夢路にあの日の赤を見れども
転機はとある絵葉書だ。旅先から長く帰らぬ母が久々に手紙と共に寄越した洒落た一枚は、廻里・りりの瞳を釘づけた。
海辺の白い街を見下ろす窓辺に、花が一輪。石畳の路地に白い漆喰が眩しい家々、薄青く塗った彼方の空と海とに、花の赤がよく映えている。このままシャビーシックな額縁やコルクボードに飾ればよく似合うのに違いない。静物画のようでありながら風景画の趣もある良いとこ取りの一枚は、程よい抜け感を漂わすスケッチ調で描かれている。花の赤さに目を奪われて、その洒脱さにりりが感銘を受けた刹那、だが、さながら眼前の霧が晴れるかの様に突き付けられた事実がひとつ。
ひとたび、目を逸らそうとした。そうして抗おうとして、逆に記憶の海より浮かび上がって来たものは過去の無数の写真や絵葉書だ。いつからか手紙ばかりになり減って行った、母の旅先で見た景色たち。映写機を回すかの様に淀みなく古いものから思い出し、しかしそのコマの一つ一つが定かに脳裏に焼き付いている。
どの日付、とまでは言えない。きっとバレない様に送り手も心を砕いていたのだろう。だが、おおよその時期は判る気がした。美しい眺望を収めた写真たちからはいつからか共に眺める父の後ろ姿や横顔が消え、現地の不思議な生きものや街の面白おかしい風景を教えてくれていた絵葉書は、いつしか妙に品の良い洒落た光景を届けるばかりとなっていた。
それらが意味することを考えるより先に、りりは自分が既に真実に気付いていたことに気付く。驚きはない。故にそれは或いは思い出す、とでも言うほうが正しいか。
手紙の筆跡はいつからか、りりの母親のものとは異なっていた。そうしてりりも本当は知っていた。母がアルバムに添えているコメントの文字はもっと楽しげに跳ねていた。それを真似ようとしながらもしきれない、温度を感じさせない冷静な達筆。その原型をどこで目にしたか、りりには考えるまでもない。りりのためのこの優しい虚構を誰が作り上げてくれていたのか、どれだけ心を砕いてくれたのか、それを察していればこそ、微かな違和感から目を背け続けることが出来ていた。
鮮烈なまでに思い出す。
記憶の波間に揺蕩う色は、絵葉書の花よりもなお鮮やかな赤をしていた。あの日、よく晴れた空の下、青い海を血潮で染めてりりの両親は殺された。
そのことを記憶の水底に沈め、封じて、なかったことにして生きてきた。そんな自分を憐れんでくれた人々の優しさに甘えきり、彼らの努力でも消し切れない僅かな違和感のピースから目を逸らし続けて生きてきた。
そうしてひとたび気が付いた今、もう、その頃には戻れない。戻れなくとも、心優しきひとたちの努力を水泡に帰する訳にも行かぬだろう。ゆえに半ば責務の様に、ある種の恩返しの様に、りりは昨日の続きのままのりりで居続けることに決めた。
「お母さんが久々に絵葉書をくれたんです」
「あら、地中海?」
「そうなんです!今も暖かいらしくて羨ましい——」
初めて目にしたものかのように絵葉書を覗き込むお隣のお姉さんは、きっとりりの|心《たましい》が壊れないようにこれまでもずっとそうして来てくれた。彼女の表情が揺るがないから、自分が上手く装えていることを信じて、半ば言い聞かせ、りりは笑顔を作り続ける。気付かれていない、そう思わせてくれることすらお隣の彼女の気遣いである可能性は——思い至って、すぐに打ち消した。おそらくそれが答えなのだろう。それでも、今暫くの間、少しの甘えを許されていたかった。もしも彼女に気取られていることを認めてしまったならば、他の誰の前でももう二度と、笑顔なんて作れない。その恐怖は確信めいている。
