七つが齎す甘い|GIFT《毒》
駅から出て徒歩数分。駅チカと言えば華やかな空気を想像するかもしれないが、それは駅のタイプにもよるだろう。都心の駅であれば人がごった返してどんな時間でも人の気配を感じるが、少し外れた所であれば人通りもまばらになるというものだ。
そんな少し寂れた街にお似合いで、だからこそ選ばれた純喫茶の鐘が鳴った。扉に添えられた控えめなベルは新たな来客を店主に告げる。
客の話し声もろくに聞こえない座席を抜けて、七・ザネリ(夜探し・h01301)は当然のように先客の対面に腰かけた。ガラガラの店内であえてその場所を選ぶのは、大抵知人と決まっている。手のひらの上で小さく丸く、何より古いポケベルを転がしていた女が顔を上げた。
「どうでもいい内容を、わざわざ数字で隠すな」
「チョコバナナサンデーとクリームソーダ」
全く話を聞かない男へ向けてぶつくさと文句を続けたルイ・ミサ(半魔・h02050)は年代物のポケベルを横へと退けた。誕生日にこの男から貰ってからというものの、日常に謎解きが入り込んできた。かつての猛者であれば数字の羅列を見ただけで用件が分かったのかもしれないが、もうすでに廃れた文化だ。ルイミサにとっては苦難の日々の訪れに違いなかった。当然、ザネリもそれを理解している。理解したうえで、やっている。彼はそういう男だ。
先に注文されていた品と合わせて店主が用意する間、二人の間に言葉はなかった。それを苦に思う間柄でもないし、何か話さなければと気を遣うような仲でもない。カウンターの奥から聞こえるお湯の注ぐ音と、店内を穏やかに流れる誰かのジャズ音楽が間を繋いだ。
クリームソーダと紅茶が運ばれて来たところで、ルイミサはスマホを差し出す。勿論、手間をかける分チップを添えて。少しの間固まったウェイターは一度店主の方へと視線をやり、恭しくルイミサのスマホを受け取った。
「私がキミの館に頻繁に宿泊しているから、組織の監視役が妙な詮索をしてきた」
「へえ」
「何だと思う?──『恋人か?』だって」
乾いた笑い声と共に軽く肩を竦めたルイミサは紅茶のソーサーを指でなぞる。恋する乙女のように目を輝かせるでもなく、言外に呆れをたっぷり含めた表情だった。
対して男は後から届いたチョコバナナサンデーを自分の方へとしっかり寄せて、パフェ用の長いスプーンを手にした所だ。一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような間が出来たが、次の瞬間にはそれも幻のように消えていた。口角がつり上がり、悪戯小僧と同じ顔をしている。
「なるほど、恋人役にご指名頂けるとは恐れ多い。……通常業務の他、週五日の雑用を条件として検討しよう」
「週五の雑用を条件に出しておいて、恐れ多いってなんだ!? しかも検討って……」
ルイミサの言葉が途切れる。そのまま喋っていれば口に突っ込まれていただろう距離に生クリームの乗った銀の匙の先端があった。ザネリが差し出したのはチョコバナナサンデーの中でも特に天辺の絞り切りの形を残した生クリームで、当然格別の価値がある。きめ細やかな生クリームにルイミサは思わず口を開けたい衝動に駆られたが、その奥のザネリの顔を見て辛うじて顔を逸らした。
振られたスプーンは持ち主の元へと戻り、当然、上に載っていた生クリームもザネリの口にしっかり収まる。チョコレートの甘さを緩和するためか、程よい甘さに仕立て上げられたクリームがじわりと口内の熱に溶かされた。
「私のような美人を目の前によくそんな事が言えるなぁ」
「自信がある女は嫌いじゃねぇが、従業員に手を出す奴がいるか?」
