緋幽楼 ~虚夜浩々~
|間隙《かんげき》が覗いている。
閉めたはずの扉の隙間から、夜の翳りに喰らわれ塗りこめられた昏い闇が細く、長く伸びていた。
四季宮・昴生がそれに気が付いたのは、同僚がブラインドに手を伸ばした瞬間だ。窓外に広がる陰鬱な√汎神解剖機関の夜を遮断する瞬間、窓ガラスに映り込んだ扉が細く開いているのを見た。反射で振り返ったのは直感、あるいは培った経験だろうか。眼光鋭い金の視線が扉へ走る。
「よ、相棒♪」
しかし昴生の視界に映ったものは不自然に開かれた扉ではなかった。
「仕事は終わったかー? もう定時はとっくに過ぎてるぞー」
目と鼻の先。
睫毛の長さが分かるくらいの距離に姿を現した柳・依月の飄々とした顔を認めて、昴生は寸の間、息を呑み、それからすぐ眉間に深い皺を刻む。
「|警視庁異能捜査官《カミガリ》が定時で帰れるなら|汎神解剖機関《ここ》はとっくに平和だろうな」
「人の口に戸は立てられない。それでも|俺《・》は存在したと思うけど」
――よく回る口だ。
眉間を摘まみ深く溜め息を吐いた昴生は、手の隙間からじろりと依月を射抜く。
「ところで、足音を消して俺の背後に立つな」
「うん?」
依月はきょとんとして、数回瞬きを繰り返す。その表情はしらを切っているというより、覚えのないことを指摘された風であった。
「足音、立ててましたよ」
口を開いた昴生が何がしかを口にするより早く、デスクに戻って来た同僚が横から言った。
は、と小さく息が漏れる。
「|特殊捜査四課《ここ》であんなに軽快な足音を立てるのは彼くらいでしょう」
「そうそう。スキップしてんじゃねぇのってくらい分かりやすいし」
笑いを含んだ別の同僚の言葉に返す言葉もなく開いた口が徐々に閉じていく。
依月越しに見える扉は、閉まっていた。
「なぁなぁ、彼岸花がキレイなところがあるらしいぜ!」
思案させる間もなく依月はそんなことを言った。|特殊捜査四課《ここ》にやってきたのはそれが目的らしい。
「行こうぜ~!」
「は? 一人で行けばいいだろうが」
「そんな冷たいこと言わずにさぁ」
「な? な?」と、じゃれつくような姿が鬱陶しい。キッ、と強い眼差しで睨みつけるも、依月が躊躇う様子は微塵もない。まるで自分のお願いは全部聞いてもらえると思っている顔だ。
「たまにはいいんじゃね? お前ほっといたら仕事しかしないし」
ちらと見上げた時計は二十時を過ぎようとしている頃合いだった。同僚が昴生のデスクから捜査資料を取り上げるとぱらぱらと捲っていき「うん」「別に今夜やんなくてもいいだろ」そのまま返すことなく、肩を軽く押し出す。
「お疲れさん。息抜きすんのも自己管理のひとつだろ」
「いいねー彼岸花。あれってすぐ散るから見るなら今の内じゃない?」
同僚たちはすっかり依月の味方だ。
――こいつは怪異だぞ。
怪異の肩を持つなと吐き捨てたくなる言葉を飲み込んで額に手を添える。なんだか頭痛がする――気がする。
「監視のためだ」
どうせ抵抗しても意味はないのだと知っているからこそ、昴生は舌打ちして決まり文句と化し始めている台詞を口にしながら立ち上がった。
廊下に出ると静謐な夜気とは違う冷たい気配がリノリウムの床を這い寄って薄ら寒かった。秋がすぐそこまで来ているというよりは、あちらこちらに在る存在がそうさせているように思う。
袂を振りながら数歩前を歩く|怪異《ネットロア》の背中から、今しがた出たばかりの詰所を尻目に見る。
扉はぴたりと閉じていた。
〇
ゆらゆらと虚ろな光が境界を掻き分けてゆく。
