夜天の凍星
――人間は人を愛する。愛するとは、その人を護りたいと思うことだ。
人に手を伸ばすときにはいつも同じ声が脳裡を木霊している。血の巡った掌の熱を感じ取るとき、彼が心に抱き続けた面影は何故か揺らいで、代わりに初めに貰った言葉を強く思い出す。
「大丈夫か? あっちに救助が来てる。声は出さないで走れ」
イル・ネームレス(|気怠い劇薬《イル》・h05276)の端的な声に幾度も頷いた少女が口を塞いで立ち上がった。そのまま走り抜けていく背を見送ったのち、目ぼしい要救助者が残っていないことを確認して、彼はその場を後にすることとした。
研究者たちの考えていることは分からない。彼らが議論に議論を重ねた結果、イルには人間爆弾としての機能が搭載されることになったらしい。曰く敵性機械どもを大規模に葬り去るために、彼の歌声をより|完全に《・・・》利用するのだそうだ。
集まって来た機械どもをイルごと爆破する――今し方歩く、同じように黄昏に傾きながらも表向きは平和で享楽的な世界の人間が聞けば、きっと非人道的だと眉を顰めるに違いない作戦だ。
とはいえ、それそのものは彼にとっても何ら不思議ではない。
√ウォーゾーンというらしい世界には時間がない。一人の命でより多くの相手を斃すことこそが重要だ。そもそのために培養された少年にしてみれば、斯様な命の使い方は決して否定すべきものではなかった。
であらば何故、彼らは|人を助けよ《・・・・・》と命じるのか。
使命感が足りないと思われるようなことはして来なかった。心の奥底にきつく鎖をかけて鎖した扉があっても、表向きの彼は明るく使命に殉ずる善き被検体であったはずだ。
疑問は募れど断る理由はなかった。望外の形で自由に外に出る理由が得られたのだ。活用せぬ手はない。
派手な戦闘音が止んだ。世界に蔓延るという忘却力と辻褄合わせは、あれほどの音であっても容易に認識を塗り替えるらしい。往来の誰もが驚いたようにそちらを見遣るが、それきりすぐに視線を外して己の享楽に身を傾けている。
そのさまを見詰めていたイルを呼び止める声がある。
機関の職員だという男が頭を下げている。少年と同じ力を持つという彼には、現状が正確に理解出来ているらしい。歩み寄って来た姿に常と同じ張り付いた笑みを返す。
「ご協力ありがとうございました。お陰で怪異による死傷者はいないようです」
「役に立ったなら良かった。今日のところはこれで?」
頷きが戻った。
――であらばここからはイルの依頼を叶えてもらう時間だ。
それは職員の方も理解しているらしかった。少年が何か口を開く前に、男の生真面目な声が続ける。
「お探しの方がいらっしゃるのでしたか。機関には機密も多く、あまり協力的な態度を取れないとは思いますが――」
「ああ、構わないよ。個人的に探してもらえるだけでもありがたいから」
イルの金星が瞼に隠れた。
――探し人の所在を見付けるには、外に出て他者の力を借りるのが最も手っ取り早い。
「金色の目の女の子だ」
思い描く姿は最後にイルを拒絶したときのままだった。凍り付いたように動きを止めた|彼女《・・》の表情を、彼は未だに追い求めている。
「分かりました。留意するようにします」
「ありがとう。それじゃあ、おれはこれで」
ひらりと手を振って、今度こそ現場に背を向ける。一歩を踏み出すごとに巡る言葉が呪縛の如く足に絡みついた。
人間は人を愛する。
愛するとは、護りたいと思うことだ。
であらば今のイルは|人間《・・》であろうか。護ることは随分と上手くなった。死者を出さぬためのやり方も、人に信頼される方法も、意識するまでもなく身に馴染んだように思う。
それでも――|護りたい《・・・・》と思っているのかどうか、定かではない。
心の奥で空疎が疼く。恋というにはうそ寒く、運命というには絡まりすぎた糸が、イルの考えを絶ち切るように騒めいている。
彼女に会わなくてはならない。
泥濘のような感情だけを足に絡みつけて、少年は今日も人を護らんとする。
伸ばす手の先に煌めいていたはずの一等星は、今やただ、彼の足を引く執着にすぎぬのだとしても。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功