シナリオ

結実

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 曰く薄紅の花弁は、全て同一の|胤《たね》より生まれたという。
 必要がないから実を結ばない。驟雨に似た花は散る他に意義を持たない。意志ある人間の手がなくば殖えることの叶わぬ桜の花は、無機質な培養土の中で目を開けた。
 花岡・泉純(よみがえり・h00383)は幸福な娘である。
 少なくとも、己に在るべき両親のないことも、培養カプセルの中で育てられていたことも、気にしたことはない。『花園』の名に相違ない花々の咲き乱れる小さな箱庭の中、誰一人として固く鎖された門に近付かぬよう言い聞かせられても、疑ったこともなかった。
 ただ――。
 外に出れば、両親なる存在を一目見ることくらいは出来るのではないかと、白亜の壁の裡から空想を巡らせることはある。
 狭い箱庭の中にある鎖された幸福に、しかし大きな穴が空いていることを自覚したのがいつだったのか、泉純は正確には覚えていない。切欠は唐突の天啓めいた衝動であったが、それが蓄積した感情の爆発に近い目覚めであったことも、『花園』で最も無垢なる魂は理解していた。
 その瞬間のことは鮮明に思い出せる。生まれたときから傍らに寄り添う死の影に、いつものように手を伸ばしたときだった。旧い友人のように思う心の中に生まれる奇妙な衝動は、常であれば僅かに影が触れるばかりで満足していたはずだ。しかし此度触れた指先は明確に新しい想いを心に植え付けた。
 抱き締めて欲しい――。
 桜真珠の双眸を見開いたまま、泉純は初めて掴んだ感情に当惑していた。その間にも影は融けるように空に消えていく。
「待って――」
 伸ばした手が空を切ったときから、心に開いた|寂しさ《・・・》の空疎は消えない。
 締め付けるような痛みは次第に遠のいた。今となっては鮮烈さも失い、代わりに漫然と胸郭に満ちる得体の知れぬ寂寥が残るばかりだ。大切な友人たちと声を交わしているときには殆ど感じないそれが、一人になるたびにふと込み上げるから、花耶も瑠芽も傍にいないときには茫洋と思いを馳せている。
 両親とは子を愛するものであるそうだ。
 よくは知らない。泉純に両親の存在はないからだ。外出を禁じられることを当たり前に受け入れて来た彼女には、禁忌を破ってまでも手掛かりもない二人の男女を探して|彷徨《ほうこう》しようとは考えもつかなかった。
 しかし、抱き締めてくれるのだろうか――と思うことはある。
 それはあのときに思った熱情じみた感覚と似ているものなのだろうか。それとも、泉純自身の満ち足りた心と関係なく胸裡を締め付ける空疎は、朧げな記憶の訴える通りにただ一人に向けられているのだろうか。
 愛し合ったような気がする。離れがたいような気もする。泉純自身にすら底知れぬほどの深く分かちがたい結びつきが、魂の底に絡んでいるような気もする。そしてそれは、『花園』の友人たちに抱くような穏やかで優しい感情ではない――。
 考えたところで答えが出るわけではなかった。結局のところ、彼女の思考はいつも同じ場所に帰着する。
 |そういうもの《・・・・・・》だ。
 胸に薄らと掛かる虚ろな寂しさの靄も一人でなければ払拭出来る。望む限り穏やかな地平は今日も爛漫な花に満ちている。曰く|旅立った《・・・・》子供たちへの餞けであるという色とりどりの花弁は、降り注ぐ陽光を反射して希望に満ちて揺れていた。
 幸福だ。
 大切な友人がいる。幼い頃から身に馴染んだ影は日頃は見得ぬが、守るように泉純の傍に在ることを感じ取っている。時折物思いに耽る程度の痛みは不幸とすらいえない。いつか来る|旅立ち《・・・》の日、彼女がどこに誘われるのかは分からぬが、少なくともそのときには胸を張って笑えるだろう。
 『花園』を愛している――と。
 無数の花々に囲まれた白亜の学園の裡、一本だけ咲いた桜から花弁が舞い降りた。まるで泉純の指先に戯れるように揺れる薄紅へ手を伸ばしかけた彼女を、ふと呼ぶ声がする。
「泉純、お待たせしました」
 花耶だった。今にも花弁に触れようとしていた手を迷いなく引いて、彼女は自身の名を呼んだ友人に応じるように身を翻した。