空になったスプーンを持ったまま、ザネリはすごく真剣な顔をした。
「労基が動く」
ルイミサの片眉が少し跳ねた。
丁度曲の切り替わりで降りた沈黙の間も、再開と同時に崩される。何より、クリームソーダの上に浮いたアイスはこの間にも一回り二回りとその形を小さくしているし、チョコバナナサンデーも冷気を奪われてじわじわしゃんとした姿を溶かしていた。ザネリにはやることがまだまだあるのだ。
サンデーのグラスにスプーンを当て、載せきれないバナナの一片を器用に載せて口へと運ぶ。そんなザネリの所作を眺めながら、ルイミサは脚を組み、少し背を曲げて対面の男へ顔を近づける。これで声を抑えても聞こえる筈だ。
「まあ、彼らは私の色恋になど興味はない。キミが逃亡の片棒を担ぐのではないか──知りたいことは恐らくそれだろう」
冷めないうちに紅茶に口をつけたルイミサは、自然な所作で窓の外へと視線を向ける。姿こそ見えないが、今もどこかから監視しているのだろう。あるいは、もうすでに店の一員として紛れ込んでいてもおかしくはない。そう思わせるほど、常に、監視の目は存在した。
全く気にせずサンデー崩しを進めていたザネリがクリームソーダへと手を伸ばす。位置的にサンデーの左にあるそれへと顔を向けたついでに、ザネリは肌に感じた違和感に従って視線をずらした。誰かがそこにいるわけではないが、確実に何かがそこにある。そんな、奇妙な違和感だ。
妙な居心地の悪さが不快だが、そんなことを言っている間に宝の山は崩れていくので今は放置することとする。溶けるとただの甘い液体になってしまうのがサンデーの難点だ。
「まあ……面倒なら、甘い蜜月の邪魔をするなとでも言っとけ」
ぷかぷか浮かぶアイスクリームを緑の海に沈めたり戻したりしながらザネリはルイミサの方を見た。すっかり監視へと向けた目は紅茶の湖面を眺めており、平常の女に見える。
仏頂面になり切らないルイミサはザネリを見て、何とも言えないような顔をした。返答に困っているともいう。あるいは、この間で未来の計算をしているか。共犯者である以上、変な気遣いは無用であり、有用に使えと言うのならそうするのが礼儀というものだろう。
「……そう言っておく」
ティーカップを再び傾けたルイミサは、未だ降り注がれる監視の目を感じながら小さく息を吐いた。
「私が逃げたところで、大した損失もないはずなのに。だから最近思うようになったんだ。彼らは何を恐れているんだ?って」
目の前の男は無言に徹している。文字通り、生クリームの山を倒すのに忙しいだけではあるが。
ルイミサが光に透かせるように手のひらを掲げた。この手には未だ何の力も宿らない。組織内の他の誰より力が秀でている訳でもない。ただ、恐れるとしたら彼らが埋め込んだ神の力か、生まれ持った悪魔の血か。いずれにせよ、ここにいるのはただのニンゲンと同等のものだ。それ以上でも、以下でもない。
何か、トリガーが必要だ。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた火薬は発火の時を今か今かと待っている。悪魔の儀式なんかよりも、もっと強烈な火花を求めている。
「ザネリ君」
唯人の手でカップの持ち手に指を添えたルイミサがいつにも増して真剣な声で名を呼んだ。流石にザネリも標的に向けていた目を逸らす。
「悪魔の力って……どうすれば覚醒すると思う?」
「あ? 悪魔?」
急に飛び込んできた単語を脳内検索してみれば、もしかしてと引っ掛かる記憶が確かにある。確かに前、そのようなことを言っていたような気がした。
「お前の悪魔がどんな奴か知らねえが、」
「私の血の半分は悪魔だ」
「……あ? お前、元々そうなのか」
