ヤドリギと魂の楔
葉の擦れ合うざわめき、地を踏み締める音だけが響く静寂の森。
凍てついた月光が差す、時の流れを感じさせる蔦が這った家の死骸の前。たったふたりきりの兄弟が立っていた。
一歩、踏み出すごとに瓦礫が乾いた音を立てて崩れる。かつて二人の笑い声が響いていた廊下の成れの果て。
シリウス・ローゼンハイムは、足元の悪い場所でプロキオン・ローゼンハイムが躓かないよう、無意識に手を後ろへ差し出した。
その指先を、プロキオンが躊躇いなく、しかし壊れ物を扱うような慎重さで握りしめる
かつて彼らが住んでいた場所。
今はもう、亡くした両親と共に壊れてしまった場所。
兄の消して埋まることのない欠落が産まれ、そして落とした場所。
弟が√能力者として産声を上げた兄に寄り添い、今の関係が始まった場所。
──だからこそ、シリウスとプロキオン。彼らローゼンハイムの兄弟が誓いを交わすに相応しい。
黙ったまま、瓦礫を見つめる兄の手に、弟の手がより強く握る。
指先が痛み、肺を焼きそうなほどの冷気が元より低い体温を奪い、触れ合った感覚すら覚束ない。
それでも、微かな熱を分け与えるかのように絡め合って耐え忍んだ。
言葉の代わりに吐き出した吐息は白く、視界が霞む。
揺蕩うそれは混ざり、溶け合い、まるで霧のカーテンで覆ったかのように世界から兄弟を隔てた。
なにも聞こえない、届かない。互いの息遣い以外は。
ひとりとひとり。その境界さえ曖昧になっていく感覚に陥りながら、やがて視線がどちらからともなく交差する。
戸惑いすら感じさせる緩慢さで、ゆっくりと少しずつ、距離が縮まっていく。
零になるまであと一歩。 その最後の一歩を踏み出したのは、どちらからだったのか。
かつて青々と葉が茂り兄弟を見守っていた家の傍の木は枯れ果て、丸いヤドリギだけが実をつけていた。
︎✦︎
──ヤドリギの下でキスをしてごらんなさい。
そうすれば、あなたの大切な人との愛は末永いものとなるでしょう。
ある日、プロキオンはそんな噂を耳にした。
そして思い立つ。今が、その時だと。
「そうでしょう? 兄さん」
「……ロキ?」
シリウスの瞳は戸惑いに揺れた。
よく似た血のように赤いガーネットが真剣さを帯びて見つめ、視線が交差する。
喉元を突き刺されるかのような鋭さ。逃げることが許されない。だというのに、それが嫌ではないのだから笑えなかった。
射すくめる側である弟ですら、息が詰まる。兄だけが呼ぶ愛称が耳をくすぐる度に、心臓の裏側が焼け付くような感覚に陥るのだから。
結局のところ緊張に唇が震えたのは、どちらだったかは分からない。
けれど、強く噛み締め、ふっと緩めた唇から先に言葉を紡いだのはプロキオンだった。
「責任を取ってほしい。 僕に、依存をさせた責任を」
両親を失い、たったふたりきり残ったローゼンハイムの兄弟。
弟は全て覚えている。しかし、兄は両親の記憶までもを失ってしまった。
人の死は二度あるという。最初は肉体の死。そして、忘れ去られることによる、永遠の消滅。
──それは忘れた者も、同様ではないだろうか。その人を形成する思い出を欠いてしまえば、同じ人だと言えるのか。
答えはきっと、永遠にでない。
しかしプロキオンにとって、シリウスだけがその手に残った唯一の家族。欠落を孕んだ、大切な兄だけが。
もう失いたくないのだ。ずっと永遠に、傍にいてほしい。
シリウスは己の罪を自覚する。
いや──正確に答えるのならば、罪とは思えなかった。
『可愛いな、ロキ。 本当に可愛い』
可愛い弟に「可愛い」と伝えるのことの、
『今どこにいるんだ? 俺のロキ』
大切な弟へ何度も連絡することの、なにがいけないのだろうか?