 ◆

 終わりを約束された箱庭の中で、愛した人がいた。
 燃えるような情動を知ったのは初めてだった。見たことのないはずの|雷《・》に身を撃たれたような衝撃ののちには、燃えるような恋だけが残った。
 黒く嫋やかな髪を湛えた娘――ヨミと名を受けた少女は、鳥籠のような『花園』にいっとう美しく咲く一輪の|魂《はな》だった。教鞭を執る「先生」から殊によく気に掛けられて育った彼女は、桜色の双眸に無垢を映して生きていた。
 誰しもにとって、その慕情は予期せぬものであった。やがて通じ合った心の儘に、二人は残り少ない時間を重ねた。ほんの優しい逢瀬が、次第に重く昏い想いを孕むものに変わっていったのは、ひとえに『花園』が宿した暗渠のせいであっただろう。
 ――『花園』には子供|しか《・・》いない。
 未だ首も据わらぬ赤子から学生まで、年齢層は幅広い。しかし十六を過ぎる者は滅多におらず、十八になる前には皆姿を消す。ほんの僅かの大人は「先生」と呼ばれる。学園を模した白亜の壁の中で、子供たちに知識を教導する殆ど唯一の存在だ。
 固く鎖された箱庭の中で、やがて大人になっていく子供たちは安穏と育つ。やがて訪れる|旅立ち《・・・》の日に一人減る子供の代わりに花が一輪増える。鮮やかに彩られた花畑は彼ら彼女らがここに存在した証だ。根差した一輪に至るまでもが誰かの足跡である。
 しかし。
 間隙なく植え付けられた花々が大いなる墓標であることを、誰しもが暗黙の裡に知っている。
 子供らは見得ぬ気配に鋭敏だ。学園の「先生」が何のために彼らを育て上げているのかが知れるのは、いかに巧妙に隠したところで水面下に知れることになる。作り上げられた箱庭の存在意義を表立って口にする者こそいなかったが、心の奥には澱が重なった。
 無菌の楽園に生きる子供たちは大人にはなれない。
 そうなる前に――「先生」に喰らわれるのだ。
 恋人たちもまた、穢れ一つない美しき壁の奥にある秘密を知っていた。互いの存在を手繰るように心を寄せ、満たされた期限付きの幸福を噛み締めていた二人の間には、いつからか在るべき境界すらなくなっていく。
 殊にヨミは強く願った。握った手が融け合うことを、向けられる表情の全てが己の手中にあることを、これから彼が得る全ての情動が己の存在に紐ついていることを、死の刹那すらもこの手にあることを――。
 否。
 ――彼の死そのものさえも、彼女は己がものにしてしまいたかった。
 穢れなき魂は初めて得た強すぎる情動に振り回されていたのだ。熱に浮かされれば浮かされるほどに時間切れが恐ろしくなる。健全な恋愛感情というには行き過ぎた想いが結んだ小指に赤く絡み付く。永遠に時を止めておきたいと願っても、それが叶うことがないのは誰もが知っている。やがて迫り来るその日を意識するたびに、ヨミの心にはひどく甘美な誘惑が忍び寄った。
 |したい《・・・》と願うなら、|してしまえば良い《・・・・・・・・》。
 肥大化した欲求が心の底を撫でていく。風の音にも、揺れる花弁の擦れる音にも、ヨミは死者の声なき|誘《いざな》いを聞いた。二人で手を取って逃げ出すことなど到底叶うはずもない、鎖された箱庭の楽園の中で、彼の全てを彼女のものにしておく唯一の方法だ。
 喰らわれてしまう前に。
 「先生」に奪われてしまう前に。
 ――この手で。
 途方もなく恐ろしいはずのそれを真実の意味で拒めなくなった日に、彼女はとうとう紅色を浴びることに決めた。
「ずっと一緒にいて」
 切々と囁いた約束が恋人の胸を穿つ。騒ぎを聞きつけた「先生」が現場へと駆け付けたときには、赤く鉄錆の色に染まった花畑の中で、純白の衣装を同じ色に染めたヨミが一人微笑んでいた。
 足許の少年は、既に息絶えていた。
 少年が死んだことは周知の事実となったが、誰もそれに触れることはなかった。そうしたい想いを心のどこかに理解してしまったのである。少年は|旅立った《・・・・》こととされたが、彼の花が花畑に増えることはなかった。
 代わりに――。
 自身もまた|旅立つ《・・・》その日の朝に、ヨミは自らが彼を殺めた場所に一本の苗木を植えた。
 彼の骸の上に咲き誇る桜の花は、長きのうちに伝承を失った。今はただ、物言わぬ薄紅の花弁が、一つ歳を重ねる子供たちの上に降り注ぐばかりである。