店を開けている昼間のうちは何が何でもいつも通りだ。常連さんに今月から迎えた新しいぬいぐるみたちを紹介し、筆先の調子のおかしい万年筆の修理を受けて、来年のダイアリーを買ってくれた人にハロウィンのシールの残りをそっとおまけをしたりする。
何もかもがいつも通りだ。全て昨日までと変わらない。両親はもうずっとこの店に、りりの手の届く場所には居なかった。何もおかしなことはない。何も悲しいことはない。自分に言い聞かせる内にそんな気がしてくるのも事実。店を閉める時間まではと、笑顔だ。いつも通りの。
店を閉め、自室に戻った途端に感じた脱力感はこれまで覚えたことのないものだ。
カーテンを開けたままの窓硝子の映り込み、表情の抜け落ちた少女が此方を見つめていた。無気力、と言うのも違う。気力の有無以前の話だ。ただ、彼女はそこに居る。それ以上でも、以下でもない。チンチラのきめの細かい毛並みの尾も耳も、およそ血が通うものとも、動くものとも思えずに、ただ力なくそこにある。
屍のようだ、と思う。だらりと尻尾を垂らしたその後ろ姿を見つめながらりりは考え——後ろ姿? 窓を眺めているはずの『わたし』の姿を見ているこちらの『わたし』は誰なのか。
「りり」
聞き覚えのありすぎる程、よく知っている声がした。背を見つめられているりりは、息を詰めるようにしてそれを聴く。
振り向いてはいけないと解りながらも、確かめなくてはならぬ気がした。あの絵葉書と同じことだ。筆跡の違う手紙とも変わらない。答えをりりは知っている。それを確定させるためには、ほんの少しだけ肩越しに首を巡らせるだけで良い。
果たして、何も予想に違わない。振り向いた先、今の今まで眼前にあった、暗い窓硝子に映ったものよりも尚鮮やかな——いつも鏡の中に見ている紺碧の瞳が己を見つめていた。
目を逸らせない。逸らすことなど許されない。
それは目の前の『その子』からも、あの日目にした両親の最期からも。誰にも最期の時は訪れ、それをも含めて『そのひと』なのだ、そんなことを唐突に思い至ったのは思念めいて後ろの『りり』が告げたのか。
「生きているなかで、かなしいこともつらいこともあるけれど、それもあなたのたいせつな一部です」
花の唇が告げるのは肯定めいた追い打ちだ。一字一句まで聞き覚えがある言葉。あれは直近の依頼だったか。過去の傷を掻き消して幸せな夢だけを見せる簒奪者、その幻惑を振り払い、啖呵を切って見せたのだった。
「たいせつな思い出なのだから、なかったことにしちゃだめです」
唇が、肩が震えた。手で口元を覆いながら、掠れた笑い声を禁じ得ない。
嫌な夢をみた。眉間に皺を寄せながらの目覚め、りりはそれだけを自覚した。
家の外でバイクのエンジン音がする。どうやら郵便屋さんがもう来たらしい。寝過ごしてしまったことに気付いたりりは慌てて一日を始めた。
朝の支度を済ませて店を開け、客が来るまでのひとときにポストに届いた郵便物を見る。
「あっ」
白地に赤と青の封筒はいつ目にしても気分が上がる。母からの手紙だ。勢い込んでペーパーナイフで切り開き、近況を告げる端正な文字を読む。読み終えて、絵葉書が同封されているのに気づく。
海辺の白い街を見下ろす窓辺に、花が一輪。
鮮烈なその赤を目にした刹那、心臓が握りしめられたかの様に、一度だけ強く鳴った気がした。次いで覚えた短い動悸、その訳は——そうだ。憧憬がちょうど良い。素敵なものを目にして少し気持ちが昂ったのに、違いない。
表に、お隣のお姉さんの姿が見えた。
「※※ちゃん、見てください!お母さんが久々に絵葉書をくれたんです——」
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功