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√ブラック・ゴッド『金山毘売神』

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●√
 闇に明滅する光があった。
 それは音と共に生まれ、闇に消えていくものであったが、異様に力強く感じられてやまなかった。
 閃光。
 暗闇に塗れた視界の中に散る火花。
 その火花の中心にあるものに固い何かが打ち付けられて、光が生まれたのだと自覚したが、やはりそれは視覚的なものでしかなかった。
 音は身を打つ。

 また、闇に明滅する光。
 先程よりも大きく、それでいて強烈に光を放っている。
 打ち据えられる音も、頭の中を反響して鳴り響くようだった。
 けれど、やはり現実味がない。
 そこで漸く、自分はこれが夢なのだ、ということを自覚した。
 よくわからない。
 身に覚えのない光景だった。
 けれど、暗闇の中で、片目を瞑るとより火花が鮮明に映し出されてやまない。
 額に汗が浮かぶ。
 それは比喩ではなくて、純粋に己が寝汗をかいているのだ、と理解できた。だが、体は金縛りにあったように動かない。
 なのに、暗闇の中で明滅する火花は、段々と己に近づいてくる。

 目を開けていられない。
 だが、見なければならないと思った。
 何故ならば――。

●√
「――ハッ……!!」
 身を起こす。
 額から流れる汗が鼻の頭を滑り落ちて、ぽたりと音を立てて落ちた。
 視界がぼやけているが、段々と霧が晴れるように朝日が差し込む自分の腰元を明らかにしてくれる。
 黄昏・剱(鋼焔の後継・h09087)は、自分の心臓が鼓動を打つのを自覚した。
 胸に当てた手。
 無意識であった。
 嫌な、とは感じない。あれが悪夢だとは思いたくない。そう考える自分がいた。
「なんだったんだろう……」
 夢を自覚して、覚えていられるのは、確か……なんと言っただろうか。
 どうも上手く思い出せない。剱は頭を振った。
 汗が散る。
 思った以上に寝汗をかいてしまっていたようだ。

「うっ……気持ち悪いな」
 まだ中秋とは言え、朝晩は涼しくなってきている。
「これから受験だっていうのに、風邪なんて洒落にならない……着替えないと、いや……その前にシャワー……は、使わせてもらえるかな。いや、いいや」
 軽く体を拭くだけにしておこう。
 そう剱は思ってベッドから立ち上がる。
 我が家であったのならば、シャワーを使うことを心配するのは寝ている家族に対して気を使う程度のものであっただろう。
 だが、ここは我が家ではない。
 養護施設だ。
 彼に親類縁者はいない。
 言ってしまえば天涯孤独の身である。
 それ自体は、もう飲み込んだことだ。もう気にしていない。
 それよりも気になっているのは、今後のことだ。

 剱は寝間着を脱ぎ、軽くまとめてから備え付けのクローゼットに置かれたカラーボックスからタオルを一枚取り出して上半身を拭き始める。
「それにしても最近よく、あの夢を見るような気がする。なんでだろう」
 わからない。
 いや、夢のことはいい。
 それよりももっと気にしなければならないことが、自分にはあるのだ。
 そう、将来のことである。
 剱は天涯孤独の身である。養護施設に厄介になっている、という自覚がある。
 確かにこの養護施設は、法改正やらなんやらで本人の状況などを考慮して22歳まではいることができるようになっている。
 けれど、剱は早く自立したいと思っていた。
 じれている、というよりも何かに急かされているように思えてならないからだ。

 何時も感じていることだ。
 どことなく陰鬱な空気が漂っている。なのに猥雑な喧騒だけは耳を打ち据えるように響いてくる。
 いつも薄暮のような薄いヴェールに視界が覆われているように思えてならない。
 どうしてこんな風に考えてしまうのだろうか。
 常にそう剱は思っていた。
 だが、答えは出ない。
 何かがおかしい、という脅迫的な何かに喉元を掴まれているような、そんな息苦しさを感じるのは、きっと自分の置かれた状況が同年代の者……つまりはクラスメイトたちと違うからなのかも知れないと思ったのだ。
 なら、自立して社会にでれば、この薄暮のような陰鬱な空気も打破できるのではないか、と思ったのだ。
 とは言え、まだ年齢的には中学生。
 来年は受験に成功すれば、高校生になるが、それも今のままでは、もしかしたら危ういのではないか、と剱は悪い方に悪い方に考えてしまうのだ。
 汗を拭ってシャツの袖に腕を通す。
 朝食を食べれば、すぐに学校に向かわねばならない。
 なんとも忙しないことであるが、これもまた学生の本分なのだと言われたら、そうなのだ、と納得するしかない。
 剱は夢の残滓に後ろ髪を引かれるように登校の準備を終えて、養護施設の自室のドアを閉じた――。