ごく一般的な兄弟とは違う、重たすぎる感情をぶつけてしまっているとは理解している。
だが、他の兄弟なんて存在と比べてなんになるのか。この想いはふたりの、シリウスだけの想いなのだから。
それによって弟を兄へ依存させてしまったことは、確かに罪なのだろう。
こんなにも甘いものが罪でいいのか、分からないけれど。そう呼ぶのなら、彼は一生をかけてその罰を受け入れる他なかった。
重たい感情を毎日。水を注ぐかのように与えられて、正常でいられる者などいるのだろうか。
いるはずがない。それがかけがえのない大切な存在ならば、なおさらに。
ぶつけられた想いは蓄積し、育ち、やがて花を咲かせる。
「兄さん……僕に、わざわざAnkerだと明かしたのは、どうして?」
「それは、ロキ……事実だからだ」
可愛くて、いとおしい弟。プロキオンがAnkerでなければ、他に誰がなるというのか。
その理由もまた、シリウスなりの真実だろう。
しかしそんなもの、上澄みのような理由だ。 少なくとも、プロキオンにはそう思えた。
「違うでしょう? 僕に、自覚させたかったんだ」
Anker──√能力者を人の世に|留まらせる《縛り付ける》楔。
愛であったり、憎しみであったり……その在り方は様々で。力がないにも関わらず、√能力者を唯一殺せる存在。
これ以上ないほど特別なもので、重い。
そんな存在だと自覚させることほど、楔に相応しいものはないだろう。
兄のAnkerであると弟が認識したことで、お互いがお互いの楔になった。
シリウスはなにも言えなかった。
普段ならば気さくに言葉を紡ぎ、弟を構いたくて動く口は噤まれている。
違うとは言えなかったし、言うつもりもない。
ただ、どんな風に想いを形として表せばいいのか悩むのだ。
この感情の始まりは、欠落によってぽっかりと空いた穴を埋めようとした。その、延長線。
|失く《欠落》してしまった|両親《思い出》を、唯一残った弟で行う埋め合わせだった。
なのに、時を共に過ごし愛を囁いていくうちに。
(──気が付いたらこんなにも家族、そして人として愛してしまっていたんだ……)
そんな想いを、どうやって伝えても足りやしない。
どんなに飾っても、正確に伝えきる自信がない。
「依存しているのは俺のほうだというのに……」
だから。
根幹に根付いて、シリウスにも花開いてしまったそのままを、シンプルに零すしかなかった。
これが恋ならきっと、楽だった。
熱病が治るように、いつか冷めたかもしれない。誰かと天秤にかけて、大切なものを増やせたかもしれない。
幸か不幸か、これは愛だった。
もし兄弟でなければ、もっと優しい恋を共に育てていけたのかもしれない。
──そんな考えは、自分自身に即座に否定される。
兄弟という逃げ場のない血の繋がりが永遠に魂を縛り付けるからこそ、この楔がどこまでも愛おしく感じられるのだから。
──だからかと思う。
弟は言った。 「責任を取って」と。
ならば応えるのは兄の義務で、彼だけの権利だ。
ゆっくりと立ち上がる。
“責任”を果たすのなら、もっとも相応しい場所へ。
ふたりの、終わって始まった、あの場所へ。
︎✦︎
零になった距離から、指先から、熱の低い体温が混ざる。
兄から弟へ、弟から兄へ。 ゆっくりと循環し、溶け合って。
吐き出した呼気が本当に白くて、ヴェールのようで互いの顔がよく見えない。頬にそうっと触れて、ここに間違いなくいるのだと確かめる。
引き寄せられて、見下ろし、見上げる。
責任を取るとは、重たい行為だ。緊張に強ばってもおかしくはない。
しかし、兄弟の顔は熱に浮かされたように、やわく笑みを載せていた。
「俺は改めて誓おう。 欠落がたとえ埋まったとしても、兄として、一つの魂として……プロキオンを永遠に愛することを」
シリウスは、瞳を閉じない。
弟の表情の動き、睫毛の微かな揺れさえも見逃さないために。
自分の人生を全て預けるような、重く、静かな圧をかけ、弟の願いを受け取ろうと顔を寄せる。
「僕も……これからも弟として誓うよ。 一つの魂として、シリウスを永遠に愛することを」
プロキオンも、視線を逸らさない。
微かに震える唇も、兄の覚悟も、欠片とて取りこぼさないように。
重みを心地よく受け止める。呪いにも似た切実な願いを込めて、早く触れたくて、顔を寄せた。
やわらかくて冷たい、唇と唇が重なり合う。
甘くて、甘すぎて苦い、|蜜《キス》の味。
触れ合う唇からは、鉄の匂いを孕んだ冷ややかな血の香りがした。唇を介して、互いの鼓動がひとつに同期していく。
零、なんて生温い距離じゃない。ふたつに別たれていたものが、ひとつになった。ずっとこうして、ひとつの器に戻りたかったのだ。
交わった想いを、ヤドリギが見ている。全てを食い尽くし、青々と茂る丸い木が。
交わった誓いを、家が見ている。ふたりをずっと育んで、終わりと共に朽ち果てた家が。
ふたりの誓いを、見届けていた。
重なり合った熱が、名残惜しそうに離れていく。
その隙間を、再び凍てついた森の空気が満たしていくけれど、もう寒さは感じなかった。
シリウスがプロキオンの額に、慈しむように自分の額を預ける。
近すぎて焦点の合わない視界の中で、お互いの睫毛が触れ合い、微かな笑みが零れた。
ヤドリギの下に立つ彼らはもう、ただの『兄弟』という言葉では括れない、たったひとつの魂となる。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功