失われた記憶
包まれて、抱かれて、その肌はヤケに冷えていると思われた。それもその筈、ああ、この赤子の命と謂うものは医者が想定していた以上に『儚い』ものだったのだ。……彼女は、長くは生きていけません。他の子たちみたいに、外で遊ぶ事も難しいでしょう。両親が選択したのは『病院』ではなく『自宅』での療養だった。せめて、この子には、こんな白い壁ではなく、あたたかな色をした壁を見せてあげたい。と、そのような想いから、そうなった。いや、両親は知っている。自分達を慰める為に、赤子を、彼女を家に置いておきたいと……そう考えている自分達を知っていた。如何してそれを咎める事が出来ようか。医者も「それがいい」と頷く程度には――両親も憔悴していたのだろう。
自宅療養とは言っても『調子が比較的よろしい』時だけの話だった。物心ついた頃の少女は、なんとなく、説明がなくとも自分の身体の弱さについてはわかっていたのだ。げほげほと、けろけろと、体調がひどい時などは入退院を反芻していた。ハリネズミを彷彿とさせるほどの、複数の管。身動きひとつ取れない無様さは、より、少女の心身を蝕んでいった。この時だ。横に視線を投げたら――ぶつかる。
グロテスクな魚、嘲笑う綺麗な海月。不自由な人間を憐れんでいるのか、面白がっているのか。呼吸困難に陥った少女の臓腑とやらを弄る。弄りながら、混じって往く。のちに彼等が『深海魚』である事を理解するのだが……兎も角、何もかもは反転した。
両親は勿論、双子の姉も喜んでくれた。何故なら、まったく、手術などもせずに少女は『健康体』を手に入れたのだ。奇妙で、奇怪とした状態ではあったが、嗚呼、医者からもお墨付きをもらえた。榴ちゃんが頑張ったから、神様が願いを叶えてくれたのかもしれないね。でも……少女はひとつ、悩みを抱く破目になった。お化けのような『もの』は自分にしか見えていない。パパも、ママも、お姉ちゃんも、見ようともしない。それに、お化けたちは……肉を、骨を、喰い散らかしてくる。
病よりも凄惨な恐怖に、少女は目を回した。お化けの群れが『榴』を欲して、繰り返し、繰り返し、歯を当てる。歯を当てる度に周囲のものを壊して、両親や姉に迷惑をかける。ああ、何がこわい。喰われ続ける事か。混ざる事か――嫌われてしまうと、思ったのだ。だから、逃げた。逃げ回った。何もかもを、投げ棄てて。
曲がり角で声を掛けられた。知らないおじさんだ。知らないおじさんが『お化け』と混じり合った状態で、見ている。あれは、いつものお化けとは何かが違う。蛇に睨まれたかのように、少女は、暴こうとするかのように見つめ返すしか出来ない。おじさんと、あっちに行こう。痛くしないから……。逃げようとした。また、逃げようとした。したけれど、呆気なく捕まってしまった。私はね、真っ赤な、柔らかいものが好きなんだ。連れ去られた先での調理方法は丸ごと。踊り食いの甘美には聖人でも抗えない。
……痛い!
少女は幸福なことに、意識を手放せた。
朦朧とする頭、ゆがんでいる視界。如何にか、ハッキリさせた数秒、誰かに囲まれている事がわかった。黒い服を着た、またしても知らないおじさん達だ。助けてくれたのだろう。まるですりつぶしたエビを海へと放つかのように、榴は、再び……。
終わらない。
知らないおじさんの嗤い声、知らないおじさん達の黒。いやだ。榴は……榴は……何も見たくない、何も、知りたくないの……。逃げた。思えば、逃げてばかりだ。逃げて、正気なのだと、啜られるばかり。
頭が痛い。
僕は眠っていたようだ。
眠りすぎていたようだ。
あれ? 夢の内容は、なんだっけ?
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴 成功