浮かべながら、傍らと歩調を揃えて参道を進む。
人混みを抜けた先は、ちょうど屋台通りの中心だった。
串焼きの煙が立ち上り、夜風に混じるたれの匂いが食欲を誘う。すぐ近くの遊戯屋台では、子供たちの笑み声が絶え間なく弾んでいる。
「そういやイディット。アンタってあんま食べない記憶あるけど、好きな食べ物とかある? なんか屋台飯で好きなものとか」
「俺はラムネ目当てで、きた。氷月は食いたいモンねぇの?」
「俺? 特にはないかなー。あんまり食には興味ないんだよね」
「食に興味ねぇふたりかよ、ウケる」
「というか俺、アンタがリンゴ飴とかわたあめとか可愛い系のやつ持ってるの見たい。写真撮らせて!」
「……その写真は、なにに使うって――」
問いかけるも、既に眼前に氷月の姿がなかった。身に染みついた動きをここぞとばかりに遺憾なく発揮し、手近な屋台で素早くリンゴ飴を買ってくると、イディットと肩を並べて寄り添った。赤く透けた飴玉を頬の横に掲げ、自撮りの容量で携帯端末のカメラを構える。
カシャ、と響く小気味よい音。早速画面を見てみれば、艶やかな赤を挟んで笑顔の自分と無表情ながらピースを掲げるイディットの姿に、氷月はたまらず吹き出した。
「んっふふ、俺めっちゃ笑顔なのにイディット無表情すぎ」
「ふは、差に笑うしか使いみちがねぇ写真だなァ」
ぐる、とご機嫌に喉を鳴らしながら、リンゴ飴を一口。バリッと音を立てた瞬間、イディットが貌を顰めた。舌に張りつく甘さに眉を寄せる。
「甘すぎ。パス」
「んは! 俺らの差もそうだけど、がっつり満喫してる感もウケる!」
受け取った氷月は楽しげに齧りながら、
「次は肉の串焼きで撮る?」
「……肉串と焼き鳥で口直しすっか」
飄々と次の|屋台《獲物》を探し始めるイディットへ、もうひとつ笑みを深めた。
✧ ✧ ✧
鉄板の上で、肉の焼ける音がじゅうと鳴った。
焼き方ひとつとっても、こだわりのある屋台なのだろう。炭火でじっくりと鶏を炙っていく様を見守ること数分。漸く手にした焼き鳥のパックを、先に買っておいた肉串の隣に並べる。
「んは! 肉でかわいこぶってそれっぽくなるかな? やってみよ!」
「これも写真とってからだけど。ほれ、肉食系でかわいこぶりなァ氷月」
「んじゃ指ハート作って――」
パシャ、パシャパシャ。
笑いながら串を掲げてシャッターを切る氷月を見守ってから、同時に串へと手を伸ばすふたり。食んだ瞬間、じゅわりと口いっぱいに広がる肉汁。ほんのりついた焦げの風味は程よいアクセントで、益々食欲を掻き立てていく。
あっという間に串のみと化したパックを片手にぶらりと歩き出せば、すぐに“かき氷”の文字が見えてくる。
「ぁ、あっちーからカキ氷食お」
「お、いいじゃん。青いシロップにしなよ。染まるの見たーい!」
笑み声を弾ませながら、氷月が店先を指差した。特に断る理由もないな、とイディットも特に気にせず、注文した青シロップの掛かった氷を一匙、口へと運んだ。リンゴ飴ほどではない柔い甘さが、ひんやりとした氷と混ざってゆっくり薄く溶けて躰へと染みてゆく。
「あ、牙も染まるんだ? へー」
「ちょっとだけだけど、そうなんよな。色素の力……」
「いいねいいね、牙も出してべーってしてー! はーい、撮るよー」
カシャ、カシャシャシャシャ。
「あ、連射になった」
「なんでだ。――ぁ、氷月は赤シロップな。舌べーってしてみ?」
「いいけど……赤ってそんな変わんなくない?」
きょとりとひとつ瞬きながらも、氷月は云われるがままに注文を済ませた。すぐにできあがったそれを受け取ると、早速一口食べて舌を見せ――た、その瞬間。
キャアアアアアアア……!!!!