見るからに人間のルイミサの顔に、サネリはこれでもかと不躾に視線をぶつける。想像上に存在する悪魔とはどうもかけ離れた人物像がここにあるのだが、本人の真面目さの上に出た文言であるならば間違いないのだろう。この真面目ちゃんが。半魔。
そうと信じるには、あまりにも"人間"らしい。
ザネリの視線を浴びながら、見られるのはいつもの事なので全く微動だにせずにいたルイミサはザネリの反応を窺っていた。彼女にいま必要なのは協力者だ。そして、彼はそれに値する。混沌とした情報の中から拾い集めた試金石が確かなものであるかを見極めなければならないのだから、多くの視野が必要だ。
「お前の中で、眠っていると仮定するなら、」
突如持たされた情報のカードに揺さぶられる事無く、それを前提としてザネリは思考を回す。どうすれば求められた結果を出せるか考える事は、演者にとって当然のことだ。
「……心躍るような舞台を用意してやらねえとな」
真っ赤に染まったチェリーが白いぬかるみに埋もれているのを引っ張り出す。チョコバナナサンデーには必要なチョコレートソースで汚れたチェリーは、長く糖液に浸かっていただけあって格別に甘い。
「俺なら」
同じことだ。腹を割り、埋もれている本能を曝け出して、自らの手で抉り取る。そうして自分のものにすることで、初めて発揮される力もあるのだ。
「痛み、妬み、苦しみ、それから、てのひらから、零れるほどの血を捧げてやる」
喉の奥から笑いが零れる。不気味な音で奏でられたそれを聞いて、ルイミサは初めて自分が息を止めていたことを知った。ザネリの操る卓上のリハーサルに目が釘付けになっていた。息を吐く。背凭れに背を預け、ルイミサは考えるように指先を唇に当てた。
「悪魔が心躍る舞台か……捧げる、そんな発想はなかったなぁ」
まさしく、今のルイミサは目の前にある空のティーカップと同じなのだろう。器は十分に用意されているのに、中身が注がれていない。基となるものがないのだから、持ちうる力が発揮されないのも当然だ。これが、ザネリの理論である。根拠はあるかは置いといて、妙に納得感はあった。
考えこむルイミサの前ですっかり蕩けたソフトクリームを掬うザネリは自らの予定に思いを馳せる。またとない好機をみすみす逃すわけにもいかない。確か館のぬいぐるみたちは総出で遠足に発っていて、隅々まで探索したら屋上で弁当を食べるとかしおりに書いていたはず。35回目ともなれば暇人しか参加しないような遠足だが、総出で出払っているのが答えだ。随分と暇人だが、最後ぐらいは合流したい。それまでの時間は……。
脳内で計算を済ませたザネリは、またにんまりと口角を上げた。生憎、手に覆い隠されていたルイミサには見えなかったが。
「共犯者殿、お望みとあらば手伝ってやろうか」
実に良い大義名分だ。これは就業規則外の、共犯者としての、お手伝いであって、従業員を殴る雇用主では一切ない。
「本当に?」
邪な感情が不随した提案だったが、ルイミサにとってもまたとない機会ではある。これは火遊びでは済まないかもしれない。いくら√能力者とはいえ、死は忌避すべきものであり痛みは遠ざけるべきものである。
だが、これを逃したら次はいつになる?今日もし覚醒できたとしたら、この博打に乗らなかった自分はどれだけの時間をロスすることになるだろう。とうに期待は捨てた筈なのに、それでもどこか期待してしまう自分がいた。愚かで、中途半端な、半魔。
クリームソーダの嵩が減っていくのを見ながら、ルイミサは思考を巡らせる。彼は知り合って間もないルイミサに|部屋《居場所》をくれた。誰でも与えられるものだと知っても、それはルイミサにとって特別なことだった。
