その花は、まだ揺れていた
その|悪夢《ゆめ》は、|夢《うそ》ではなかった。
もう誰も知らない。公になる事はない。記録にも残されていない。
然し世界の片隅で起きた|現実《かこ》。
焼け落ちた焦土の中、灰に埋もれ眠る事も赦されず、|奇跡的《・・・》に生き残ってしまった少年の|真実《きおく》である。
覚えているはずがない。
あの凄惨な光景を体験し、心を壊さぬ者などいないのだから。
――|悪夢《たたかい》は、終わったはずだった。
「バカで――」
電子の泡が砕け散る。現実が再開されたのを確認したウィルフェベナ・アストリッド(奇才の錬金術師・h04809)が振り返れば、千堂・奏眞(千変万化の|錬金銃士《アルケミストガンナー》・h00700)の身体は既に傾いでいた。張り詰めていた糸がぷつりと途切れたように脱力し、地面に崩れ落ちるその前にウィルフェベナの腕が奏眞を抱き留める。
蒼白した顔と浅い呼吸。
ウィルフェベナを庇った際の傷も決して深くはないはずだ。
「やはり、無理矢理悪夢を見せられたからか」
先程まで対峙していた敵との交戦を思い起こせば、想像に難くない。
戦場に在ることはそれだけで精神を削る。命の確保、敵の殲滅、仲間への配慮。気を抜ける瞬間などありはしない。然し戦いが終われば一転し穏やかさを取り戻す必要がある。
元凶が消え、深呼吸する間もなく、ウィルフェベナが傍にいたことも相まって奏眞は意志を手放してしまったのだろう。
きっと一人であったならば、――それこそが彼の危うさなのかもしれない。
『む、|ムゥム《夢の精霊》っ!』
『任されたぁー!』
|ルミィ《光の精霊》の掛け声を合図に|ムゥム《夢の精霊》が慌てて奏眞の中へ潜り込む。眠りは脳の整理の時間。つまり|再び《・・》悪夢を見る可能性が高い。脳裏に焼き付いたものは繰り返されてしまうから。魘されるような唸り声が奏眞から零れた。その予想は当たってしまっているのだろう。
眠りは休息になるとは限らない。
闇へ落ちる引き金にもなるのだ。
『|ムゥム《夢の精霊》、さっきは弾かれちまってたけど今度は大丈夫だよな?』
『だ、大丈夫だと思う、です。さっき、弾かれたのは相手の√能力のせいだろうし……』
心配そうな|ファム《火の精霊》に対し、|ヴィータ《生命の精霊》は憶測しか口に出来ない。
見えない手が彼の眠りを乱暴に攫ってゆく。|精霊《インビジブル》の力では簒奪者の強力な√能力に抗う事は難しく、先程は弾かれてしまった。|ムゥム《夢の精霊》が姿を見せないということは恐らく今度こそ手は届いているのかもしれない。
「とりあえず、後片付けは他の|者《ヒト》に任せて私たちは先にお暇しよう」
バカ弟子が風邪をひく前に、とウィルフェベナは奏眞を抱き上げる。
『じゃぁ、休める場所に案内するのー!』
『|ここ《√EDEN》でも|アトリエ《テント》を出せそうな場所があるからなぁ。そこまで行こー』
|テト《風の精霊》の言葉に頷き、|スゥ《土の精霊》が先導役となってウィルフェベナを案内を始める。まだここが戦場である事に変わりはなく、新たな簒奪者が出現しないとも限らない。空気に残る鉄錆の匂いから早く遠ざかりたかった。
『|ルミィ《光の精霊》、|メイ《音の精霊》、フォロー』
『りょ、りょりょりょりょりょりょ了解、ですっ!』
|ネージュ《氷の精霊》の的確な指示が飛ぶ。
|メイ《音の精霊》の揺れる返事はいつもの調子だが、足音を最低限に留める術は確実に。頷いた|ルミィ《光の精霊》も迷彩処理を施した。誰にも気を止められないように。今だけは、彼らを世界から隠してあげるのだ。
灰色の地面にひとつ、|花《・》が、揺れている。
まるで奏眞を追いかけるように、風が吹いていた。
「ひとまずは、これで大丈夫だろ」
