無彩色の夜に
まだ吐息に白の混じるほどではない、初冬のころ。
けれど、屋根瓦のうえを撫でてゆく夜風はじんわりと骨に沁みる冷たさを孕んでいて、ツェイはひとつ身を震わせた。厚手とはいえ、家着一枚で上がってきたのは軽率だっただろうか。
和中華の意匠を残した屋敷の屋根上からは、僻地故の穏やかな景色を一望できた。浅煎りの珈琲を満たした湯呑みを片手に腰を下ろせば、再び頬を撫でた夜気が、仄かな酸味と花のような香りを舞上げる。
細い三日月の浮かぶ冬空は、星明かりも仄かにただ凛とした|気配《けわい》に満ちていた。幾星霜も眺めてきたそれは、今日も変わらずささやかに瞬いている。
穏やかな時間に身を浸せるのは、それがたとえ仮初めであったとて、世が安寧であればこそ。
だのに、裡に微かな揺らぎが生まれる。
――構わぬよ。
その言葉が口癖となったのは、いつからだろうか。ふと口を吐いて出そうになったそれを、手にした湯呑みを口許で傾けて掻き消した。気に入りの豆から挽き、丁寧に淹れたばかりの珈琲は確かなぬくもりを与えてくれると云うのに、胸に宿った揺らぎの欠片はまだ消えやしない。
緩やかな傾斜を伴い夜の闇へと溶けてゆく屋根の端を一瞥してから、ツェイは両の脚をゆっくりと伸ばした。先ほどまで古書に没頭していて堅くなっていた躰を伸ばすように、その背を柔らかく仰け反らせる。
ふと貌を上げた先には、夜の水面へと鏤めた白砂のようなひかりで満ちていた。これほどまでに遠く、儚く、美しいというのに、どこか物悲しさが過ってしまって、ツェイは静謐な刻へと微かに漏らす。
「……震えるほどでも、ないのだがのう」
ことさら独り言が増える夜は、決まって今のような季節だった。酷く寒いわけでも、暖かいわけでもない。けれど、そのどちらとも云えぬ捉えようのない温度が、どこにも拠り所のないような、なんとも言い難い心地を呼び起こすのだ。
独りでいることには、とうに慣れた。
屋敷のなかにあるのは、幾許かの師の荷物と、棚や書斎、蔵に収められた無数の本と、仙薬作りに使う薬草の匂い。忙しない老師は旅の空から滅多に戻らず、庭にはちいさな樹霊や妖たちもちらほらいるとはいえ、それはあくまでここに根づく存在たちであり、“家族”と呼ぶにはすこし違う。
「……なに、今の暮らしでも構わぬよ。なあ?」
そう、自嘲気味に裡に問う。紡ぎ慣れた言葉は、斯様に容易く口を吐く。それは昔から変わらない。蔑まれたときも、役目を果たせなかったと糾弾されたときも、何かを失ったときも。
――構わぬよ。
そう答えることでしかどうにもならなかった日々の名残が、今も乾いた唇に染みついている。
口から湯呑みを離すと、花の甘さを思わせる余韻が鼻孔を擽った。決して悪くはない。寧ろ、味そのものを評価するなら上等な一杯と云えよう。師の置き土産の豆を、すこしだけ贅沢に挽いた。それでも尚、今宵の珈琲はどうにもこの裡を吹き抜ける隙間風を払い切れない。
「……長老殿なら、何と云うかのう」
思わずこぼれた呟きに、柳眉を下げながら口端を緩める。
裏山の奥にひそりと佇む、古い古い大樹。いつだってツェイの話をよく聞いてくれる、長老と呼ばれるその古代樹へと逢いにいけば、きっとまた違った夜となっただろう。あの根許に座り幹に背を預けると、忽ち不思議と瞼が重くなる。心のささくれが、いつの間にか丸くなってゆく。
けれど、今夜はそこへ行く気にはなれなかった。眠りたくないというより、ただ眠れそうにはなかった。
『そろそろお主も、身を固めてはどうかの』
嘗ての長老の声が、脳裏に浮かぶ。どこか冗談めいた口ぶりで、これまで幾度かそう云われたことがあった。
村の者たちにも、往来する客人たちにも、似たようなことを投げかけられた。守り神となったのだから、長命なのだから、共に生き、支えとなってくれる者がいた方がよい、と。なかには、淡い想いを瞳に宿してそう告げてきた娘もいた。
それを、ツェイはこれまで常に微笑みで躱してきた。
『我などまだまだ、身を立てるほどでもないしのう』
『もう少し、鍛錬に時間を注ぎたいとも思っておってなあ』