組織とは無縁で、意地が悪く、それでも手を貸してくれる共犯者。信じるに値するかは、過去の自分がよく知っている。
「悪魔の覚醒が上手くいけば──名実ともに共犯者、だな」
「決まりだ」
こういう時の決断力はピカイチだ。ザネリは少々乱暴に女の腕を掴み、さっさと会計を済ませた。多少色を付けてもいいぐらい、今の気分は上々である。ルイミサがスマホを取り落としそうになるのを横目に見ながら、意識の逸れた片手にするりと手のひらを合わせる。
目まぐるしく変化していく状況にルイミサの視線が揺れた。彼の演技は始まっていて、自身もまた舞台袖にいるのだと気付いた。ゆるく結ばれた手を振りほどくことはなく、二人は連れ立って薄暗い横道へと吸い込まれていく。
街灯が並ぶ道から、遠く、遠く、底なしの闇がぽっかりと二人を待っている。
これは、一昔前の流行だっただろうか。
ザネリの奏でる鼻歌だけが聞こえていた。寂れた街の薄暗い道は当然人の手も入っておらず、少々どころではなく埃っぽい。通りを一本ズレただけで人は世界から消えるのだ。誰も二人の事など気にはしないだろう。例の監視の目が執拗に追いかけてくることを除けば。
さて。
鼻歌が切れた。三日月を描いた弧が何らかの言葉を紡いだ瞬間、ぱっと薄暗い路地裏に赤い花が咲いた。いや、花と言うには鋭利すぎる。何より、この冷えた空気と肌の湿った感触は花の可憐さとは程遠い。
名悪役が朗々と台詞を口にしたなら、舞台はもう始まっている。空中に生み出された夥しい数の赤い傘は、全て先端の金属を大地に向け降り注いだ。気が付けば降る自然の慈雨と同じように、赤い雨が大地へと落ちていく。当然、真下にいる人間にも構わずに、だ。
今度こそぱっと赤い花が咲いた。錆びた鉄のような臭いをまき散らしながら、ルイミサの体にいくつもの花が咲いていく。不意に訪れた傘の雨を、ルイミサは視界に収めた所で意識が弾けた。ぱんっと勢いよく傘を開いた時と同じような音がした気がした。
「──」
はく、と口が動いて、ひっくり返った瞳が空を見上げる。
「お前、赤色も似合うな」
こともなげに男が言った。ザネリは乱雑にルイミサの赤く染まった髪を掴み、無理やりに視線を交差させる。引っ張り上げられたルイミサは軽く眩暈を起こしたが、それが失血によるものなのか、この乱暴な手繰り寄せによるものなのかはハッキリしなかった。
体に力を入れようと試してみても、いくつの神経が切られたのか分からない状態では手も足も大して動かない。鼻腔をツンと刺すのはつい先ほどまでの純喫茶の少しだけ甘い匂いでも、静かな街特有の澄んだ空気でもなく、実験体としてよく嗅ぎ慣れた臭いだった。男の周りに微かにまとわりついていたチョコレートの甘ったるい匂いも赤い傘が掻き消してしまった。無理やり起こされた視線の先で、酷く可笑し気な男の目と交わった。
肺に流れ着いた血を咳で吐き、何とか空気を流し込む。
「もう少し……優しく手伝えないのか?」
「情熱的だろ?」
自身の血で彩られる唇の赤さは見なくとも理解できたが、ザネリのその行動と軽い笑い声は全く理解の範疇から外れる。せめてとルイミサは睨みつけたが、ザネリにとっては可愛い抵抗にしか見えない。子猫がじゃれてきてるのと同じ感想を抱くだろう。
「どっちが悪魔なんだか」
跳ねた指先。血が通る感覚。ルイミサは手の届く距離にいるザネリの顔へと手を伸ばした。薄暗い中、血の化粧を施した女は嫌に魅力的に映る。野暮な連中なら手を跳ね飛ばしているところだが、ザネリは当然彼女の誘いに応じた。細めた目尻を指先がなぞり、唇が交わえる程に近く顔を寄せ、ザネリの耳元でルイミサは言葉を紡ぐ。
「ほら、恋人役ならそれらしく……」
