藤血之家
お前は役立たずの半端者だと罵る祖父の、やけに嬉しげな下卑た吐息を、よく覚えている。
八代・和茶(千紫万紅の藤花・h00888)の身は生まれた折から代替品である。三千年に届こうとする八代家の歴史は、今を生きる誰よりも重いのだ。八華姫尊の神子と選ばれて、花の盛りに命を散らす――女たちの辿る命運に違わず、死ぬために生を受けたに等しい娘は、殊更深く死の因業を纏っていた。
生まれついての重篤な病は臓腑を蝕み、務めを果たすことはおろか立ち上がれる日すら殆どない。健常な身の幼い少女であれば酷に感ずるであろう幽閉の憂き目も、元より誰かの手がなくば命を繋ぐことも難しい和茶にとっては己の境遇を補強する、出られもせぬ檻にすぎなかった。
或いは代替品でさえなければ、顧みられることこそなくとも、今より幾らか幸いの光の差す生を送れたやも分からない。
体調の良いときの方が憂鬱だった。祖父は和茶の様子をよく気に掛けたが、それは彼女を慈しむが故のことではなかった。下手を打てば何をせずとも死に至りかねぬ弱い孫娘に、あらゆる鞭を打つ日を心待ちにしていたのである。
女が神へ命を捧げて死ぬ以上、八代の矢面に立つのは男だ。順当なる巡りによって妻を喪い元よりの傍若無人が尽きせぬ支配欲に変わったか――亡き細君の面影を宿しながら、純血を史上とする男の意に反し外様の血によって生まれた弱い孫に歪な欲動の全てを吐き出しながら、男はいつも楽しげな表情で和茶を罵っていた。
「口惜しい。藤子が生きてさえいれば、お前のような出来損ないがお役目を賜ることもなかったものを」
◆
八代・藤子は、その名に恥じぬ麗しき娘であった。
和茶よりちょうど干支の一周するほど年上の異母姉である。神へ捧げられた先代が、父との間に残した次代の神子は、誰もの目を惹く美貌と共に生まれ落ちた。
整った面差しと均整の取れた体は八華姫が再び現世に姿を現したが如く、宿した霊力も歴代のどの神子よりも優れ、淑やかで恭順でありながら芯を一つ据えている。大人びた藤子をして、八代の人々は口々に賞賛を零した。
最強の退魔巫女にして八華姫の生まれ変わり――神を祀る立場にしてみれば些かならず不敬な発言ですらも、彼女を見れば誰しも得心するほかにない。
唯一、皆が閉口する悪癖といえば、一向に婿を取らぬことだけであった。
八代の女の盛りは短い。殊に神子と選ばれる宿命にある者は尚更だ。儀式が訪れるより先に子を残し、次代の贄と成すためにも、急ぎ分家筋より婿を選ばねばならぬ。
初潮を待って舞い込む縁談は恐ろしい数になった。藤子ほどの力を持つ女が掛けられる期待は重く、本家より指名を受けた歳の男たちは麗しい彼女の相手に選ばれることを密かに期待していたことだろう。
しかし藤子は一度も首を縦に振らない。それどころか婚姻の話そのものを忌避している様子であった。祖父に命ぜられれば致し方なく見合いの場に足を運びもするが、結局は留保に留保を重ね、最後にはすげなく断ることを繰り返す。
ついに痺れを切らした権力者らの合議で、もう一つの|胤《たね》が宿される。苦渋の決断であった。いかにしても口を固く鎖し、ただ首を横に振り続ける藤子を期限に至るまでに説得するよりも、代替品を一つ用意する方が早いと判じたのである。
しかし当代にあたる男――藤子の父を婿として取った女は既に捧げられこの世にいない。分家筋の入婿に宛がわれたのは、八代にしてみれば外様の陰陽師であった。
土御門家から来た女は、しかし純血を重んじる先代の支配する家では良い扱いを受けなかった。ようやく生まれた子が望まれた娘であったことは幸いだったが、同時に体調を崩して死したこと、遺された娘もまたひどく虚弱な身であったことは、八代に纏わる純血への信仰を一層堅固に仕立て上げた。
それでも――和茶と名付けられた娘は、大人たちの渦巻く思惑の眼差しを受けながら、素直に父と藤子に懐いた。
年の離れて大人びた異母姉は、和茶のことを母の代わりのように可愛がってくれた。父は祖父にこそ恭順にあるほかない様子だったが、娘たちには優しく接してくれていた。熱に浮かされ、胸中を締め付ける病魔に魘されながらも、幼い娘は細やかな幸福を摘んで命を繋いだのである。
しかし斯様な薄氷の幸福は長くは続かない。
藤子は青年になろうとしていた少年と手に手を取って駆け出し、呆気なく捕らえられた。
初めて彼女が彼に出会ったのは十になる頃である。自らに課せられた死の運命を飲み干しながら、短い盛りを持て囃されるばかりの日々を送っていた彼女の前に、八代と関係のない少年が現れたのだ。