人の気配が遠い、静かな場所に張られたウィルフェベナの|テント《アトリエ》。ある程度の生活道具が揃った小さな|一軒家《テント》は薄い布で隔てただけのはずなのに、戦場の名残は遠い。此処には日々の匂いが在った。|ムゥム《夢の精霊》の尽力のおかげもあってベッドの中から聞こえる奏眞の寝息は落ち着いているようだ。先程までの苦しげな雰囲気は薄い。
『奏眞、大丈夫かな?なの~…………』
「大丈夫さ。お前たちのおかげでな」
心配そうに寄り添う|テト《風の精霊》の呟きに答えながら、ウィルフェベナは奏眞の頭をひと撫でする。
最悪の場合を想定した精霊たちの進言があったからこそ、あの場に彼女を招いておいたからこそ、奏眞は|悪夢《こうげき》から|醒め《にげ》る事が出来た。それはきっと最善の手だった。普段から錬金騎士として戦場を立ち回れるウィルフェベナのほうが、|別の選択肢《もう一人のAnker》と比べた場合、軍配があがる。実際、悪夢から覚めるまで邪魔が入らないように立ち回り、時間稼ぎが出来たのだから。
「少し休めば、いつも通りになるだろうさ」
|敵の攻撃《あくむ》がどこまで奏眞を沈めたかは分からない。
だからこそウィルフェベナはパイを焼こうと考えていた。
厄介毎に首を突っ込み情緒不安定になった奏眞がパイで持ち直した回数を数えるには、指が何人分あっても足りないくらいだ。その度に彼の舌先に温度のある甘さを置いてやった。その|幸福《ルーティン》が、息継ぎの始まりとなるように。
だからきっと、今度も大丈夫だと思うしかないのだ。
いい匂いで目覚めも良い物になるかもしれないと願いを込めて。
『ウィルフェベナのパイは、ホントに奏眞の安定剤だよね~』
『約束された、絶品料理』
準備を始めたウィルフェベナの後ろで|レニー《水の精霊》と|ネージュ《氷の精霊》が機嫌よく褒めちぎり、他の精霊たちも力強く頷く。
『どんな調理環境だろうと、味が美味いままで変わらないものなぁ』
『し、しかもレパートリーも豊富ですよね』
『本当に、なんでパイ屋さんやってないのよ……』
|スゥ《土の精霊》と|ヴィータ《生命の精霊》は感心したように頷きあい、|ルミィ《光の精霊》も五つ星が取れるくらいと追撃するが、当のウィルフェベナはどこ吹く風で気に留める様子もない。
趣味のままのほうが、真価を発揮することもある。気分の問題かもしれない。
そうして賑やかな時間が流れてゆく。日常を添えて奏眞の目覚めを待ちながら。
記憶の奥底――帰らざる地獄、あの日の|紅《・》い残響。
|改造《すくい》は届かず|天蓋大聖堂《カテドラル》に包まれていない、小さな集落。
それが奏眞の故郷だった。
戦闘機械群に怯えながらも支え合い、助け合いながら弱き者たちが懸命に日々を送る場所。苦しくも慎ましく、生活は楽なものではなくとも優しさと温かさはある。√ウォーゾーンでは珍しくない、どこにでもあるような風景、懸命に生きるもの達の笑顔が咲く場所。
「ねえ、何か手伝えることってある?」
「ありがとう。でも大丈夫だよ。妹ちゃんの所に行ってあげなさい」
「はーい!」
奏眞は健康的に生まれ育ち、|自分の《・・・》足で駆け回る元気な少年だった。
「苦しくない?」
「だいじょーぶだよ、お兄ちゃん」
暑い夏は日陰を探し、寒い冬は部屋を暖かく整え、肺が弱い妹を気遣う兄でもあった。
奏眞の優しさは家族だけではなく集落に住む人々にも分け隔てなく向けられ、その|気持ち《おもい》は背と一緒に成長してゆく。生まれ育った郷のために何かしたい、その決意は日に日に強くなり「みんなを守りたい、みんなを助けたい」と自然に口から溢れてしまうほどに。
「いい子だな」
「いつもありがとう」
決して奏眞が特別な子だったわけではない。集落で暮らす子供たちは皆同じように優しく助け合う気持ちを持っていたし、そんな|奏眞《こども》たちを集落の大人たちは見守っていた。温かい眼差しの中、幸せをひとつずつ束ねて笑顔を咲かす、そんな|日々《さと》だったのだ。