ルイミサの声を掻き消す程の轟音が真下から届いた。赤い穂の海を薙ぎ払い、アスファルトを突き破って鎖が天へと昇っていく。鎖は激震地にいた二人の体を優に巻き取り、絡め、締め付け、遠慮もなく肌に食い込む。更なる舞台へと導く様はまるで金属の蛇だ。
「ひひ、伊達に真面目ちゃんじゃねえなァ」
体を鎖で支えたルイミサは縛り付けたザネリの両頬へと手のひらを這わせ力を奪う。魔性の女の手のひらの上から逃げ出すことが出来た男はかつていたのだろうか。こんな最上の舞台で求められて、振り解く理性はあっただろうか。
顔を少し横へとずらせば、女の指を食む事は可能だった。傷をつける訳でもないザネリの愛咬に、ルイミサは楽しそうに微笑む。
「……ちっとも心臓が動かねぇ」
「そう? 私は結構ドキドキしてる。だってこれからキミを──」
声は、押し出された空気によって中断させられた。
散らされた赤い傘が消えたと誰が言っただろう。誰も。そう、誰もだ。男にも構わず、むしろその軌道をブレさせる事もなく、赤い傘が二人を貫いた。反動でびくりと体が跳ね、ルイミサの頭が項垂れる。ザネリもまた腹に大穴を穿ちながら、しかし理性が激痛に打ち勝った。
「ああ、もう、せっかちだなぁ。……こ、れから……」
言葉のかけらが零れ落ちていく。鎖から解放されたザネリの片手が気道を塞いで締め付けた。女の細い首を握り絞めるくらいの甲斐性はあったらしい。ルイミサの頭を振らせて瞳を覗く。ブレる瞳孔が酸素の枯渇を訴えていた。
「加減してんじゃねえぞ」
「……ミだけ、落と……、つもりだったのに……、しか、……て、……寂しがり屋?」
「旅は道連れって言うじゃねえか」
体が完全に脱力すると、人間というものは随分重たくなる。鎖越しにも感じられるその重さを体で感じ、ザネリは喉を震わせた。
ああ、気分がいい。綺麗な顔が歪む時が、一等綺麗だってことを、知っている。
遠ざかる意識の中、ルイミサの心はただ痛みと苦しみだけを訴えた。ぐるぐると回る意識は、急激に何かによって引っ張り上げられる。それは、憤怒だ。燃え盛るような熱情が体を奥底から湧き上がり、頭の天辺から足の爪先までを焼く。痛烈な憤怒はルイミサの意識を強制的に叩き起こし、その体に深く根付いた。
瞼が震え、次の瞬間には逆十字の瞳が天を見る。爛々と輝く赤に堂々と刻まれた白い瞳孔が随分と楽し気な男の顔を捉えた。
狂っている。誰が?私が。けれど、これは必要な狂気で、覚醒の為の階段だ。
同じような痛みを与えられ、それでも力は助けてくれなかった。それが求めていたのは、痛みの意味だったから。苦痛だけでは生まれない、善意の一滴を欲していたのだ。
恐れずに受け入れ、嗤い、手を差し伸べてくれる男へと向けて、ルイミサは心からの笑みを差し出した。
「じゃあ、一緒に堕ちようか」
ぐるりと引っ繰り返った視界と反転した体勢のまま、ザネリは自らが落下することによる風圧を背中で受け止めていた。どれだけ昇ったか定かではないが、遥か、屋上すらも超えて天にも昇ろうというところで反転したのだから無事で済まないだろう。ルイミサの甘い囁きがこんな中でもハッキリと脳を揺さぶってくる。
「もっとキミの血を、私に捧げて」
「仕方ねえな、臨時ボーナスだ。好きなだけ浴びて良い」
一滴残らず。全てを。彼の言葉だけでは足りず、ルイミサはその呼吸さえも望む。私の為に捧げるのだから、全て、私のものにならなくては意味がない。どす黒い感情が意識を塗り替えていくようだった。強欲は理性を食い荒らし、その隙間にぴったりと埋まっていく。