 ◆

 |無垢なる魂《・・・・・》とは言葉にするほど易々と手に入るものではない。
 生まれたときの魂を宿したまま、歪みも穢れも浴びずに育てば、大人であっても手にすることは叶うだろう。しかしそれがどれほど難しいことであるのかは口にするまでもない。
 裏を返せば子供であっても子供であるからという理由で美しいわけではないのだ。たとえほんの十数年であっても、生まれ宿した心のままに生きることは難しい。育つうちに得た自我は魂に色を差し、時に自ずから歪みさえする。
 しかし――誰が未だ熟していない青い実をもぎ取って喰らいたいと願うか。
 花々のつける果実と同じだ。魂にも適切な収穫時期がある。生まれたときに宿したそれの鮮度を失わず、みずみずしい子供の無垢さを保ちながら、やがて大人に熟しきる直前の最も赤々と輝くときが来るのだ。
 『花園』と名付けられた子供たちの楽園は、その日が来るまで彼らの無垢なる美しさを保つために存在する。
 外の世界を遮断するのは無遠慮な外部の人間の手垢をつけぬためだ。外で生きていくことなど知らなくて構わない子供たちに必要な知識はごく少ない。魂の鮮度と純度を損ねぬ柔らかく甘い水と肥料を与え、不自由のない生活で柔く包んでおく。明るい日差しと絢爛な花畑の中で、悪意も害意も知らず無邪気に育った彼らを、やがて収穫するときまで。
 そうして喰らい続けた魂の中には幾つもの味わいがあった。養殖場とでも称すべき『花園』の中で画一化した管理を行っても、一つとして同じ味にはならぬとは奇妙なものである。それはそれで楽しめぬわけではないが、より純度の高い代物を求めるのもまた業といえようか。
 嘗て一度、目を付けた娘がいた。墨染の天使とでも呼ぶべき彼女は、自らの垢で汚れることさえも知らなかったことをよく覚えている。しかし収穫も目前と迫った日に、彼女は芽吹いた情動に呑み込まれて、取り返しのつかぬ穢れを背負った。箱庭でいっとう絢爛に咲き誇るはずだった娘は熟す前に実を落としたのだ。
 輝く魂が凋落したときの口惜しさは筆舌に尽くし難い。思い出せば今でもあのときの苦みが鮮明に走る。あれほどまでに純度の高い魂を逃した事実は、ただ時運のせいにして諦めるにはあまりにも重い。収穫が目前に迫っていたのだからひとしおである。
 何とかしてあれを口にしたいと思った。穢れてしまった鉄錆の味ではなく、あのヨミという娘の本当の魂を――考えた果てに、やがてひどく単純で、しかしこれ以上ないほどの妙案に至った。
 簡単だ。
 この箱庭で最も美しき魂を、|継木《・・》すれば良い。
 |原木《オリジナル》は失敗した。駆け付けたときには血に塗れた手で笑っていた。真実最も無垢であるはずの魂は、恋に穢れてとうとう赤く腐り落ちてしまった。しかし|継木《クローン》であるからといって全く同じように育つとは限るまい。何より、あのとき恋の味を教えてしまった少年は、今や桜の木の下で永遠の眠りに身を委ねているのだ。
 あの美しくみずみずしい実が育ち切る前に腐り落ちたのは環境の問題だ。彼女が自ら壊れ果てたのではない。ならば。
 やりようはある。失敗要因を排除していけば良い。
 やり直すのだ。真実の無垢を宿した魂はひどく脆弱である。徹底して管理する必要があるだろう。
 幼いうちは安らかな培養土の揺り籠の中で育て、外の誰にも決して触れ得ぬようにして、心を汚す何もかもから遠ざける。ある程度まで育ってからは他の子供たちに混ぜれば良い。だが、与える情報はやはりコントロールしておかねばなるまい。
 |旅立ち《・・・》の真実なぞ知らずとも良い。求める平穏の全てを与え、飽和した幸福の中に身を置かせ、『花園』の他に何も求めぬように仕向ける。安寧を壊したいと思わぬように――たとえこの無菌の箱庭の真実を知っても、破滅願望の湧き出ぬように。
 些か手は掛かる。幾つの継木を使えば良いかも分からぬ。しかしそうする価値はあるだろう。
 花は手入れを欠かさぬ方が美しく咲く。美食もまた、丹精を込めただけ甘くなるものだ。
 ――やがて培養カプセルの中に生まれた娘は、墨染の天使とは真逆の容姿をしていた。
 薄墨に染まっていく白亜の髪。足には花筏の鱗を纏う。揺蕩う鰭はレースの薄紗だ。しかし桜真珠の色をした眸には、確かに原木の名残があった。
 何より。
 魂の輝きはヨミという名だった娘と遜色ない。寧ろその無垢性ゆえか、自然と誰しもに守られるように育った泉純の方が高い純度を保っているように思えた。
 一度目で成功するとは思っても見なかった。これほど手を掛けたのだから愛着も湧こうというものだ。望外の収穫が再び熟れるのを待ち、今度こそ柔らかな果実に牙を立てることを夢見ていた。
 十全な管理を行っていたにも拘わらず、彼女が唐突に姿を消し、再びどこからともなく現れるときまでは。
 ――奇しくも母体が|旅立った《・・・・》のと同じ十五の歳の同じ日に、彼女が『花園』を永久に去るまでは。

