|Πάντα ῥεῖ.《パンタ・レイ》
◇
“いいかい あの名を呼ぶときは気をつけるんだ”
それは個の名前ではなく 連なる「理(ことわり)」
古い皮を脱ぎ捨てては 新しい肌を纏い 誰でもあって 誰でもないまま そこに在る
彼女たちが微笑むとき 背後の森も共に笑う 決して一人では来ない そして決して一人では去らない
残された影の中に もう一人の彼女を見つけても 決して覗き込んではいけないよ
――そこから、こちらを見返されるからね
●
寒気が地を這い、夜の草原は息を潜めていた。
風に揺れる枯れ草は疎らで音を立てず、瞬きもせず冷たく光る星々も遥か遠く感じる程、すでに世界は死に寄っている。
そんな中、俯せになっている屍めいた影が一つ。
幼い身体は何度も引き裂かれ、衣服は裂け、血は黒ずみ、土と区別がつかなくなっている。
呼吸は浅く、喉が震えても咳をする力は残っていない。ただ完全には止まっていないというだけの命が、そこにあった。
と、音も無く夜空が割れる。
緑と青、淡い紫が混じり合い、暗い天蓋に光の川が流れだす。
冷たい夜を照らすそれは、祝福でも吉兆でもない。
そこに“現れた”現象だった。
今際の際に居る少年の瞳が、その光を映す。
死に瀕して霞んだ視界の中で、オーロラだけが異様なほど鮮やかに記憶に焼き付いて行く。
さく、さく、と草を踏む音。
重くも軽くもない足音が、一定の距離を保って近付く。
少年には、もう音の主の輪郭は見えない。ただ冷たい気配と、獣の体温だけが僅かに分かった。
見下ろす視線が、少年の瞳に留まる。
閉ざされることなくオーロラを映した、その美しい色変わりの瞳に、ほんの一瞬興味を引かれたかのように。
「死ぬの?」
同情も急ぎもない。
問いとして放たれた声は澄んでいて、抑揚がなかった。
少年は唇を微かに震わせ、音にならない息を漏らす。
やがて掠れた声がようやく形を取った。
「……ぃ、ゃだ……」
女は続けて尋ねる。
「生きたいの?」
返事は、言葉にならなかった。
微かな頷きを見て取った女は、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
枯れ草を踏み、少年と同じ高さまで視線を落とす。外套の影が広がり、空の光は遮られた。オーロラの揺らめきは、もう少年の目には届かない。
「そう」
小さく、確認するように女は呟いた。
それから淡々と告げる。
「なら、叶えてあげる」
声の調子は変わらない。救済を告げる声音でも、取引を持ちかける調子でもなかった。ただ、結果を述べるように。
「その代わり」
女の言葉に、少年は反応できない。意識は揺らぎ、ほとんど闇に沈んでいる。それでも耳だけが、辛うじて声を拾っていた。
「あなたは、今より我らの庭、草木の苗床、命の養分。|永久《とわ》にその身を捧げなさい」
理解も拒否も無く、少年の身体が軋んだ。
骨でも肉でもない何かが内側から弾け、皮膚を破るようにして新緑の若木が背を伸ばす。
枝は絡み合い、幹は脈打つように太くなる。痛みの悲鳴は上がらない。声を上げる為の力さえ、もう残っていなかったのだ。
軈て目線の先に、異物が現れる。
幹に縫い留められた脈打つ心臓。まだ温もりを失わず、規則正しく拍動している。
狼が一歩前に出る。
鈍い音。少年の意識には、一瞬後に至近距離に落ちた狼の首の輪郭……その特徴的な耳の形だけが、最後まで消えずに残っていた。
女は、狼の胸から心臓を取り出す。
次いで、自身の掌を刃で裂き、血を流す。二つの心臓をその手で握り潰すと、濁った音と共に、それらは煌めく深紅の石へと変わった。
女は石を人差し指と親指で摘み上げ、掲げる。
仰ぎ、口を開き、何の躊躇もなくそれを飲み込んだ。
そうして女が若木を抱くと、その一点を中心に大地が応える。
まるで|鉄の森の揺り籠《アングルボダ》を編むかの如く根が走り、幹が立ち上がり、次々と樹が生える。草原は歪み、夜の中に森が形を成していく。
女は、最後にひとつだけ言葉を落とした。
「安心して?」
その声は、やはり澄んでいる。
「その力で餓えを満たそうとし続ける限り、あなたの魂はこの地に縛られない」
祝福なのか。あるいは、何らかの宣告か。
答えを返す者は、もういない。
●
それから、そう長くないうちに。
呪われた魂が彷徨い、軈て再び人の形を取った頃には、夜と森はすでに馴染んでいた。
少年だったもの――システィア・エレノイアは静かに立ち上がる。
身体は人のまま、頭には狼の耳があった。風に揺れて微かに動くそれは、まるで最初からそうであったかのように自然だ。
不思議と尻尾だけは存在しない。
理由を考えることはなかった。考えようとする前に、身体が動く。
森を荒らす侵入者が現れれば、少年は静かにそれを狩った。
竜漿の魔力を物質へと変え、大剣にも、槍にも、刃にも変えて、淡々と振るう。血に濡れることを厭わず、命を奪うことにも躊躇はない。
それは怒りでも、憎しみでもなかった。
ただ、必要なだけ。
永久に、どこかで吸われ続ける命を補うために。
飢えを満たさなければ、立っていられないから。歩き続けられないから。
夜の森に、血の匂いが残る。
それが、彼が「生きたい」と願った結果だとも知らずに。
◇
鉄の森の蔦が 心臓に深く根を張り 個としての私は 静かに名の中に溶けていく
私は私であり 私ではない私
魔女《イアールンヴィジュル》――この名が私を縛り この名が私を不滅にする
鉄の葉が降る夜 私たちはまた 一つの意志に還る
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴 成功