彼女の望む心に呼応してか、ザネリの頬をなぞる指先が黒く染まった。急激に成長を遂げる爪は伸びるままにザネリの頬を浅く切り裂き、赤い化粧をその甲に載せる。初めて訪れた身体の変化だった。
この短い数秒間で、何が出来るだろう。
無事変化を見届けて目標を達成したからか、満ち足りたまま落ちるザネリが残りの距離を視界に収め、
「 」
暗い水が、見て、いた。
ごぽりと空気の泡が口から溢れ、途端に呼吸が出来なくなる。藻掻こうにも体は縛り付けられ、誰かの意思によって指の先まで動かせずに凍り付いていた。
落ちた。落ちていた。同じように。泡だけが昇った。女が。頬を。
こんなところでしにたく なかった。
ガツンと頭を殴られたような衝動と共に、舞台を締める後書きが頭の中を駆け巡った。これは悪魔が見せている幻影だ、ついさっきまであんなに楽しかったっていうのに、浪漫ってやつが、いや悪魔に浪漫もクソもないのか、美学ってもんがあるだろ、底は地面で、水で、水じゃない、分かってる、わかって、苦しい、ずっと、どうして。
俺は何度、何度、この夢をみてきたと思っている。
落ちる数秒、なんの嘲りも煽りもしなくなった男の体をルイミサは眺め、歪む表情を見ながら悦に浸っていた。精神を支配しているという事実は彼女に高揚を齎し、それがたとえ地面が二人を殺すまでの間だったとしても満ち足りた時間にしてくれた。
してくれた、はずだった。
──嗚呼、どうして、こうも諦めが悪い。
「女々しく、無様な死に様は、この"名悪役"に相応しくない」
勝手に口から落ちた言葉が夢を食い荒らしていく。人為的な悪夢ならば、突破口が必ずあるはずだ。例えそれが暴力的な解決だとしても構わない。
冷たい水が汚されていく。一度落ちたインクは再び水を蘇らせることはなかった。悪夢が引き裂かれ、街の空気が肺に流れ込んでくる。
二人の鼓膜に届いたのはインクのような液体をぶちまけた音ではなく、血をたっぷり含んだ肉の塊がふたつ、地面に叩き付けられた音だった。
カラスの声で目が覚めた。手を地面につけた途端、言いようのないぬめった感触が返ってきてザネリは思わず顔をしかめる。全身が痛いだけで済んでいるのは、異様な力を持った人間ならではの感覚だろう。死ぬ瞬間が記憶の片隅に残って気が狂う生物の方がきっと正常だ。
ザネリは転がったまま散った臓物を漁りに来た死神を追い払い、真上で脱力したままの女を見る。重い、と口にする前に、ザネリには言いたいことがあった。
「おい、ルイミサ。なぜ殺さなかった、クソが」
「……ザネリ君が、おとなしく殺されてくれないからだろう」
起きてた。舌打ちが出る。思わずねめつけてしまうのも無理はない。
不満そうなザネリの上ではルイミサが自らの爪を眺めていた。彼女がいま確認できる変化はひとつだけ。頬を一度壊されて再生した後でも間違いなくそこにある、鋭利で黒く長い爪先だけだ。もう一歩も動けないし、体は休息を求めているが、それ以上に気分は晴れ晴れとしている。
「……弁当の時間に間に合わねえ」
こんな血生臭い中で、弁当の心配をし始めるザネリにルイミサは信じられない物を見る顔をした。心配するところがズレているだとか、もっと喜べだとかいろいろ過ったが、一応、自分の都合に付き合わせた自覚はあった。多分間に合わせるつもりだったのだろうことも察しが付く。
少し視線が泳いだ後、ルイミサがザネリを見た。
「私の手作り弁当……食べさせてあげようか?」
「……そりゃいい。お陰様でケチャップは要らねえな」
カラカラに乾いた喉から笑い声が零れる。それは次第に大きくなっていき、お互い、何が可笑しいのかも無視して笑い合った。
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