――然し、大事に積み重ねていた日々は、容易く壊されてしまう。
|悲劇《その日》は、足音もなく、何の前触れもなく訪れた。
赤い焔が空を焦がす。
人々の叫びは風に掻き消され、届かない。
妹の手を引く奏眞の目に映ったのは、言い表せない|地獄《げんじつ》。
集落から少し離れた場所へ花を探しに出かけていた。小さな冒険は帰るべき場所の方から火の手が上がったことで終わりを告げる。
急いで集落に戻った奏眞と妹が見てしまったのは、今朝まで言葉を交わし笑顔で手を振ってくれたあの人が、火の海の中で溺れている姿。まるで地獄の業火が集落を呑み込んでいるような光景に、幼い子供たちの足は竦む。
『隠れなさい』
「隠れなきゃ、」
奏眞の両親がいつも教えてくれていたこと。集落は安全な場所ではない。いつ襲撃に遭うかなんて分からない。我が子が|安全《かくじつ》に|帰って来れる《生き延びれる》ように何度も伝えていた対処法は、確かに奏眞の足を動かした。何度も、何度も、繰り返された教えを奏眞は守る。妹と共に|生き残る《かえる》ために、急いで隠れようとした。
だが、既に遅かった。
「まだ生きてるやつがいるじゃねぇか」
既に簒奪者の毒牙は背後に迫っていたから。
「っ、!!」
幼い奏眞の体は容易く地面に押し付けられ、身動きが取れなくなる。
「やだ、やめろ、嫌だ厭だいやだ……!」
「特等席だぜ、感謝しな」
頭上から降ってきたのは愉し気な嗤い声。
「たすけて……!」
「しにたく、ない」
「……ぁ、あ、う、っ」
抵抗も懇願も意味を為さない。
奏眞にとって、この集落の人々はみんな|家族《しりあい》だった。いつも優しく頭を撫でてくれた人が刃に貫かれて死んだ。毎朝元気に声をかけてくれた人の首が『アカ』を撒き散らしながら飛ぶ。厳しいけれど、誰より子供たちの将来を憂いてくれていた人は跡形もなく燃やされてしまった。
断末魔が耳から離れない。
ただ見続ける事を強要される。
彼らが死ぬところを。
息を吸うたび、砂と血の匂いが胸の奥へ沈んでゆく。吐く息に言葉は混じらない。
この|地獄《あくむ》に相応しい|感想《ひめい》などありはしないのだ。
「お前も構ってやらねえとな」
簒奪者の愉快そうな台詞を見上げる余裕なんてないまま、奏眞の腕が無造作に掴まれる。
「ひ、っ、」
「愉しめ、お前も」
目の前では集落の人々が殺されてゆく。その命が潰えるのを合図にするように、奏眞の腕が、脚が、一本ずつ根元から捥ぎ取られる。苦痛に喘ぐ奏眞の悲鳴をまるで|音楽《BGM》代わりに簒奪者は繰り返す。血だまりで窒息することも出来ない。
「死ぬなよ?」
優しさなんかじゃない。
助けるための腕を奪ったくせに、傷を塞ぐように癒される。逃げるための足を奪っておいて、丁寧に、乱雑に、適当に、確りと治療するのだ。
ただ、|絶望《くるしみ》を長く与えるために。
「ハハハハハ」
乾いた歓声が響くが、奏眞の喉は枯れて痛みに叫ぶことさえ出来ない。
四肢を奪われ、悲鳴を嗤われ、命を弄ばれて。何度も殺され、何度も癒され、生きる事を強いられる。大事な|家族《みんな》が殺されていくのに。
「そろそろ終いにするか」
そのすべてを|妹はずっと《・・・・・》見せられ続けていた。
優しい兄がまるで玩具のように傷付けられ、弄ばれ、多くの死と悲鳴に圧し潰されそうになる姿を、奏眞越しに妹もずっと見せられていたのだ。
どうしてこんなことをするのか。
どうして、こんな目に遭わなければいけないのか。
赫く濡れた刃が妹に向けられた瞬間、奏眞は否応なく理解してしまった。
彼女は、仕上げなのだ、と。
妹も、気付いてしまう。この瞬間のためだけに自分が生かされていたことを。
幼い兄妹の視線が重なる。
「お兄ちゃ、……――」
彼女が|兄《奏眞》を呼ぶ声は、最後まで紡げなかった。簒奪者の刃は容易く妹の体をバラバラにしてしまった。血が、臓腑が、地を濡らし、奏眞の頬を汚す。
