√願望変異『遷延案件』
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変わるものと変わらないものがあるからこそ、変化というものは観測することができるのである。
なら、変わらないものなど存在するのだろうか。
絶対たる価値基準。
それが不変なるものであるというのならば、観測者こそ『そう』あらねばならないことは言うまでもない。
しかし、我々人間は不変とは程遠い。
変容していく。
それは肉体的変化の老いであったり、精神的な心変わりであったりと、変わることを宿命づけられている。
不変ではないものが観測者である以上、人ならざる者は何一つ変わらないのではないか。我々が変化しただけで、未だ人間災厄『オプターティオ・ヴィロサ』成る願望機は変わっていないのではないか。
如何に調査書や報告書には克明にカリス・ステラ(料理屋店主・h00098)が、汎神解剖機関の職員の一人である斎亘理・奏天(苦労が向こうからやってくる・h02931)に執着を見せていることを記されている。
「人間に友好的である、という点においては歓迎すべきことであるがね。これは幸いか不幸か、わかりかねるな」
「はい。依然、人間災厄『オプターティオ・ヴィロサ』は、路地裏にて料理屋を構えています。変化は見られません。そもそも兆候というものを探ろうとい試み事態が無謀なのかもしれません」
「かも知れない、では困るのだよ、君」
「承知しております。とは言え、人間災厄もひとの形をしている以上、変化は受け入れなければならないものであるのでしょう」
「それが君、換えの効く『人間』から、あの人間災厄の興味の対象が一個人に移ってしまった、ということが問題なのだ。もしも彼が死んだら? 仮に職務中の事故などで死んでしまった場合は早急な代役を立てることができるのかね?」
「できませんね」
「何を他人事のように」
「考えるだけ無駄です。どれだけ備えをしても備え足りることなど怪異の前にはないのですから」
その言葉に上役とも思わしき男は押し黙るしかない。
理路整然としていたし、厳然たる事実であった。
故に対処の方法が見いだせないのだ。
「この変化は人間災厄『オプターティオ・ヴィロサ』にとっては些細な変化なのでしょう。大きな変化なのかもしれませんが、それでも私達にとっては致命的です」
「そうだ。だからこそ、対策を考えねばならない。慎重を期するあまり後手に回ってしまったことは次に活かすべきだ。早急にあの料理店に向かわせる人員を増やす。それで興味の対象を分散させよう」
そう命じようとした上役の男であったが、後に上がってくる報告書に頭を抱えることになる。
なぜなら――。
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「っ、きゃああああっ!?」
それは女のような悲鳴であった。
思わず出た声であったし、奏天は己の目を疑った。
自分の自宅に帰ることができたのは、いったいどれくらいぶりであっただろうか、と考えながら帰路についていた奏天は、いつもの日課である 何でも出てくる料理屋『盃』に向かう気力すらなく、ただひたすらに睡眠を貪りたいがために自宅に足を向けていた。
安アパート。
そう言葉にするのが正しい住まい、その二階部分が己の部屋だ。
カン、カン……と重たい足を引きずるようにして漸く階段を上がったはよいものの、久方ぶりの帰宅故に自宅の鍵というものが何処にしまったのかを忘れて、上着などのポケットを探り、それでも見つからないものだから、バッグや財布をひっくり返してようやく見つけた鍵を差し込んで回したのだ。
確かに鍵はかかっていた。
ガチャン、と錠前が音を立てたのだって憶えている。
薄っすらとドアノブに埃が積もっていたのも見た。悲しいかな、それくらい自宅に帰ることができていないのだ。
汎神解剖機関はブラック通り越してダークネス職場なのだ。
とんでもない場所である。
ともあれ、自分以外の誰かが部屋の中にいる要素などなかったのだ。
だが、いた。
いるはずのない者がいたし、そこに存在している事自体が非常事態の存在が、鎮座していたのだ。
「何が食べたいデスカ?」
「いや、そこはまずおかえりなさいじゃあないのかな!?」
我ながら素っ頓狂な返事だと思った。
問題はそこじゃあない。わかっている。
が、それくらいに混乱してしまう現実が目の前にあった。
己の部屋のドアを開けたと思ったら、 何でも出てくる料理屋『盃』だった、なんてことはない。
一度ドアノブを掴んだまま扉の外に出て確認する。
「うん! 僕の安アパートの部屋だよね!? 間違っても路地裏でもなければ、料理屋でもないよね?! これなに? 幻覚に幻聴!?」
ついに働き過ぎで自分も現実と夢の境目がなくなってしまったのだろうか。十分にあり得る話であるところが悲しい。
「何が食べたいデスカ?」
「話聞いてました!?」
一応敬語である。
相手は人間災厄。その気になれば、一般人にすぎない自分などあっという間にどうにかできてしまうだろう。
機嫌を損ねてはならない。
「何が……」
「和風ハンバーグとお味噌汁! あと炊き込みご飯! たけのこのやつ!!」
お腹が空いているので、ガッツリ食べたいが、空きっ腹に優しい味付けが良いと思っていたのだ。それ故に反射的に応えてしまった。
するとカリスは頷いて自分の部屋の玄関口にあるキッチンに歩いていってしまった。
「嘘でしょ」
いやいやいや。
これって収容違反じゃあないのか?
マニュアルに載っていたような気がする。載ってたよね? そもそも怪異や人間災厄の類を個人でどうにかしようというのが無理な話なのだ。
それが?
え、なんで?
「……連絡したほうが良いのかな? いや、いいよね。むしろ、なんでしたらダメだと思ってるんだろう」
ご飯食べてからでもいいかな。
いや、よくないよなぁ。
そんな葛藤を奏天は抱えていた。彼も大概である。披露と空腹で頭が回らなくなってきているのだろう。分かり易いって言えば分かり易い。
スマホを取り出して緊急連絡用の回線を開こうとして、背後に気配を感じて振り返るとカリスが立っていた。
「お待ちどうさまデス」
早い。
自分が連絡をためらっていた時間なんて僅かなものだった。
なのに、もうできている。
良い出汁の香り。
温かな食事の気配に意志は屈服しなくておも、胃袋が屈したように、きゅうきゅうと鳴くのだ。
「い、いただきます」
「召し上がれ」
奏天は自分の心の弱さを呪った。
きっと絶対怒られる。
わかっている。どうせまた始末書やらなんやらである。しかし、それ以上にこのひと――カリスはいつになったら帰ってくれるのだろう。
あ、味噌汁美味い。
箸が進む進む。
炊き込みご飯の地味が胃袋を刺激する。
和風ハンバーグの味わいもさっぱりしていながら、味がしっかりしている。噛めば肉汁が口内をコーティングしていくようだった。
こんなの無理である。この食事を前にして先に連絡することができる人間なんていないと奏天は己に言い訳しながら、食事を頬張る。
「美味しい。美味しいよぉ」
もうそれしか言うべき言葉がでてこない。
最後のお茶の一服を終えて奏天は漸くスマホを手に取る。
すごく億劫である。
でも、やらなければならないことなのだ。
数分後、奏天は更に絶望することになる。
そう、人間災厄『オプターティオ・ヴィロサ』ことカリスとの同居が決定したのだ。
それはいわば、終わらぬ業務の延長戦の始まりだった――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功