 ◆

 どうして抱えて来てしまったのだろうと思ったのは、当座の宿を見付けたときだったことを、ふと思い出した。
 泉純が外の生活に慣れて久しい。彼女にとって分からぬことばかりの世界に、彼女の傍にいて欲しかった友人はいないが、それなりに順応するのに思ったほどの時間は掛からなかった。
 十五のときに覚醒した√能力というものは、どうやら彼女を包み込んでいた楽園に大きな罅を入れるものだったらしい。どことも知れぬ場所に急に迷い込み、どこをどう彷徨ったか分からぬまま戻って来たときには、『花園』中が大騒ぎになっていた。
 殊に「先生」の動揺は凄まじかった。感情の読めぬ仮面のような表情があれほど歪んだのを見たのは、後にも先にもあのときだけだ。何か沢山のことを訊かれた気もするし、沢山のことを言われた気もするが、混乱していた泉純はよく覚えていない。
 ただ――。
 特別な部屋だと言われて通されたドアの内側に、ドアノブがなかったことだけは、確かに覚えている。
 ここから出てはいけないと言われた。三食は「先生」が運んで来るとも。彼女はいつもそうするように|抵抗なく《・・・・》頷いて、手持無沙汰に部屋の中を見渡していた。
 そのときに――今、彼女の手許にあるサブマシンガンを見付けたのだ。
 泉純自身にはそれが何なのかさえよく分からなかった。銃は平穏な『花園』から最も遠くあるものだったからだ。しかし知識はあれど触れたこともないはずの、白いレースに彩られた黒く冷たい金属から目が離せなくなった。
 瑠芽が助けに来たとき、本当は何も持って出るべきではないと言われた。眉を顰めた彼がいつものように些かぶっきらぼうな口調で置いて行くように告げたのだ。しかし何故だか手離したくなくて、泉純は首を横に振った。
 今になってみれば、殆ど初めての抵抗だったように思う。事実友人はひどく驚いたような顔をした。しかし後に奇妙な安堵の表情を浮かべて、言葉ばかりは渋々といった調子で頷いてくれた。
 ――分かった。でも、絶対落としたり、音を出したりするなよ。
 手引きしてくれた花耶も僅かに考えるようなそぶりを見せていた。しかしここまで持って来てしまったものは仕方がないからと、結局は首肯して送り出してくれたのだ。
 それからの生活で困ったことはあまりなかった。
 彼女は様々な場所を渡り歩いた。与えられた断片的な知識の他に何も持たない泉純には、恐ろしい表情を隠して近寄る大人も多かったが、彼女は不思議とそうした悪意を嗅ぎ分けられた。楽園の中には存在しないもの――何より「先生」の、仮面のような表情の下に隠された歪んだ感情とよく似たものを避けて通れば、人の優しさに触れて渡り歩くことは、存外に難しくなかった。
 少なくとも泉純はそう思っている。手を差し伸べて泊めてくれた人々のお陰で、彼女は寒い夜も恐ろしい獣の唸り声も知らぬまま、穏やかな生活を得ることが出来たのだ。
 それに。
 今はやりたいことも見付かった。
 いつだったか、泊めてくれた老夫婦が素敵な声だと褒めてくれた。弾けると告げたら孫娘が帰省の折に使うというピアノにまで触れさせてくれたのだ。何気ない弾き語りを褒め讃えてくれた彼らの言葉が嬉しかったこともあって、何とはなしにSNSのアカウントへ動画を投稿した。