●√
「はぁ……」
 ため息が出る。
 どうしてだろうな、と頭の中で考えがまとまらないままにぐるぐると渦巻いている。
 通学路を見る。
 誰もが下を向いている。
 参考書であったり、単語帳であったり、まあ、それはそうか、と思う。
 だが、誰もが暗い表情をしているように思えてならない。
「よぉ」
 短い声に振り返る。
 そこにいたのは、クラスメイトの男子生徒だった。
 同じ学生服。
 短く刈り上げられた髪型は、どこか溌剌とした印象を与えるが、それでも少しばかり陰りが見えるのは、彼が同学年であり、受験を控えているからだろう。
 いや、違う。
 彼は確か、部活動で推薦が決まっているはずだ。
 確か……テニスだっただろうか。いや、バスケットだったかもしれない。

 それくらいのあやふやさ。
「おはよう。なにかいいことあった?」
「いや、これといって。ただ、ほら、なんつーかさ」
「ああ、もしかして。受験組に気を使ってる、とか?」
「それ! いや、自慢ってわけじゃあないんだがよ……」
「推薦決まったんでしょう? おめでとう。よかったじゃないか。一抜け、だよ? いいことじゃないか」
「あいや、言わせたみたいでなんだけど、ありがとな」
 そう言うクラスメイトの言葉に剱は違和感を感じた。
 どうしたのだろうか。
 推薦が決まって、鬱屈たる受験から解放されたのだから、もっと喜んでもいいではないか。もしも、自分が同じ立場だったら、もっと喜ぶはずだ、と剱は思ったのだ。

「浮かない顔をしてるね」
「うーん、まあ、そう、なのかな……」
 歯切れの悪い言葉である。
 何か言葉を選んでいるようでもあったし、言葉を掴みあぐねているようにも思えてならなかった。
「実はさ……最近、あいつから連絡がなくって……既読もつかねーんだよ。|黄昏《おまえ》、あいつと委員会同じだったろ? なんかこう……」
 ああ、と剱は頷いた。
 クラスメイトの言う『あいつ』というのは、学校の委員会で剱と同じ役員をしている女子生徒のことだ。
 クラスメイトの彼とは付き合っている、ということはクラスの中では公然の事実であった。
 彼らは隠しているようであったが、そこままた微笑ましいと言えば微笑ましかった。態度でバレバレだったけどね、と剱は思っていたが、今は口にしなかった。
「確かに同じ委員会だったけれど、君に対しての不満らしいことは何も言っていなかったし、聞いてなかったよ。あ、そう言えばこの間の……」
「何だよ何かあったのか!?」
「別に隠しはしないよ」
 掴みかからんばかりの勢いでクラスメイトが詰め寄ってくる。
 目がつり上がっている。
 それだけ、彼女からメッセージアプリに既読がつかないことを気に病んでいるのだろう。確かに、それは受験よりもともすれば一大事かもしれないな、と剱は思った。
 だから、安心させたい、とも思ったのだ。

「誰かと何処かに出かけるんだけれど、どんな格好がいいのか、みたいな話を友達とはしていたよ」
 きっと彼とのデートか何かの約束があったのだろう。
 楽しげに友人と隠れるように内緒話をしていた彼女の顔を思い出したのだ。
 であれば、だ。
 クラスメイトの彼が彼女に対して何かしらの粗相を起こしてしまった、ということはないはずだ。もし、そうなら、きっと彼女はそんな風に笑うことはなかっただろうと思ったのだ。
 自分の言葉は彼を安心させられただろうか?
「そ、そうかよ。なら、いいんだけどよ……けどよ、なんか最近変じゃあないか?」
「変、って?」
「いや、誰かに見られているような気がするんだよ。ずっと。これって受験ノイローゼってやつか?」
「推薦決まった人はノイローゼにならないでしょ」
 その言葉に彼はそれもそうか! と笑っていた。
 だが、完全に笑いきれていなかったように思えた。きっと既読のつかない恋仲の彼女のことがまだ頭の片隅に引っかかっているのだろう。
 大変だな、と思いつつも、剱はいつか自分も彼のように誰かを好きになって、そのことで頭がいっぱいになる日が来るだろうかと考えるばかりだった。