依月が手にした虚映ノ燈籠が、細く湾曲した遊歩道を歩むふたりを導き示すも、それすら頼りなく思えるほどに辺りは昏かった。浮世はすでにとっぷりと暮れた夜半、足元に点在する灯籠は彼岸花を蠱惑的に浮かび上がらせて、妖しさの色を描き出す。血を吸い上げて染まったような赤は真夜中に見るものではない気もするが、それを口にしたところでからかいが飛んでくるだけ。
雲衝く九重の塔を目指しているのかと思えば「こっち~」依月は脇道に逸れた。木々の隙間から漏れるような灯りがちらついていて、それが茶屋だと分かるなり拍子抜けする。
「四季宮さんは静かな方がいいでしょ」
依月は首だけで振り返り、揺らめく虚ろな光を照り返す青い瞳をにんまり細くして笑った。
フン、と鼻であしらうと、くつくつ笑う依月はそのまま茶屋を覗き込み、店員に手短に注文したあと外の床几台に腰掛けた。足元に置いた虚映ノ燈籠がすぐそこにまで迫る彼岸花を炯々と照らしている。木々の間隙から何かが覗いても分からないような闇だった。
「こんな場所よく知っていたな」
「それ、俺に言う~?」
オカルト系配信者として活動している依月の元には様々な情報が巡ってくる。例えば各所の都市伝説であったり、季節にちなんだ怖い話であったり、観光名所の曰くであったり。
「ま、千本近い彼岸花なんて早々見られるもんじゃないし。|緋幽楼《ここ》のは山に埋めた死体が見つかるのを恐れて彼岸花を植栽したとかなんとか」
「はた迷惑な話だ」
依月はにやっとした笑い顔のまま答えなかった。民間伝承とは所詮そんなものだ。
店員が運んできた茶は熱々で、餅はそれ以上に灼熱だった。焼きたてをそのまま持って来てくれたらしく、紙に包まれたそれは手に持てないくらいの熱さで、驚いた依月はうっかり皿の上に落っことしてしまう。
外の空気は冷たく、しばらく放っておけばよい温度に冷めるであろうに、どうしても熱々のまま食べたいのか依月はぱくりとかぶりつく。
「あちち」
案の定、外側の餅をかじるだけで精いっぱい、とろふわの餡子なんて舌に触れることすらできないまま。思わず含んだ茶もあちあちで、すらりとした身体が数センチ床几台から浮く。
「何をしているんだ」
呆れた昴生は茶屋に向かうとお冷を貰い、キンキンに冷えたグラスを依月に手渡した。依月はそれを両手で戴くように持ち、一気に呷る。
「はーっ。舌が溶けるかと思った」
「手で持って熱いと分かっていて何故食べる」
「こういうのは熱い内に食べるのが礼儀ってもんでしょ」
「胃に押し流そうとするのはいいのか」
依月は笑って誤魔化した。
「もう一杯貰ってくる。同じことを繰り返すなよ」
返事をするより早く立ち上がった昴生の背中に「はーい」と返事を投げかけた。細長い指先に伝わる熱さを感じながら、依月はピンと真っ直ぐに伸びた背筋を見つめ、餅をぱくり。
――世話焼きなんだよなぁ、意外にも。
エリート気質が根に染みついているのは確かだろう。やや神経質で面倒臭く、気難しいのもたぶん変わらない。変えられない。
――それでもあんた、あのときの敵意はずいぶんなくなったぜ。
それを指摘すれば激昂するであろうことは明白。
ゆえにわざわざ言葉になどしないが、依月は己の存在がその変化を齎したのだと思うと妙に嬉しかった。
夜気に撫でられ、さやさやと揺れる彼岸花へ視線を巡らせる。木々の奥に見え隠れした九重の塔も興味はあったが茶屋を選んで正解だったようだ。
――今度はどこに連れていこうか。
お冷と小さな氷菓を手にして戻ってくる相棒を見て、双眸がゆるり柔らかくなる。
相棒が昴生で良かった。
「おかえり~」
依月は手を振りながらしみじみ思った。
だから|アレ《・・》は、あとで始末しておこう。
――持ちつ持たれつってね。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功