「―――――!!!!!!!!!!!!」
もはや|言葉《おと》にさえ為らない|絶叫《ひめい》。
かろうじて繋がっていた奏眞の|精神《こころ》が粉々に砕け散った瞬間だった。
「愉しかったぜ」
最後まで簒奪者は愉快そうに奏眞を扱い、ただ息をしているだけの|四肢を失った空虚な息人形《廃人と化した奏眞》をおもむろに拾い上げる。まるで『面白い音を出す玩具』かのように。
嗚呼、死ねるのだ。
みんなと同じ場所に逝ける。お父さん、お母さんのところに。早く妹を抱きしめてあげたい。
どこか遠い場所にある奏眞の意識は期待したかもしれない。
だが、簒奪者が施した細工は、慈悲でもなく、なんの意味もないただの気紛れだった。集落を包む|炎《あか》の中でも生き残れるように、奏眞に細工をする。生き地獄の中へ縫い止めるように。
「じゃあ、|またな《・・・》」
悲劇であり惨劇。幼い少年の心を踏み躙り砕いた簒奪者の狙い通り、奏眞は生き残ってしまった。なにもかも抜け落ち廃人同然となった奏眞の|感情《こころ》は欠落することなく、あの日の赤い地獄の中に取り残されたまま帰って来れない。燃える炎の中で灰にもなれず燻り続けている。
だからこそ、再び奏眞が壊れてしまわないよう、彼の|保護者兼専属整備士《Anker》により記憶は封じられた。
――|悪夢《あの日》に、|また《・・》、全てを奪われないために。
|日常《すべて》が終わり、始まった日へ、戻ってしまわないように。
ふと、奏眞は目を覚ます。
戦闘が終わったタイミングで気を失ったことを緩やかに思い出し、現実を取り戻してゆく。夢の記憶だけは曖昧な霧の中で、体も鉛のように重い。
「――起きたか」
奏眞の瞼が開いたのに気付いたウィルフェベナの声が降ってくる。
「ぐっすり寝ていたにしては、休めた様子ではないみたいだな」
「師、匠……?」
どこかの天井越しに覗き込んで来たウィルフェベナは、魘されていたな、とは言わなかった。
きっと、それは言ってはいけない言葉だ。引き金となるようなことは口にしないのが一番だろう。余計な事を呼び起こす必要はないのだから。
「全く、お前さんは根を詰め過ぎだ。だから今回みたいな爪の甘さが出るんだぞ?」
視界も頭もぼやける中、何か答えようと思うのに呂律が回らない。交戦中に見た悪夢のせいだろうか。何を見ていたんだっけ。そうだ、赤かった、気がする。どうしてこんなにも曖昧なのだろう。恐ろしいほどに不確かな輪郭を、奏眞は追いきれない。
「休めていないのなら、ゆっくりしろ。起き上がれるようになる頃にはパイも出来てる」
優しい声音が響く。
何かを言おうとして、何かを思い出そうとして、無意識のうちに胸元を鷲掴んで藻掻く奏眞に、ウィルフェベナは黙って視線を伏せた。
封じられていても、無くなったわけではない。
記憶は確かに奏眞の中に残っている。
覚えていないのに、思い出していないのに。
例えが死が隣り合わせの世界でも、血反吐を吐く勢いで危険地帯を駆け回って人助けをし、率先して戦場に往く奏眞は、生き急いでいるかのように見えた。
自分が幸せになるくらいなら、誰かのために何かしようと、誰かを守る為に強くあろうとしている。
誰かを護り、助けることが彼の存在意義であるかのように。
それは|あの日《・・・》からずっと続いている。
皆を見殺しにしてしまった自分にそんな資格がないと思うから。|精神《そうま》を護るために彼にとっての|始まり《きおく》を封じていても、心の片隅で燻る|火種《アカ》は|奏眞《こころ》を蝕み続けているのだ。
まるで、贖罪のように。
(バカ弟子が――)
そんなはずはないのに。
奏眞を好いて選んで契約した精霊たちが何度「違う」と諭しても、彼の思いは変わらない。
「焦らんでもいい。『急がば回れ』と言うだろう」
ほら、と起きようとする奏眞の体をウィルフェベナが押す。