広大な敷地に迷い込んだ彼は、藤子に外の世界の気配を運んだ。閉塞された屋敷の中で死を待つばかりだった彼女の裡に芽生えたほんの僅かな羨望は、斯様な地に迷い込んだ少年が|始末《・・》されぬように送り届ける間に大きく膨らんで、少女の胸に深く絡みつく恋心と取って代わった。
目を盗んでは逢引きを繰り返す。まるで前時代的なやり方だった。しかし時代そのものを知らぬ旧家の裡にあっては他に策もない。やがて漫然と迫り来る刻限と、眼前にて笑ってくれる少年の笑みとを天秤にかけて、藤子は後者を選び取りたいと願うようになった。
一緒に逃げよう――と、声変わりも終わった青年が誘う外の世界に、一も二もなく頷いたのは、恋の宿した眩しさに目がくらんだというべきであるのかもしれない。
外部から|誰か《・・》が訪れる分には無頓着であっても、当代の神子となるべき娘が外に出ることを、八代の者は絶対に許さない。幾度も経験を積んだがゆえに執心を甘く見た青年と、外に出たことがないがゆえに道筋すらも上手く描けなかった藤子のほんの衝動的で拙い計画は、容易に看破されたのだ。
「このような無体が上手く行くはずがないことは、常のお前ならば分かったことだろうに」
祖父が激高しながら嘆くように姉を罵るのを、和茶はほんの僅かに開いた障子の隙間から見詰めていた。
折りしも体の調子の良い頃合いだった。昨日まで続いた熱も下がり、ようやっと身を起こしても咳の出なくなったところである。朝から姿を見掛けなかった藤子に、早く復調したことを伝えたくて、常であればまどろんでいる時間にも目を開けていたところだ。
給仕の運んで来てくれた茶で喉を潤し、疲れれば身を横たえる。そうこうしているうちに何やら外の騒がしいことに気付き、掛け布団を引き摺りながら障子をそうと悟られぬよう開いた。その先で項垂れているのが、待ち侘びていた姉と見知らぬ青年だった。
取り囲む使用人たちの表情は物々しい。そっと視線を動かしてみれば、滅多に見掛けぬ重役までもが集まっているようだった。父の姿は見える範囲にはない。祖父の背が怒りを湛えているのだけが、視界の中央に映っている。
やり取りはよく覚えていない。
ただ、姉はお許しください――と言った。
聞いたことのない弱々しい声での要求が呑まれることはなかった。無言のまま祖父が腕を振り上げる。同時に、二人を取り囲んでいた人々が身を引くのが見えた。
陽光を受けて鈍くぎらつく鉄斧が、柘榴のように青年を叩き割った。
悲鳴は女のものだった。半狂乱で何度も名前らしきものを呼ぶ藤子を前に、祖父の冷ややかな背は何も言いはしなかった。
今にして思えば想定外だったのだろう。泣き叫ぶ姉が懐から取り出した刀へ、人々が反応したときには遅かった。喉を貫いたそれから零れ落ちる紅色と、痙攣する二人分の体から失われていく魂の気配だけが、和茶の眼差しに焼き付いている。
――和茶が六歳になる、ちょうど前日のことだった。
◆
かくして和茶は神子と選ばれた。
もはや他に誰もいないのであるから仕方のないことである。四畳半ばかりの狭い宮には誰の目も届かない。そのくせ様子を確認しに来る使用人たちの眼差しはひどく無慈悲で、いかに和茶が不調を偽れど、つぶさに見抜いて祖父が現れる。
あらゆる鞭が振るわれた。身を傷付け、心を引き裂き、花を踏み荒らす――祖父の絶対的な権力を前にして、入婿の父には当代といえども逆らう力がないことは、彼女も理解していた。
幾度も逃げ出そうと策を巡らせた。殴られているときには激痛と逸る心拍で殆ど何も考えられない。代わりに罵倒の言葉を茫洋と聞きながら天井を見詰めている間には、幾つも策を巡らせていた。
その――。
どれも、祖父の|逃げ出すこと罷りならぬ《・・・・・・・・・・・》の一言で、奇妙に阻まれた。
何故逆らえぬのかも分からぬまま、彼女はただ死を待った。しかし定められた運命の訪れるより先、数奇な異能によって八華姫の力を降ろすに至った命は結ばれた。ますます留まる理由を失った彼女が家を出ると伝えたそのとき、祖父は常と変わらぬ拳で彼女を殴りつけ、押し殺した呪詛と共に睨みつけた。
「覚えておけ、|万咲《・・》。八代の女が幸せになれる筈がない」
◆
かくて藤は初めて自らの足で歩み出す。広大な世でやがて知った甘やかな光に焼き付いた鮮血を重ね、まどろみの裡にも悍ましき喪失の気配を覚えながら――。
未熟な蕾はなお揺れる。やがて咲き誇るときを待って、音もなく。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功