 しかし、数日後。
 そんな話をした彼がどうやら学校に来ていない、というのだ。
「どうして?」
「知らないよ。どうせ推薦が決まったからって彼女と遊び呆けてるんじゃあないのか? ほら、あいつの彼女も推薦組だろ? 今頃仲良く何処かで……」
「……そういうもの、かな?」
「そうだろ。いいよな。推薦組ってのは。気楽でさ。こっちはまだまだ追い込みをかけなきゃいけないって時期なのに。早々に進路が決まって安泰で。羨ましい限りだって」
 クラスメイトの言葉に剱は、僅かでも同意しかけたことを恥じた。
 確かに推薦が決まった彼らは受験に対して自分たち以上に取り組むことはない。
 けれど、進学すれば、また同じスタートラインから始めなければならないのだ。
 それに、だ。
 彼らがスポーツで推薦を獲得したのだとしても、それは彼らが一生懸命取り組んだ成果だろう。
 自分たちが勉学に励んで合格を得ようとすると何が違うというのだろう。
 タイミングがあったのかもしれない。
 境遇の違いがあったのかもしれない。
 環境が良かったのかもしれない。
 色んな要因があろうとも、それも含めて彼らの力なのだ。それを羨むのは、どこかお門違いに感じられてならなかったのだ。

 自分の今手の中にあるもので、一つ一つ積み重ねていかねばならないのではないか。
 そんな風に思ったのだ。
 だが、剱も思うのだ。
 最後にクラスメイトの彼と交わした言葉がひっかかっている。

『誰かに見られているような気がするんだよ』

 その言葉が頭の中で反響している。
 あの時はそう感じることはなかった。けれど、今は実感できてしまう。
 確かに誰かに見られているような気がする。
「僕だけ、じゃない……みんなが何かに見られているような……学校全体が、そう、なのか?」
 剱は、このおかしな空気に疑問を抱き始めていた。
 確かに受験シーズンが始まったことは間違いない。
 今しがた話していた彼と同じように、誰もが神経を尖らせ始めるのも無理ないことだ。けれど、それにしたって、あまりにも過剰ではないか。
 攻撃的というのか、それとも何かに反応しているような気がしてならない。
「受験ノイローゼってやつなのかな。本当に」
 養護施設の先生に相談したほうが良いのだろうか。
 不安が込み上げてくる。
 だが、その不安の大本が、わからない。
 受験ノイローゼという言葉で片付けて良いのだろうか。いや、よくないと思えてしまう。
 あのクラスメイトの彼も言っていた。
 彼もこんな不安を抱えていたのだろうか。受験に対する不安ではない不安があるのだとしたら、それは一体何なのか。

 わからない。
 何もかもがわからない。
 世の中のことを知るには早かったけれど、耳ざといのであれば、薄っすらと知ることもできる。
 けれど、それだけでは言い表せない。
 社会全体、いや、もっと言えばこの世の全てに対して、何か鬱屈とした物を感じてやまないのだ――。

●√
 不可思議なことが頻発している。
 あれから、クラスメイトの……いや、クラスメイトの数は30人だった。誰も欠けていない。何事もなく、皆、受験に向けて勉強に励んでいる。
 けれど、教室の中に誰も使っていない机と椅子が、まるでモニターのドット欠けのように存在している。
 誰も気にしない。
 どうして、その席に誰もついていないのかを気にかけないのか。
 わからない。

 剱は首を傾げる。
 けれど、すぐに気にならなくなってしまう。視線を逸らせば、すぐに何事もなかったように黒板を板書するのだ。
 集中しなくちゃならない。
 確かにまだ志望校を絞りきれていない。
 成績は優秀というところではあるが、こうも集中できぬままに受験を迎えれば、どうなるかなんて明白だった。
 だから、集中しなくてはならない。
 なのに、剱の脳裏という暗闇に光が明滅する。

