モノクローム・サンシャイン
『わ~|悠悠《ヨウヨウ》ちゃ~ん!』
甲高い子供の声が、柵の向こうから聞こえてくる。
――ああ、わだすになにかごようだべさ?
見上げる向こうには人、人、人。
動物園に訪れる、おおよそがなにかを欲して呼びかけてくる。
――およそ、手をあげて欲しいんだべな。ほーれ。
ごろりと転がっていた姿勢から、座り直し両手をあげれば甲高い黄色い声援。
『可愛い~!』
『お礼におやつあげるね~!』
――あらどうも。お安い御用だべな。
投げられた大きめにざっくり切られた輪切りのりんごをきゃっち。
そしてそのままをがぶり。
愛嬌たっぷりに呼びかけに応じるこのジャイアントパンダは、動物園の人気の中心にいた。あのときの――|番田《ばんだ》・|陽葉《ようよう》にとって、それが幸せな世界の全てだった。
*
彼女は、純粋な日本生まれ。
日本に寄贈されたパンダ夫妻から生まれたメスの、ジャイアントパンダであった。
登録された名前は、――|悠悠《ヨウヨウ》。
パンダ動物園、などと言われるくらいには沢山のパンダと園内で暮らしており、その人気を担う側の一員である。
来場客は此処ぞとばかりにパンダに出会いにやってきた。だからこそ、言葉を多く聞く機会があったといえる。
まあ、自分の両親パンダだけは、繁殖活動目的で他の園へと移動しているため園内には存在しないが。
食う寝る遊ぶが大好きなごく普通の仲間のパンダたちも居た為に、彼女は一つだって寂しいと思った事はなかった。
もぐもぐと、笹の葉を食べているときも仲間が傍にいたし。
『(あいつめメスだよな?)』
『(おれらより全然でかくね?)』
オスパンダの一部からなにか聞こえていた気がしたが、些細な事だったので聞き流しす日々である。
その頃の悠悠は、日々の暮らしになにか物足りなさを感じていた。
来園者の声になんとなく応じるような素振りをみせるようになったのは……一つは暇つぶしの一環で。
もう一つは、それをすると飼育員の担当者が喜んでいたから、であったのだ。
――わだすあのコの真似をしだけだったんだけど、これでよかったべな?
色んな事に疑問を持ち、すぐに首を傾げていたものだから飼育員の男性に言われた一言が胸を打った。
「さっきの良かったよ!悠悠は素直なコだね~。また誰かが声を掛けてくれたら応じてあげてね!」
――そう?ならよかったべ。
笹をもそもそ食べながら、悠悠は飼育員の言葉を正しく理解して満足していた。
|番田《ばんだ》・|陽助《ようすけ》。
彼は年若い飼育員で、動物の中でパンダが好きだと熱弁し、そのとおりに仕事に勤しむ好青年であった。
「これこれ!絵にしてきたからもう一回説明するからね!」
――ふぅん?成程、そうして欲しいんだべな。
体がやたら大きくてなんかいつも難しいことを考えてる変わったパンダだと、仲間からはわりと思われていたが、悠悠はやはり気にしていなかった。
『おいおい、陽助!パンダ相手に熱心に解説はいらねえから!』
『そんなことないですよ先輩、この子は言えばわりと分かってくれますし……』
『んなことねえだろ、仕事しろ仕事!』
『はぁい……次は絵本、持ってくるからね!』
陽助はこっそりと、悠悠に語りかけて仕事に戻っていった。
――絵本。この間の続き、だべな?
"ばいばいするパンダ"と人気の高い悠悠は、陽助へもばいばいポーズで見送った。
悠悠は人の言葉を理解している。ただ話すことは出来ない。
人の言葉を文字で見てもわからないが、言葉で聞けば理解できた。
それほどに賢いパンダであった。
陽助が持ってくる絵本は、いつも色鮮やかで、めくるたびに新しい世界を教えてくれた。ファンタジーな絵本を見たあとに、不意に空を見上げる。
――この、お空を飛んでる鳥さんは、毎日なにを食べてるんだべな。
ちちち、と飛んでいく自由の鳥は。
動物園の外で生きるもの。何をして、何を生きているかなど彼女の理解は届かない。
――お空の色が夕方になると赤くなるのは、お天道様が眠いからだべか。
カラスが鳴くからお家に帰る、なんて朝の鶏の鳴き声となにかつながりがあるのだろうか?
