√ケルブ・プレイアー『オリジン』
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失楽園戦争で崩壊した天上界。
逃げ延びたのは、セレスティアル。
美しい翼はもう、あの天上を舞うことはないけれど。
祈りの力はどんな災禍と苦難だって退けることができるはずなのだ。そう信じたい。信じることは祈りに変わる。
祈りに昇華した力は、巡って誰かのためになりますように。
「てんしさま、ぼくはいつかみんなのこころに虹を架けることができるようになりたいです」
胸に抱えた絵本を握りしめて、ナナイロ・イリスレーヴェ(うたごえレインボウ・h09411)は、そう宣言した。
それはナナイロにとっては、絵本に描かれた御伽噺の天使に誓うものだった。
絵本と両親から寝物語に聞いた天上界のおはなし。
いつくしみ、おだやかに。
誰もが夜安心して眠れるようにと祈るセレスティアル――おばあさま、『イリスレーヴェ』。
いと輝ける祈り、と呼ばれた天上界の至宝。
それがナナイロの憧れであり、また自身の血の連なる所の祖母にあたるセレスティアルであった。
絵本に描かれた彼女の姿はあまりに美しかった。
ただ、美しいだけではない。
雄々しく、誰がために戦うことを厭わぬ槍を持つ勇壮なる姿は、幼心に英雄像として強烈に刻まれることになった。
左手に槍。
右手に|喇叭《らっぱ》。
たおやかな金色の御髪。
まっすぐに蒼穹を映し出す青い瞳。
白絹ように美しく滑らかな肌。
どれもが、ナナイロにとって憧憬の対象でしかなかった。
「おばあさまみたいに、強くてすてきなてんしさまになりたいの」
だから、背いっぱいまねっこをするのだ。
ふりふりの女の子のような姿をしているのは、憧れのおばあさまに少しでも近づけるように。
羽根が、ぱたぱたと羽撃く。
ふわり、ふわりと体が浮かんで、家の側にある大きな樹の枝上へとナナイロの小さな体を運ぶ。
手にしていたのはラッパ。
おばあさまから貰ったものだ。
思い出す。
「よいですか、ナナイロ」
声色はとても優しいものだった。
聞くものの心を穏やかにしてくれる、そんな声がナナイロは大好きだった。
同じ金色の髪を撫でる手つきは柔らかくて、くすぐったい。面を上げると自分の祖母とは思えないほどに若々しい女性の顔がそこにはあった。
その微笑みは黄金にも等しい。
「ラッパをきちんと吹けるようになりましょう。ラッパは大きく、そして遠くに音を届けるものです。あなたの吹くラッパを聞いた人々が、あなたのラッパの音色だとすぐにわかるようにしなっければなりませんよ」
「それはどうして? おばあさま」
ナナイロは首を傾げた。
疑問だったのだ。
ラッパは誰が吹いても同じように音を立てるではないか。
なら、練習など必要ないのではないか。
けれど、祖母は頭を振って微笑んだ。
それは幼子の無理解を笑ったのではなかった。ただ、自分もそうだったと懐かしむようでもあったのだ。
ナナイロはそれに気がつくことはなかったけれど、それでも祖母が微笑んだので、嬉しくなって、その細い腰に抱きついて甘えた。
「おばあさまの胸に耳を当ててごらんなさい」
「……?」
言われた通りに祖母の胸に耳を当てる。
音が響いている。
音を立てているのではない。響いている。
それがどんなに素晴らしいことなのか、ナナイロは理解した。
生きているってことだ。
生きているってことは素晴らしいことだ。何物にも代えがたいことだ。祖母もまた生きている。
ナナイロは自分の胸の音を聞こうと思って首を曲げたが、土台無理な話であった。
「どくどくってひびいてる。ぼくにもおんなじように、音がひびいているのかな?」
「ええ、響いていますよ」
そう言って祖母はナナイロの胸元に耳を寄せるように抱き寄せた。
「きちんと、心臓が動いています。ナナイロ、あなたも生きているのです。音はただの音ではないのですよ。そこには様々な色がある。意味がある。思いがある。それを感じ取ることができたら、きっと力になるでしょう。私の語る言葉は、ただの言葉でしかありません。ナナイロ、あなたが聞いた私の言葉は、きっと私の意味と異なるものになるでしょう。変わっていくのです。それは変えられないことなのです」
「……? むつかしいです、おばあさま。それはどういうこと? 言葉はいみのないことなの?」
「いいえ、言葉自体には意味しかないのです。けれど、力はない。本当に力を持っているのは、言葉を受け取る生命にあるのです。だから」
祖母は、ナナイロにつるりとした美しい金のラッパの表面を撫でた。
何かを思い出しているようでもあったし、慈しむようでもあった。
不思議に思う。
言葉なくとも、祖母のそうした感情の一端をナナイロは感じ取っていた。
喜びも、哀しみも。
怒りも、楽しさも。
全部が入り混じっているようだった。
「あっ!」
だから、ナナイロは気がついたようだった。
これがそうなのだ、と。
感情は言葉の受け皿なのだ。言葉が心を打ち鳴らすから、力を生み出すのだ。
感情だけではダメなのだ。
言葉だけでもダメなのだ。
その心を打ち鳴らすための、原初にして最小、最短。
それがラッパの音なのだ。
だから。
「ラッパの練習をうんとするのですよ、ナナイロ。ただ一つの音だけで、あなたは多くのことを伝えることができるように。多くの人に響き渡らせることができるように」
「はぁい、おばあさま!」
ナナイロは、今日もラッパを練習する。
樹の枝の上に座り込む。