「え? なに??」
途端に周囲から湧き上がった黄色い歓声に、一瞬たじろぐ氷月。その対面で、スマートフォンを下ろしながら、
(……なら、キモく緑にしたほーがよかったか……)
イディットがひそりと、苦笑ともつかぬ息を零した。
✧ ✧ ✧
「あ、ヨーヨー釣りだ」
「ヨーヨー?」
隣の通りへと移ってすぐさま、氷月がちいさく声を上げた。イディットも倣って、同じほうへと視線を遣る。
「ほら、あそこ。俺やったことないんだよね。やらない? どっちがより釣れるか勝負しようよ」
「いーよ、俺もやったことねぇわ。なんか、ぽよぽよしてるやつだろ?」
そんな軽いやりとりを交わしながら、ふたりはぶらりとヨーヨー屋台へと脚を向けた。心地良い夜風が吹き抜け、紙灯籠の炎がふわりと揺れる。いつの間にか、どこかから聞こえてくる音色が祭太鼓のそれへと変わっていた。
ちょうど人が捌けた頃合いだったのだろう。一段落ついていた屋台の店主は、ふたりに気づくと笑顔で出迎えた。プールに浮かぶ、色とりどりの水風船をまじまじと眺めるイディットと氷月へ軽く遊び方を説明すると、受け取った小銭の分だけポイを渡す。
「そうだ。負けた方が奢りか、なんかひとつ簡単な言うことを聞くとかどう?」
「なら、あっちに型抜きやら射的もあることだし、何回戦か、やる?」
「お、何回も付き合ってくれんの? なら、そこらへんのゲーム系屋台全部荒ら――遊んで回ろうよ!」
「全部か」
――型抜きやったことないけど。氷月は指細いから有利そうだが。手ぇでかくてもいけっかな……。射的は……暗殺スキルでなんとかなるか。ぁ、あーゆーとこの銃って弾道おかしくなるんだっけ。まぁそれもおもろそー。運試し系は、なんか負けそうな気がする――
「イディット? ほら、行こ行こ」
「いや、そうだな。やるか」
にまりと上機嫌で笑いながら、くいくいと袖を引っ張る氷月へと頷くと、イディットは引かれるがままに歩き出す。
(もし負けたら、そこらのオモチャをてきとーに買ったろ)
そんなことを考えているとはつゆ知らず――その視線の圧を浴びた人々はまた、氷月に魅入りつつも泣く泣く距離を取り散り散りになっていく。
そうしてふたり、思いのほかすいすいと人波を進む。
ゆっくりと頭上を流れてゆく提灯の群れ。近づいては遠のく古風な祭囃子のなか、道場破りよろしく次々と遊戯屋台を見つけては、イディットと氷月は種目を制覇していった。
輪投げのカラフルな輪が宙を描き、金魚すくいの水が飛沫を上げて夜に燦めく。型抜き、射的と、絶え間なく歓声と笑み声を響かせた結果は――3勝2敗で氷月が勝者となった。
「最後の射的……氷月のは弾丸っていうより、アレ爆弾だろ」
「なーんか思った以上に弾けたね!」
「で? 奢る?」
「ウーン……とはいえ、もう一通り屋台も見ちゃったしね。ここまでの金額――は、俺も覚えてないし」
云って、氷月は軽く思案を巡らせ始めたそのとき、祭の終わりを告げるかのように太鼓の音が一際高く響いた。頬を撫ぜながら渡っていく柔らかな夜気に背を押され、人々も自ずと帰路へ爪先を向け始める。
時刻を見れば、22時過ぎ。もうこんな時間かと零した氷月が、ぐいと伸びをして夜空を仰いだ。
「あー楽しかった! ――あ、そーだ!」
ぽんと手を打ち、くるりと振り返って。
祭のあかりの名残を映した双眸を、子供のように燦めかせる。
「イディットー、勝者からの|注文《オーダー》ー!」
「決まった? なに?」
「色々遊んだら疲れたー。背負ってってー」
「ハイハイ。疲れたんなら、勝手に背中にしがみついとけ」
首はしめんなよ、と添えた声に、軽く息の抜けたような笑みが混じる。ぐでりと背に預けられた重みをひょいと抱えながら、イディットは緩りと脚を踏み出した。
涼しい風が髪を撫で、祭りの音が次第に薄れていく。
それぞれの帰路を辿り始めた人々の語らいのなか、遠くで名残の花火がひとつ、今宵の夜空を華やかに彩っていた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功