 そのまま忘れてしまうほどの何でもない投稿が鳴りやまない通知に変わったのは、それから数十分後のことだった。
 絶賛ばかりが並ぶ反応の一つ一つに目を通した。次回の投稿を待ち望む気の早い声すらも上がっていたのを覚えている。最初のうちは面食らっていたが、そうまで求められるのならば、泉純にも否やがあるわけでもない。
 以来、ふとした折に歌を投稿するようになった。ロケーションも曲も様々だ。弾き語りのときもあるし、音源をカバーするときもある。動画の編集やアップロードは知れば知るほど複雑だ。しかし元々好きだった歌に関する知識を学ぶのは楽しいし、何より皆が喜んでくれるのが嬉しくてたまらない。
 繊細で甘やかな歌声は愛の曲を伸びやかに歌い上げる。書き込まれるコメントの中には彼女の歌を救いと称して、礼を述べてくれているものも多かった。今や天使とまで言われるようになった泉純には、数多の固定ファンがついている。
 録音のための機材の用意は終わった。きっと皆が楽しみにしてくれているだろう。己の歌が誰かの救いになるのならば、誰かの喜びの一つになるならば、一人でも多くの人に声を届けたい。まだ見ぬ苦難に項垂れる誰かの心に灯る一筋の光になれるのは、泉純にとっても幸福なことだ。
「今日は何を歌おうかな。何が良いと思う?」
 問い掛けは室内に融ける。しかし彼女には慣れ親しんだ気配が伝わっていた。
 常に彼女の傍にいる死の影は、『花園』から抜け出した後も絶えず付き添うように伴に在る。人が見れば死神と呼ぶのであろうそれに泉純が向ける声は、どこか甘い色すら帯びている。
 やはり、いつか触れ合ったような気がする。頭を預け合い、優しい光の中で穏やかな時間を過ごしたような気がする。それから。
 泉純が知らないはずの記憶には、彼女も知っている懐かしい景色が有るような気がする。
 外に出てから得た感覚だった。ちょうど、真実を知った箱庭の楽園を思い出すとき、胸に過ぎるのと似たような痛みが走る。しかし斯様な揺らぎを感ずるような覚えは、彼女には存在しない。
 疑問がないわけではない。だが外に抜け出した泉純の前には広すぎる世界が横たわっている。今はまだ、それを見詰めているだけで手いっぱいだった。
 未だ分からぬことの多い世界は、しかし『花園』の中で「先生」が語ったような恐ろしいばかりのものではないようだ。新しい友人たちは焦がれる二人の代わりにはならないが、裏を返せば別離した二人の友人が広い世界に結ばれた縁の代替にもならない。
 手を離さざるを得なかった悲しみは未だ蟠っても、煌めく希望は確かに泉純の眸に映っていた。ちょうど、目の前の画面に躍るコメントが、彼女の歌声に幸福をもらっていることを生き生きと述べるように。
「ええと――これにしようかな」
 ヘッドフォンを耳に当てる。指先を滑らかな表面に滑らせて、彼女は今日歌うことに決めた愛の歌を再生した。
 ――心に掛かった薄靄の正体が何であるか、彼女は未だ知らない。
 歌う声をより良く届けようとする理由の一端も、時折心を擽る誰かの記憶の断片も。己の体の中に眠る、見知らぬ黒い豊かな髪の温度に出会うまで――今はまだ。