見つめる空はどこまでも青くて遠くまで広がっていくようだった。
「きれいだ」
小さく呟く。
こんなにも美しい世界に自分がいる。
「すぅー……」
息を吸う。
だけじゃあだめなんだ、とナナイロは気がついていた。
吸って、吸って、吸い込む。
肝心なのは、吐き出すこと。
ラッパに口をつける。口付けるように優しく。そうすることでラッパは応えてくれる。
ただの金属の管なんて、これっぽっちも思わない。
吐き出した息が走るようにラッパの管の中を駆け巡っていく。
大気を震わせて、どこまでも広がっていく。
ナナイロのラッパは、目覚めのラッパ。
「あさですよー」
樹の枝の上から、ラッパの音に目覚めるようにして鳥が、ひょこりと顔を出す。
「チッ、チチチチ」
「うん、おはよう。今日もいい天気だよ。羽根を伸ばすにはちょうどいいかもしれないね」
「チチチッ、チッ?」
「今日の予定? ふふ、ラッパの練習が終わったら、飛んでみようと思うんだ。ちょっと空のお散歩、かな?」
樹の枝の上にナナイロは立ち上がる。
ここは√EDEN。
今、ナナイロは√ドラゴンファンタジーではなく、√EDENにいる。
この樹の大きなうろに下宿させてもらっている。間借りしている、というのが正しいかもしれない。
鳥さんたちの住まいにお邪魔しているから、ご近所付き合いっていうものは大切なんだなぁ、とナナイロは改めて思う。
ふわりとふりふりの衣が風に揺れる。
伸びを、一つする。
吐き出した息は、新しい空気を胸いっぱいに吸い込まれる。
眼の前がクリアになったような気がする。
不可視の怪物、インビジブルもこころなしか、爽やかに宙を漂っている。
「おはよう、おはよう、おはよう、みんな今日も一日よい日になりますように」
ナナイロはラッパをしまって四枚の翼を羽撃かせる。
ふわりとまた体が浮かぶ。
「鳥さん、それじゃあ、いってきます。一日、ごあんぜんに。あんぜんひこうでね」
そう言ってナナイロは空に飛び出していく。
両親や祖母たちのように、それこそ矢のように鋭く飛ぶことはできなくても、いつかはできるようになるはずなのだ。
そう思ってナナイロは青空の下を飛ぶ。
どこを見ても、√EDENはインビジブルが漂っている。
それだけ豊かなのだろう。
「こんにちは。今日もごきげんよう?」
「――」
インビジブルの言葉はわからないけれど、何事かを返されたような気がする。
意味はわからないけれど、笑う。
言葉だけではダメな事はもう知っている。
幼い日に祖母が語ったとおりだ。心を響かせるのは、何も音だけではない。言葉だけでもない。
表情一つでも心に響かせることができる。
だから、とナナイロは笑顔を浮かべる。
インビジブルとの意思疎通はできなくても、それでも彼らなくば、√能力を発露するためのエネルギーは引き出せない。
ふわり、と陽光の中を飛ぶ。
見下ろした先にあったのは、小さな幼稚園だった。
子供たちがたくさんいる。
近くには小学校もある。
笑い声が聞こえてくる。時に泣き声も聞こえてくるだろう。
感情が沢山ひびいている。
色が、満ちている。
それが嬉しくてたまらないのと同じように、寂しさを思い起こさせる。
この√EDENに来たのは、修行のためだ。
家族も承知している。
すべては、ナナイロが『立派なてんしさまになるため』なのだ。
少しも寂しくない、なんて言えない。
同年代の子供たちの姿を見れば、余計に寂しさが募る。けれど、ナナイロはふわりとまた飛ぶ。
間借りさせてもらっている樹へと戻れば、鳥さんたちもいる。
ヤモリさんだっている。
猫さんだって、寄ってきてくれる。
時折、ワンちゃんとお話できるのも楽しい。
寂しさは、心の反響。だから、きっとこの寂しさは自分だけのものではないのだ。
誰かの寂しさが、自分の心にぶつかって音を立てているだけなのだ。
「どこかな? この寂しさのりゆうは」
きょろきょろと見回す。
あ、とナナイロは気がつく。
忙しない毎日に転んでしまったお姉さんがいる。
きっと大変なお仕事をしているのだろう。擦りむいたストッキングの奥の肌からは血が滲んでる。
痛そう。
そう思ってナナイロはいてもたってもいられなくなって、彼女の前に降り立った。
「……いっ、つつ……あぁ……ついてないなぁ……ストッキング変えなきゃ……えっ!?」
彼女は目を見開いた。
何故なら、眼の前に舞い降りたのは天使そのものだったからだ。
「て、てんし……!?」
「わ、そうみえる? うれしいな」
「……え、っ、幻覚? わたし、働き過ぎ!?」
「おねえさん、けがをしているね。いたそう。ちょっとまっていて」
ナナイロは、降り立った先に座り込んだ女性の膝頭に手を添えて祈る。
温かな光が広がっていく。
掌を離せば、そこにはもう傷跡は残っていなかった。
ただ、破れたストッキングだけがったのだ。
まるで奇跡だ。
「はい、これでだいじょうぶ!」
「な、え、っ。ええっ!?」
「おきをつけて、ごあんぜんに。ばいばい」
そう言ってナナイロは微笑んで、ふわりとまた舞い上がる。
女性の唖然とした顔を振り返って、また微笑んだ。
転んじゃったのは、ついてなかったかもしれないけれど。
「きょうもいいことありますように」
そう祈る。
いくつもの祈りを重ねて、世界は鼓動を織りなしていく。
その一つ一つを大切にすること。
それが、ナナイロの――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功