疑問は増える。新しい知識を蓄えれば蓄えるほど。
人語がこの時点で話せていたのなら、質問攻めにきっとしていただろう。周囲のスタッフからは"そんなことより早く繁殖させろ"と冷ややかな目を向けられていたが、彼は決して悠悠をただの「展示物」として扱わなかった。
『悠悠、君は本当に賢いね。いつか、君とちゃんと言葉で話せたらいいのにな』
――わだすも、たくさんお話ししたいべ。
『話をするのは良いことなのさ、……話せるうちに沢山するのがいい』
陽助は寂しそうに、度々ペンダントの中の写真を見ているのを、わだすは知っていた。身体が弱かったことで子供を出産後、彼の妻は亡くなったらしい。その妻と陽助の間に生まれた小さな男の子がたまに訪れているのを、わだすは知っている。
『だから、悠悠にもいい人が出来たらいいのにね』
彼から繁殖の期待を持たれている事も理解はしていた。これで数回目。
悠悠は、同種のオスに思うところは実のところ全く無い。
彼らは皆、恋愛対象として見られない。同種の仲間。それだけであった。
体格がグリズリー並みに大きな悠悠をやや恐れた目で見上げる視線が嫌だったわけではないのだ。
ただその気に、なれなかった。
『ヨォヨォ、子供欲しいだろ~?』
『……』
ちゃらいパンダに陽気の度が過ぎたパンダ、同じ年に生まれたパンダと何度もお見合いを繰り返した事は覚えているが、スタッフの期待を背に浴びながら無視を決め込んだ。あれらのオスは、恋愛対象というよりやはりただの"同種の仲間"。
パンダのオスたちにはこれっぽっちも興味が湧かないがこの優しくて少しお節介な人間となら、ずっと一緒にいてもいい、と考えていたりもした。
できれば陽助とつがいになりたいと考える程度には。
種族を超えた淡い思慕が、言葉の壁として存在していなければよかったのに。
*
その日の夕暮れが空を覆った。
動物園も閉園間際。静まり返り、来場客が全て敷地の外にでた頃。
誰かが園の周囲を囲む鉄柵を破り不法侵入を果たし――獣の咆哮とも、金属を擦り合わせる音ともつかない異音が響き渡った。
じゃりり、と足で力強く踏みしめて、その姿をパンダたちは見た。
その存在は、外から現れて、パンダの敷地へと侵入した。ギラつく視線。恐ろしく鋭い牙と爪。
『うまそうな動物共が飼いならされてんなァ~?』
ジュルリと舌なめずりする二足歩行で、全身に斑紋を宿した異形の化け物――。
『人食いジャガーの俺様は!野良ジャガーのジャガール様だ!!俺様は常に、腹ペコなんだ、ぷくぷくに太ったパンダでも何でも食い尽くしてやるぜ!飼い慣らされるだけの野生を失った可哀想なアニマルはな、喰われてナンボの存在なんだよ!!』
嗜虐的な愉悦を瞳に宿し、身近に居たパンダを鋭い爪でガッと無慈悲に斬りつける。
荒ぶる流血が、白と黒に赤色を足した。血の匂いが充満する。
パンダたちのパニックを起こし、檻の隅で重なり合って震えている怯えた声を聴いて、スタッフがやってきた。
『おい……逃げろ!みんな、逃げるんだ!』
誰よりも早くきた、陽助の叫び声が響く。柵は既にジャガールが破壊した。なんとか逃げ出してくれれば死ぬことはないから、と。保護するのはこっちの役目、今はいいから死ぬな、と。
悠悠はこの時、生まれて初めて「本能的な恐怖」に体を竦ませた。
――な、なんだべ……あの、禍々しい気配は。
足が震え、動けない。
ジャガールは√能力"ハンティングチェイス"を応用していた。短距離狩猟の体制を取ることで、移動力と戦闘力を3分の1にしてはいたが、それでもジャガーの早さも、攻撃テクニックも温室育ちのパンダ達には脅威としてしか映らない。
『次はどいつだ?』
『悠悠に……他のパンダたちに、それ上、触らせるか!』
爪についた血を舐めながら、ジャガールは――事もあろうに、パンダ好きの好青年を狙った。
陽助は慌てて手近にあった清掃用のブラシを手に、化け物の前に立ちはだかった。
――だめだべ、逃げてけろ!