 打ち据える音が体の中に響く。
 いつだったか、夢を見た。
 あの夢の中の光景は、白昼夢のように己の脳裏を染め上げる。
 その度に自分が何をしていたのかを忘れてしまうのだ。あの明滅する光は、それくらいに剱の中に響いては何か衝動めいたものを走らせて止まないのだ。
「……やらなきゃ、ならないのに……どうして集中できないんだ……」
 白いノート。
 走らない鉛筆。
 消しゴムのカスばかりが溜まっていく机。
 広げた教科書の片隅に踊る文字。
 何も、集中できない。
 今、やるべきことはわかっているのに、『本当に』しなければならないことがあるというかのように、気も漫ろになってしまうのだ。

 息を吐き出す。
 まるで自分の吐息が煮凝りのように白紙のノートに落ちていくような気分であった。
 ダメだな、と剱は席から立ち上がる。 
 ここでは集中できない。 
「図書館にでも行って、そこで勉強しよう」
 そう思って立ち上がる。
 学校の図書館は、なんだか居心地が悪い。
 なら、市立図書館に行こう。
 あそこならば自習室だってある。みんな同じように受験勉強をしているわけだから、嫌でも集中できるだろう。
 そう思っていたのだ。
 だが、市立図書館からの帰り道、剱はまた煮凝りのようなため息を吐き出していた。

 夕暮れ。
 差し込むような橙色の夕日が眩しい。
 歩く度に気が重たくなってしまう。
 まったく集中できなかった。
「なんで、なんだろう……」
 理由はわからない。
 何か、喉の奥で小骨が引っかかっているような違和感が、ずっと身につきまとっているのだ。
「本当のノイローゼ、なのかも……」
 少しでも早く自立するためには進学が必須だ。
 大学に通うにしたって、給付型の奨学金がほしい。そのためには成績優秀者でなくてはならない。
 周りの人もそう言っていた。
 けれど、だ。

 自分が具体的に何かを目指している、というわけでもない。
 何が勉強したいのか。
 何をしたいのか。
 それがわからない。奨学金を得るためだけに勉強しているような毎日だから、こんなことを思うのだろうか。
 いくつかの学校を見学しにも言った。
 普通科だけじゃあない、工業系の学校も見てみた。
 だが、あまりピンと来なかったのだ。
「伝統工芸とか、美術系とかって全然想像できないんだよな……ああいうのって特別な才能がないとダメなんだろうし……成功するって約束されてないしなぁ。チャレンジというのはハードルが高すぎるよ」

「なぜ?」

 その言葉は、薄暮のごとき夕暮れの中で嫌に鮮烈に響いた。
 少女のようでもあったし、また同時に大人びたような理性の塊のようにさえ思えた声色だった。
 振り返る。
 剱は自分の影で『それ』がなんなのか咄嗟に理解できなかった。
 伸びる影の奥。
 そこにあったのは、金色の瞳。
 爛々と輝く瞳が、そこに浮かんでいた。

 その金色の瞳を見た瞬間、剱の中で何かが動き出した。
 いや、動き出したのではない。
『浮かび上がってきた』のだ。
 そう、今の今まで忘れていた。
 無も忘れたクラスメイトたち。欠けた教室の風景。
 何も疑問に思わなかった。『忘れようとする』かのように、剱たちは忘れ去っていた。
 何故か。
 それは、あまりにも凄惨な出来事だったからだ。
 覚えているには、あまりにもつらすぎる現実だったからだ。
 だから、『忘れようとする力』によって剱は、彼らのことを、欠けたクラスメイトたちのことを忘れてしまっていたのだ。

 ――と、いうことを剱は『思い出してしまった』。不幸にも、だ。
 そう、不幸だ。
 剱は生まれながらにして不幸な存在である。
 身寄りはなく、養護施設で過ごした。親もなく、兄弟もなく、それでいて悪夢にだけはうなされる。
 将来への漠然とした不安。
 漫然とした鬱屈とした空気。
 どれもが彼を苛み続けていたが、正気を保ってこられたのは、他ならぬ『忘れようとする力』があったからだ。
 けれど、今、それが。