飛んできた小言にぐうの音も出せず、奏眞の身体は容易くベッドに沈む。以前にも似たような|失敗《やらかし》をしたのに、今回も迷うことなく飛び込んだ自分が悪いのだから、大人しく寝る体制に入るしかないようだ。
奏眞は再び睡魔に意識を揺さ振られる。
|戦場《けつまつ》が知りたいのに、と抗う奏眞の視線を察したウィルフェベナは苦笑するしかない。
「あの後どうなったかは、お前さんがもうひと眠りしてから教えてやろう」
師匠は何でもお見通しだ、と今度こそ奏眞は微睡みに従い、夢の世界へ沈んでゆく。
「ほら、今は休息の時間だ」
弟子を気遣う師匠の声に導かれた意識はストンと落ち、――やがて規則正しい寝息が聞こえ始めた。
まだ見ぬ錬金術の果てに辿り着くために生身を捨て、|寿命など関係ない存在《インテリジェンスウェポン》となったウィルフェベナにとって、気紛れに結んだ|縁《弟子》の行く末を見届けるのは長命でいる理由が増えた程度のものだったが、今ではこの穏やかな時間に時間を費やすのは悪くないと感じていた。悠久に近い時を過ごす身の上で生存意欲を満たすには十二分だと。
だからこそ今度はどうか|闇《あくむ》ではなく柔らか布の中へ沈んでくれと願う。
眠る奏眞の頭を撫でてやりながら、ウィルフェベナは穏やかな寝顔を見守っていた。
「|ムゥム《夢の精霊》が安らぐ夢でも見せてやっているんだろうな」
今は、それで良い。
いつかは直視しなければいけない|現実《きおく》かもしれなくとも、未だに不安定で歪な精神を抱えた奏眞に必要なのは、賑やかで、穏やかで、心躍るような|思い出《こうふく》だ。
今回のように|少年《そうま》の抱える|記憶《かこ》が少しでも顔を出せば奏眞という人間を再び|深淵《はいじん》へ突き落しかねない。抱えきれぬ|悪夢《トラウマ》に引き摺り降ろされ二度と目が醒めなくなる危険性があるのだから。
|引き金《スイッチ》になりかねない|色《アカ》は日常に溢れている。
奏眞を守る為、|ルミィ《光の精霊》や|ファム《火の精霊》の|補助《フォロー》は必要不可欠だ。
ウィルフェベナの鮮血とも評される緋色の長髪も含め慣れ親しんだ|色《けしき》として、長時間の直視こそ出来ないが『アカ』を思わせる火でさえ、日常生活では支障が出ない程度に奏眞の視界に溶け込ませていた。小さなキッカケも踏ませぬよう、気を遣いながら。
そして奏眞が恐怖を思い出しても、引き上げるための絆があれば前に進めるはずだと手を引き続けている。この優しい少年が笑顔でいられるように、彼の|心《せいしん》は緩やかに、少しずつ、ウィルフェベナや精霊たち、そしてAnkerに見守られながら育まれている最中なのだから。
他人のために命を懸けられる者の幸福を望んで、何が悪い。
「さて、と」
きっと瞼の裏に焼き付いた『|悪夢《アカ》』なもう彼の夢に入り込めないだろうと信じ、ウィルフェベナはそっと立ち上がる。
今は無性に、彼に初めて作ってやったパイを焼きたい気分だったから。
甘さは赦しの匂い、温度は帰る場所の形をしている。今日を生きる理由を積み重ねるようにパイ生地の間にクリームでも仕込んでやろう。
次に奏眞が目覚めたとき、今度こそ幸せを受け取ってくれるように。飲み込んでもらえるように。
パイが焼ける間、ウィルフェベナは|アトリエ《テント》から少しだけ顔を出した。
|悪夢《たたかい》の気配は既に感じられない。
涼やかな風がそっと彼女の頬を撫でて室内へ滑り込み、ベッドで眠る奏眞の髪を、さらり、と一房揺らす。風はテントの中を巡るように通り過ぎていき、奏眞の枕元に何かを落としてゆく。
彼に寄り添うように落ちていたのは、淡い色の花弁。
「きっと、大丈夫さ」
祈りにも似た願いをまるで己に言い聞かせるように、誰かに伝えるように、ウィルフェベナは呟いた。
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