悠悠の心の叫びは、悲鳴となって喉に詰まる。
ジャガールの鋭利な爪が、空を裂いた。
赤き色を輝かせた死の一閃。
陽助の胸元が、無残にもえぐられた。ブラシは何の防御力も示せなかった。
鮮血が、悠悠の目の前の地面を真っ赤に染め上げた。
『パンダより脆くて呆気ねえなあ、人は。ケケケ、絶命する前に腹に収めてやるぜ?』
『あ……、あ……』
力なく崩れ落ちる陽助。その体から温かな生命の灯火が消えていくのを、悠悠はただ見ていることしかできなかった。ジャガールは、血に濡れた爪を舐め取りながら、次は悠悠の喉元を狙って跳躍した。
『腰を抜かしたパンダちゃん?次はテメエの番だ!!』
その瞬間。
悠悠の脳内で、何かが「パチン」と弾けた。
――わだすの、居場所を。
視界が真っ白に染まり、全身の細胞が、未知のエネルギーに沸騰するような感覚。
√能力者としての、覚醒――悠悠の欠落は、此処にはじまった。
能力者覚醒の片鱗か、かなり知能が高かった部分もまた、昇華される。
「なして……なして、奪うんだべ……!!」
そのパンダは突然口を利き、二足で立ち上がり。
「――ア、ガ、アアアアアア!!」
パンダの鳴き声ではない地響きのような咆哮とともに、悠悠の拳に力を与え始める。
"|百錬自得拳《エアガイツ・コンビネーション》"!
振り抜いた第一の拳は、ジャガールの顔面を穿った。
どごぉ、と遠慮のない重い一撃。
『調子に乗るなよ、クソアマが!』
血まみれの爪をジャガールが向けてきたその腕を、悠悠はがしりと掴んだ。
避けることなく、怪力任せに。
まるでお気に入りの丸太を抱きしめるが如くがっしりと。
『ガッ……!?』
ミシミシと骨の砕ける音が響く。ジャガールの顔が驚愕に歪むが、もう遅い。
第二撃の拳を避ける事が叶わず腹に二撃目を食らった。
悠悠は、覚醒した知能と膂力を全開にしその化け物を力任せに地面へと叩きつけた。
ばきり。完全に折れた腕は粉砕レベル。これでは使い物になるまい。
凄まじい衝撃波が檻を破壊し、コンクリートに深い亀裂が走る。
かつて愛嬌を振りまいていた「ばいばいするパンダ」の面影は、そこにはない。ただ、愛する者を屠られた復讐の鬼と化した、巨大な獣が居ただけだ。
やがて我に返った悠悠は、仲間のパンダたちに目を向けた。
「――みんな……大丈夫だべか」
脅威を斃し、仲間を救った英雄に向けられていたのは――極まった怯えの表情。
仲間のパンダたちは救世主であるはずの悠悠を見て、檻の奥から動かない。その瞳には感謝ではなく、得体の知れない怪物に対する「恐怖」が宿っていた。
そして足元には、もう動かない陽助。遠くから聞こえてくるサイレンの音。
「――ああ。わだす……もう、此処にはいられないんだべな」
*
その日。人気者パンダは姿を消した。
陽助の胸ポケットから覗いていた、彼の名前が書かれた名札をそっと抜き取って消えたのだ。
「『番田・陽助』の苗字と「陽」の一字を貰い、わだすは陽葉として、生きる。
暮らしていた名を当て字と名残に添えながら。
行き先はわからない。何処へでも行こう。
「……わだすには、やらなきゃいけないことがあるべな」
知らない名前(√能力者)、知るべき名称(簒奪者)。
それから、今後のこの拳が救えるもの。
一頭の巨大な影が、夜の街へと消えていく。
――見ててけろ、教わった言葉と知識。
――それから、この力で……。
その背中は、悲しみを知る「おばちゃん」のような強さと、決意に満ちていた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功