そんな冗談めかした台詞でありながら、その芯にあるのは本意だった。幼いころから“守り神様”なぞと呼ばれながら、なにひとつ守れやしなかった。上手く力を扱えず、望まれた役目も価値も果たせぬまま、ひたすら“成り損ない”と囁かれてきた。
だからこそ、他者の人生に深く踏み込むことが恐ろしくてたまらない。ひとたび懐に入れてしまえば屹度、もう引き返せぬ。己が身も、魂も、平然と差し出してしまうことだろう。それが自己犠牲という名の傲慢であることを、分かっていながら。
「ふふふ……じゃが長老殿は笑っておったなあ……」
眸を細めると、見上げた先で瞬く星のひかりが、長老の幹に灯るちいさな木霊のそれと重なる。
『それでも誰かが、おぬしの傍にいたがるやもしれぬぞ』
どこか見透かしたように、そう夜風に葉を揺らしていた古樹の声が耳許に蘇る。あのとき、己はなんと返したのだったか。――そうだ。肩を竦めて笑いながら、『そんな酔狂な者がいたら、長老殿に預けてしまおう』と云ったのだ。
それきり、話は流れた。
長老もあまり深入りはしない。ツェイの裡に沈む澱へと触れすぎれば、いずれ枝葉までもが萎れてしまうことを察していたのだろう。
「誰かが居たって、構わぬ……のだろうが」
屋根のうえで、そっと息を零す。未だ白むことを知らぬまま、呼気はただ夜気にほどけて消えていった。冴えぬ貌で覗き込んだ珈琲の水面に、月影が滲む。
もし、誰かが傍にいたなら。
こんな初冬の夜だとて、同じ星月を眺め、他愛のない言葉を交わして、浅煎りの香りが満ちるなか語らい合うこともできただろうか。
「……いかんのう」
考えた瞬間、自嘲が先に立つ。ツェイはちいさく首を横に振った。
誰かを想うということは、その誰かを“失う”可能性をも抱えるということ。直ぐさま、意識の狭間に己を罵る声が明瞭に浮かぶ。
幼いころ、己の無力さ故に置き去りにしてきた祈りたち。
御伽話になれなかった物語の欠片たち。
それらが重なり、絡まり、いまの自分を形づくっている。見えぬ糸となって、心の一部に頑なに巻きついている。
悪人であればまだ、こんな己には似合いであろうか。けれど、善人であったならば尚のこと、より良い別の誰かの許に在るべきだ。己のような不出来で不完全な者の隣に縛りつけてしまえば最後、その人生の一部を穢してしまいかねないのだから。
――だれも失望させぬように。
――だれの枷にもならぬように。
ずっと、ずっと。そう言って、笑い続けてきた。
そのくせ、誰かが己が名を呼ぶなどという幻を夢見た夜も――確かに、あったのだ。
ツェイは瓦のうえへと片手をつくと、静かに指先へと力を籠めた。触れた皮膚越しに、冷えた屋根の感触が伝わってくる。
「……このままで構わぬよ」
今度は、すこしだけやさしく紡ぐ。言い聞かせるのではなく、そっと撫でるように。この冷たさも、空虚な胸の隙間も、すべてを受け容れんとするかのように。
書斎には、まだやりかけの仕事が残っている。このあとひたすらに没頭してしまえば、この行き場のない気持ちもすこしは紛れるかもしれない。
けれど、耳を澄ませば木々に染む梟の声が聞こえた。庭のほうからは、眠りにつこうとする樹霊たちのちいさな気配もする。
幾つもの命がそこに在る。だのに、己を呼ぶ者は誰も居ない。
「……もし、いつか」
無意識に毀れた声。けれど、その先を紡げない。湯呑みを両手で包み込むと、ツェイは茫々とした天穹を仰いだ。
もし、いつか。
この夜に彩をくれる誰かと、出逢えたならば――。
「……いや、よそう」
薄く笑いながら、淡く瞼を閉じる。叶わぬ未来へと手を伸ばしても、掌を掴み返してくれる者などいるはずもない。成り損ないの物語は御伽話にはなれぬまま、こうしてこの先も続いてゆくのだ。
――けれど、それでも。
屋根のうえ、初冬の霜手前。
まだすこしだけ温かい珈琲を一口飲むと、その微かなぬくもりに掌を添えながら夜の底を見つめ続ける。
独りで、構わぬよ――。
ツェイは幾度も繰り返す。
ほんとうはその胸裏の片隅で、まだ名も知らぬ唯一をただ密やかに待ち続けていることに、気づかぬふりをしたまま。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功