「どうしてチャレンジするにはハードルが高いの? なぜ?」
 眼の前の金色の瞳をした歳の頃は剱と同じくらいの……闇を溶かしたようなセーラー服を着た少女が告げた言葉で、全てが浮上していた。
 闇のようなセーラー服の中で朱色のスカーフが鮮烈に見えた。
 だからだろうか。
 彼女が手にしていた日本刀に疑問を抱かなかったのは。
「は……? な、何故って……君は」
 誰、なのか。
 いや、違う。それ以前に、どうして。
 剱は己の息が乱れるのを自覚した。

 頭の中で光が明滅している。
 打ち据える音が響いている。
 そして自覚しただろう。
 暗闇の中で明滅していたのは、赤熱する鉄を槌が打ち据えていたのだ、と。
 たたらを踏むように剱はよろめき、後退した。
 だが、その分だけ眼の前の……セーラー服の処女は金色の瞳を爛々と輝かせ、己から伸びる影の中にあってなお、スカーフの朱色と同じ色をした髪をなびかせて踏み出してきた。

 喉から込み上げるものがあった。
 これは、恐怖、だ。
 何故、と思う。
 彼女が手にした日本刀が、そうさせるのか。確かに恐ろしい。剣呑な鋭さを持っている。
 けれど、どこか浮世離れしていた。
「質問しているのは、私。あなたは、質問された、だけ。だから」
 閃く。
 よろめく。
 剱は、自分の右半身が一気に重くなったように感じたのだ。バランスを崩した、と思った瞬間、重たい音が響いた。
 視線を向ける。
 そこにあったのは、腕だった。
 左、腕。
 学生服に包まれた、腕。

「……――ッ!?」
 激痛。
 雷光が走るような痛み。目が明滅する。
 声がほとばしったが、それはまるで自分の声とは思えないほどの絶叫だった。
 喉がひりつく。
 痛い。それだけが頭の中に響く。
「答えて。なぜ?」
「な、に、が……?! 一体、何が……!? なんで、どうして、僕の腕が……!」
「私、質問しているの。答えて。答えてくれない、なら」
 白刃が閃く。
 脳にまで響く音。
 視界が真っ赤に染まる。
 左側が塗りつぶされる。激痛が走る。ぐり、と音がして引き抜かれた、と自覚できたのは、不幸だった。
 白刃……セーラー服の少女が手にした日本刀の先には、白く血に塗れた何かがあった。

 それが何なのか理解した瞬間、剱は己の左目……いや、もはや眼球などなき、眼窩に激痛が疾走ってのけぞり、絶叫することしかできなかった。
 悲鳴。
 自分ではない誰かが叫んでいるようにさえ思えただろう。
「どうしてあなた達は何も答えてくれないの、かしら。いつも、痛みに喘いで、ばかり。だから」
 死んでしまうのよ、と彼女はそう呟いた。
 何を言っているのかわからない。
 どうして自分がこんな目にあっているのかわからない。 
 わからないことばかりなのに、剱は理解できてしまっていた。そう、常に感じていた視線。
 それが、彼女だったのだ。
 彼女はどういう理屈かはわからないが、ずっと自分たちを見ていたのだ。
 どんな理由があったかなんてわからない。
 けれど、確かに自分たちを見ていたのだ。

「不思議、なの。あなたたちは無目的に生きているのに、目的を探し続けて、いる。目的を探すことが目的、なんて、そんなの生きているって、いわない、でしょう? だから、私、疑問、だったの」
 たどたどしく彼女は絶叫を迸らせる剱に告げた。
「ああ、そう、だわ。この前は違った、わ」
「な、に、が……」
「彼女と一緒にいることが目的だって言っていた、わ。そんな男が、一人、いた、の。もう、その彼女、とやらは、いないのに、ね。目的が存在しないのに、それを目的にする、なんてとっても、おかしいこと、だわ?」
 ふ、ふ、と小刻みに彼女は笑っていた。
 その言葉に剱は痛む左目を抑えながら、あふれる血の熱を感じる。
 己の血潮は、まるで火傷するかのように沸騰していた。

 何故なのか。

 もうわかっている。
 これは怒り、だ。
 眼の前の少女が何を言っているのか、多くは理解できない。
 けれど、剱の中で、何かが繋がっていった。
 既読のつかない彼女。
 それを案じていた彼。
 そんな彼を『忘れていた』自分。
 そう、この世界には多くの理不尽や不幸や、恐ろしいことが数多く犇めいているのだ。
 だから『忘れて』しまっていたのだ。