 ◆

 終わりを約束された箱庭の中で、愛した人がいた。
 無垢なる少女を救いたいと願った。しかし少年もまた、『花園』の外を知る者からすれば、あまりに無垢すぎた。閉鎖された無菌の楽園の中で、限りある命に迫る死神の足音に耳を塞ぐ日々は、恋人たちの間に歪な関係を横たえた。
 手を引いて走るとき、彼女には己がいなくてはならないと強く思った。未来永劫、彼女に必要とされていたいとも思った。
 どうあれ少年の方が先に熟すことは決まっていたのかもしれない。どちらもそれを理解していたようにも思う。ともすればそれは彼の錯覚に過ぎず、根拠のない空想を思い込んで|そうだ《・・・》と決めつけていただけだったのかも分からない。しかし|旅立ち《・・・》の真実の意味を知っている子供たちにとっては、そうした根拠なき思考は抗えぬ現実と何ら変わらぬものでもあった。
 ともあれ――。
 少年は己が先に|旅立つ《・・・》ことになると知っていた。いつ訪れるとも分からぬ未来を思うたび、彼女が悲しげな表情にどこか薄昏い感情を刷くのも分かっていた。
 その頃には、恋人たちの間には殆ど何一つ垣根はなくなっていた。二人にとって互いを隔てるものは皮膚一枚しかなかったのだ。彼は彼女なくして生きては行けず、それは彼女にとっても同じだった。無垢だった魂は結ばれた赤い糸に絡まり、きつく縛り上げられて、壊死したところから癒着するようにして不可分になった。
 離れたくないと、少年は強く願った。
 置いて行きたくなかった。彼女はきっと彼なしでは生きていけない。しかし彼には彼女を手にかけることは出来ない。自分もまた、置いて行かれる覚悟など出来てはいなかったからだ。
 だから。
「ずっと一緒にいて」
 ――胸を穿った彼女の言葉に、激痛と共に巡ったのは確かな歓喜だった。
 明滅する視界に痛みの熱が拍動する。傷口だけがひどく熱いのに、恐ろしいほど急速に寒気が込み上げて来た。徐々に鎖されていくぼやけた視覚と弱まっていく脈拍の中で、彼は何より返答が出来ないことを口惜しく思った。
 頷くだけのことが出来ない。こうまでもあっさりと人は死ぬのだ。しかしこれで、彼は|旅立つ《・・・》必要がなくなった。最期までも彼女の傍にいて、願いを聞き届けることが出来たのだ。
 愛しい彼女との約束を叶えよう。たとえ全てが変容していくのだとしても。彼女もまた|旅立ち《・・・》を逃れ得ず、同じ場所に来ることになるのだとしても。
 或いは。
 ――新たな輪廻を得るのだとしても。
 少年は彼女の傍にいると決めた。肉体を失い、生前の記憶すら朧になっていく中でも、彼は唯一の誓いを決して忘れなかった。
 ずっと一緒にいる。傍にいる限り守り抜く。
 泉純が外に出てからというもの、彼女を食い物にしようとする大人は絶えなかった。そのどれもが|死神の鎌《・・・・》によって人知れず命を落とし、また人知れず彼女に近寄ることすら出来ぬ身となった。幸いにして泉純は安穏とした生を得ることが出来たし、伴に行く道も随分と歩きやすくなった。
 死神は絶えず桜色の半人魚の傍に在る。
 彼女さえ知らない嘗ての約束を、嘗て守れなかったものを、守るために。

 ◆

 実を結ばぬ桜が咲いている。誰かの手を借りなければ殖えることもなかった薄墨桜の煌めきは、みずみずしい色で陽光に照らされている。
 短い盛りを謳歌する|花《いのち》の楽園から放たれて、継木はやがて結ぶはずのない実を膨らませ始めるだろう。それが如何なる色をしているのかは、誰も知らない。
 己が足許に眠っているものが何なのか――己が花を美しく咲かせるのが何であるのかを知らぬまま、爛漫と揺れる鮮やかな薄紅の花弁が一枚、風に吹かれて空の彼方へと消えていった。
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