 忘れることは不幸じゃあない。
 幸運なことだ。
 恐ろしい出来事に遭遇しても、忘れてしまえる。抱えることがない。覚えておくことができない。それは幸せなことだ。
 不幸から遠ざかる最も良い方法だった。
 けれど。
 不幸にも、剱は思い出してしまった。『忘れようとする力』を振り切ることのできる何かを持ち得てしまっていた。
「……何が、おかしい」
「……? あなた、もしか、して」
「何が、おかしい!!!」
 咆哮する。
 怒りが込み上げた。 
 不幸にも思い出してしまったことへの怒り、ではない。
 徒に生命を弄ぶ者への怒りが、そこにはあった。
 確かに、『忘れてしまっていた』彼らと剱は特別親しかったわけではない。けれど、それでも一緒に生活してきたのだ。
 僅かな時であれ、だ。
 それだけで剱には充分だった。
 理由にするには、充分すぎたのだ。

 だからこそ、喪った左目から溢れる血潮は沸騰していたのだ。
 怒りに。
 そして、何よりも。
 己が身に流れる血統が、眼の前の存在を許すなと熱を帯びていたのだ。
 脳裏で光が明滅する。
 打ち据える音は、撃鉄が振り下ろされた音に似ていた。

 喪った左腕。
 噴出する血潮が、落ちた左腕の傷口に触れた。
「あなた! もしかして!!」
 少女が初めて笑った。
 朱色の髪は、炎髪のごとく立ち上る。
 手にした日本刀が鳴動するように震えていたのは、彼女が相対する剱の咆哮ゆえであった。
 血潮で繋がれた左腕が跳ねるように宙を舞う。
 その最中、剱の左目に不可視の怪物の姿が映し出された。
 眼球失いし眼窩には、虚しかない。
 なのに何故、不可視の怪物の姿が映し出されたのか。
 言うまでもない。
 そこに金色の瞳が、すでに在ったからだ。そして、その左目を中心にして流れる血潮は鋼に変貌し、まるで外骨格のように剱の体を覆っていく。
 それはまるで鬼の如き姿であった。

「ああ、ああっ! やっぱり、やっぱり、そう、なの、ね! あなた!!」
 少女の声は遠い。
 だが、構わない。
 剱は無意識にも踏み出していた。
 アスファルトを踏み砕き、一気に肉薄する。翻る白刃に叩きつけられた鋼の外骨格に覆われた拳が大気を震わせ、衝撃波で周囲を破壊する。
 電線が揺れ、引きちぎれて鞭のように跳ねた。
 電灯は掻き消え、夕暮れを通り越して、夜の帳が降ろされた街路を暗闇へと叩き落とす。

 その最中、少女は炎髪を揺らめかせながら笑っていた。
「あなた! 私、よ! わからないの!」
 知らない。
 知る由もない。少女がどうしてあんなにも喜色満面なる笑みを浮かべるのかもわからない。
 けれど、たった一つ確かなことがある。
 |鋼焔の鬼神《アーキタイプ》となった剱は、彼女を許せない。
 外骨格がうねるようにして左腕に集まっていく。
 そして、撃鉄を叩きつける音が何度も響き渡り、剱の手には焔を纏う両刃の大剣へと変貌させていくのだ
「やっぱり、そう、なの! 私、かなやま、ひめの――!」
「知らない……知るもんか!! お前ッ!! だけは……ッ!! 許さない……!!」
 振るわれる斬撃は、薄暮の如く空気ごと、暗闇を切り裂く閃光となってほとばしった――。

●√
 生きている。
 それが実感できた唯一のことだった。
 切り落とされた左腕も、貫かれ、えぐられた左目も元通りになっていた。
 だが、己の学生服を染め上げる血だけが変わらなかった。
 それが、今まで見てきたものが全て現実だったのだ、と剱に知らしめた。
 何が起こったのかもわからない。
「僕は死んだんじゃ……?」
 わからない。
 一体何が起こったのかもわからない。
 死んだはずだ。
 なのに、生きている。
 どうして、自分だけが今もこうしているのかわからない。
 あの少女のことも。
 何もかもがわからない。
 本当に何も、わからないのだ、と剱は泣き出したい気持ちを堪えるように暗闇の空に明滅する星々を喪われたはずの左目を潤ませて見上げることしかできなかった――。
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